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兎跳ぶ湖(うみ)

…八ッ場の辺りは、小さな温泉街と、どこにでもあるような田舎の風景が残っていた。
小さな沢や、滝が多くあって、それらが吾妻川に流れ込んでいた。

小さな沢は、三面コンクリートの水路となって、やがて水中に没して消えた。
小さな滝も同様だった。
崖に張り付くようにして建っていた温泉宿やホテルは、取り壊された後に崖ごと削られて、採石場のような丘になった。

吾妻線の旧線は、鉄路を撤去した後、一部の橋梁を残し、更地となった。
小さな家々や、林や森、道路などもみな跡形もなく消えた。
田畑も、墓地も、寺社や石仏なども消えた。
移転した施設も多いが、あれだけ多くあった道祖神などはどこに消えたのだろうか?。

本当に何もかもが消え失せた。
その上に巨大な新橋梁が建ち、広い道路が作られ、景色は一変した。

やがて水でダムが満たされ、今は何事も無かったかのように湖がある。
子供の頃にバスに乗って通った、狭い国道も今は水底だ。
「熊」を飼っていた小さなドライブインがあり、紅葉の時期など結構盛っていた。
幼い日の思いではみな、今はこの目で偲ぶこともかなわなくなった。

古びた湯屋も、山の上の露天風呂も、温泉芸者が髪結いしたであろう美容室もない。
温泉卵を作るために生卵を置いていた雑貨屋も、卵を茹でることが出来た温泉の源泉も水の下だ。

「山木館」のそばにいたムササビはどうなったろう。
飼われていた大人しい柴犬は、もう死んでしまったろうか。
懐かしさ、寂しさが去来する。
水面はただ静かで、何も答えてはくれなかった。

壊しながら作り、また壊しながら進み続ける。
人って、どこに行くんだろう。
どこに向かって往くのだろう。
兎跳ぶ、蒼青い湖面を見ながら、そんなことを考えていた。

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