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撮りに行く自分/撮っておきたい自分。

向日葵を撮影に行った。
向日葵畑は観光農園だから、ある時期になると刈り入れを始める。
するととても侘しい状態になってしまって、撮影もそこそこにして移動してしまう。

今回はほぼベストで
(ただ青虫が多く花に付いてた…異常な暑さのせいかもしれない)
溜飲を下げた感じ。
数年かけてやっとベストな時に出会えた。
ああ良かった、めでたしめでたし…だ。

…これで多分、ここには暫くは行かないだろうと思う。
目的は果たした…だからもう行かないでも良い………。

…うーん、何かが違う。
何の為に出掛けたのか?。
そのことが引っ掛かってくる。

勿論それは物見遊山。
ちょっと行ってみたい場所だったから。
それにプラスで「良い写真が撮れそうだから」という実利も付いてくる。
実際にキレイな場所だったし、天気も良くて、良い夏の写真が撮れたと思う。
目的は成功に終わったハズだ。

向日葵畑に向かう途中、コンビニに寄って小休止した。
車内でエアコンをかけて寝そべっていると、フロントガラスの向こうに白い入道雲と、一本の垂れた電線に、聞かぬ鳴き声の鳥が留まっているのが見えた。

「何の鳥だろう?」
鳥の種類が気になる。
超望遠レンズが欲しい。
しかしすぐさま、鳥はどこかに飛んで行ってしまった。
…何の鳥なのかはもう分からない。
そしてもう、全く同じシチュエーションは二度と繰り返される事は無い。

「あの光景はもう二度と無い」
写真機があれば、記録しておけたのに。
超望遠にも対応できる、広角も撮れる、小さめで万能なカメラは無いのか?。

撮っておきたかったのに、手元にカメラがない。
忘れてしまって良いような、些細な光景だとは分かっていても、失った瞬間はもう、二度と見ることが出来ない…だから残したいと思うのに。

「撮りに行く自分」とは、被写体を探しに出掛ける自分だ。
観光ではあるけど、同時に撮影をするという使命を課して臨んでいる自分だ。
そこには出来不出来という結果もある。
他人が評価せずとも、自分が判断するレベルというものがある。
勿論、不出来だから失敗だということでも無く、今回のように再三チャレンジして及第となる場合もある。
…チャンスは何度もある。
それが「撮りに行く自分」だ。

「撮っておきたい自分」は、ほぼ内省的な要素で構成されている。
自分の心の内にのみ存在する光景を、あやかな記憶の中でもみ消してしまわぬように残しておく手段だ。
いつも側にあるカメラで、自分の視野視覚にリンクできるだけのズーム比を持ったカメラが理想だ。
そしてそれは軽く小さくあらねばならない。

…一人の人間が、撮影するという行為におよぼうとするとき、その理由や意思が全く異なってしまうのだから厄介なものだ。
勿論そのために使う機材も全く異なってしまう。

私の場合は、これがカメラ沼を作り上げている主な正体になる。
そして相反していても、どちらも大事で、どちらも嘘ではない。

特に害になるほどではないから、今まで放置もしてきたが…そろそろかな?という気分も少し出てきた気もする。
オール・オア・ナッシングなのか、それともこれからも増殖していくだけなのか…先はまだ見えない。










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