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プラットホーム(015)『ゲームの世界と現実の世界』

 僕は、韓国に来る前は、新潟に住んでいました。そこでは縁あって、ある中学校で剣道部のコーチをしていました。そんなある日の稽古の後、顧問の先生と話をする機会をいただいたことがありました。 

 その時の話題は、子供たちの「試合に勝利する、という目標達成意欲」と、僕らコーチ陣の「勝たせてあげたい思い」の温度差について、でした。

 思うに、義務教育の一環としての部活動、という見方は確かにあるとは思いますが、どの部を選ぶか、どれだけ自分の中学校生活の時間・気持ちを部活動に費やすかは、本人の思い、気持ち次第でありましょう。 

 僕らも義務でコーチしているわけではなく、剣道をしている子供たちがいて、「強くなりたい」「試合に勝ちたい」という思い、目標の手助けをしたい、という思いで顔を出しているわけです。 

 ですから当然、僕らは「試合に勝つためには」という前提で、僕らの経験に従って練習のカリキュラムを組んだり、現場での指導をするわけではありますが、「どうしても、子供たちの思いと僕らの思いに温度差があるように思えます」という話をしたわけです。 

 興味深いのは、先生が言うに、「子供たちはやる気がないわけではない、確かに勝ちたいと思っている、のですが、一生懸命の度合いがわかっていない」ということなのです。「自分たちとしてみれば一生懸命やっている。でもできれば楽をして勝ちたい。」のようなのです。 

 僕らは、「楽をして勝つことはできない」、ということを知っています。子供たちは「楽をして勝つ」という、あり得ない考えをどうして、実生活に置いて、堂々と持ち得ているのでしょうか? 

 ひとつ、大きな要因として挙げられるのは、「ゲーム」です。 

 まったく、別の場所で、ある若者から聞いたことがあります。「僕は、バーチャルの世界に、何時間でも入り込んでいることができます。そうしているうちに、バーチャルの世界のことと、現実の世界のことが混同してくるんです。たとえば、ロールプレイングゲームをしていて、あるアイテムを手にすると、楽をして、クリアしていけるので、現実世界でも、目標にたいして楽にクリアできるアイテムがある、って思うようになるんです。」 

 「バーチャルの世界から抜け出すことが出来なくなる」って表現は聞いたことがありましたが、いまいちピンときていませんでした。ところが、この話を聞いたとき、なるほど、そういうことなのか、と変に納得したのを覚えています。 

 さすがに、僕らコーチ陣を、楽をして目標達成するための「アイテム」とは思っていないとは思いますが、もし、それに近い感覚をもっているとしたら、恐ろしいことであります。 

 僕ら大人は、もちろん完璧ではありませんし、未熟なところはたくさんあります。しかし、10代の子供たちに比べれば、多くのことを経験し、霊肉ともに鍛えられているはずであります。人生を生きる「技」だけでなく、人生を生きる「心」もしっかりと教えてあげなければいけないですね。 

 剣道をする、学ぶ、そして剣道を教える、これは義務ではありませんが、生きるということは権利であり義務であります。子供たちが、その権利と義務を果たしていくために、僕ら大人が「技」と「心」を教えるのは、僕らの大人の権利と義務のひとつなのでしょう。 

 僕はその権利と義務の第一番目として『信仰』を伝えなければと、思っています。イエス・キリストと出会わせ、神様の愛の大きさ、深さ、広さ、高さを教えなければ、と思っています。そして、己の罪と、悔い改めを教えなければ、と思っています。

『イエス・キリストを信じて一緒に天国に行きましょう。』

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