<あなたへの証し> ~第2の書 『新潟への道、新潟での歩み(2006年10月~2011年3月)』~ <第3章『与えられたヴィジョン』>
祈りの中で、与えられたヴィジョンとはどんなものだったのか。
僕が、「罪を認めない心」と「罪を認めて悔い改めたい霊」の葛藤の中にいた時、本当は僕は動けなくなっていたはずでした。疲れ果てて一歩も前に進めなくなっていたのです。それでも、どうして僕は前に進み、この教会までたどり着くことが出来たのか。
僕は周りの風景が流れているので、自分で歩いていると思っていました。そして神様は好き勝手に罪を犯す僕を見かねて、仕事のお付き合いという名目で新潟まで呼び、そしてそこでこの教会と、牧師と出会えた、と思っていました。
でも、それは大きな間違いでした。
どうして僕は前に進めたのか。それこそが与えられたヴィジョンでした。
それは、僕を背負ってくださっていたイエス様の姿と、自分で歩かずしかも、イエス様の肩の上で好き勝手に生き、振る舞い、罪を犯し、時に気づかずイエス様の顔を足蹴にし、イエス様の肩の上で、背中で、ふんぞり返っていた僕の姿です。
イエス様は僕に足蹴にされ血を流し、それだけではなく、罪を犯す僕を見て、血の涙を流されていました。そして、この教会まで僕を背負ってきたとき、息絶えられました。その時イエス様は「間に合った」と小さな声でおっしゃって、微かに微笑んでいました。
イエス様はいのちを賭けて、僕をこの教会まで連れてきてくれたのです。
僕は、この時初めてイエス様と人格的出会いを許されたと思いました。
(了)
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