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<あなたへの証し> ~第1の書 『教会への道(1963年4月~2006年10月)』~ <第2章『出会い・キリスト教に戦いを挑む』(2)>

 「正直言うと、それまで僕は宗教は嫌いだし、特にクリスチャンと呼ばれる人々が大嫌いでした。」 

 その僕が、なぜキリスト教なのか?というと、実は成り行き上、ある戦いを挑みに教会に行かなければならないことがおこったからでした。会社の僕の部下にクリスチャンがいました。そのクリスチャンと仕事上の事で衝突したことがありました。どうしても言う事を聞いてくれません。しかも、さわやかに言う事を聞かないのです。僕は、「この人の持っている確信というか信念は、一体なんなのだろう。」と思いました。そして、その人がクリスチャンだと分かった時に、「ならば、相手の土俵に立って話をすれば言う事を聞いてくれるかもしれない。キリスト教を知ろう。」と思い、「教会に行ってみよう。」となったのです。「教会とは一体どんなところで、どんな事をしていて、どんな事を教えているのかを調べに行こう。」と思ったわけです。そして、『礼拝』というものに初めて参加しました。 

 そこで僕は、どうなったか?と言うと、その初めての『礼拝』で、それまで持っていたキリスト教とクリスチャンのイメージは、まったくの間違いだったことがわかりました。その『礼拝』には、賛美の楽しさ、初めて礼拝に訪れた人に対する思いやりとやさしさ、牧師のメッセージの力強さ、そして、世界の平和を願う心と、人々を愛する心に満ちていて、何より僕の不思議レパートリーへの答えがことごとく示された事に驚きました。誰かが僕の事を事前に牧師に話したのではなかろうか?と思えるほどでした。 

 「キリスト教は宗教ではない。キリスト教は『真理』である。イエス・キリストこそが『真理』なのだ。」と感じました。 

 「どんなところで、どんな事をしていて、どんな事を教えているのか調べてやる」どころの話ではなく、僕は幼いころから求めていた『真理』に出会ってしまった感動で心が一杯になってしまいました。これが、本当の神様との出会い、イエス・キリストとキリスト教との出会いであり、『真理』との出会いでした。 

 その後、礼拝を重ねるごとに、聖書に触れるごとに、不思議の答えは明らかにされ、僕の中では「『真理』に触れることができた」という感動が確信に変わって行きました。 

 当初の目的も達する事はできましたが、僕が部下を従わせるのではなくて、僕の価値観が部下と同じになったことは言うまでもありません。

それから8年が経とうとしています。今、僕はクリスチャンです。しかし、『真理』との出会いは、始まりであり、到達地点ではありませんでした。それから8年、波乱に満ちた時間が、僕を待っていたのです。


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