20180725_病室

闘病記って難易度高いよね


闘病記の好きな子供だった。

別に「この人は病気なのに頑張っててエライなあ」などと感動していたわけではなく、生まれついて重度の医学フェチだったため、病気とか病院とつくものなら何でも読み漁るほど医学モノに飢えていたのだ。なんて危ないガキなんだ。
毎日遅くまで図書室に入り浸り、病院に関するスケベ(猥褻はない)を想像してニヤニヤと笑いながら「こんな日記だったら私も書けるんじゃないか。いつか病気になったら闘病記を書いて大儲けするぞ」としょーもない妄想をするのだった。

時は流れ、ありがたくないことに本当にメチャクチャ重い病気になってしまった。スケベの罰が当たったのだろうか、いやまさか。
この際いつか治ったら闘病記で儲けてやろうと思い、日記を書こうとしたのだが……書けない!無理だコレ。無理。
まず文字が読めない。ペンを握れない。体調が悪すぎて日記どころではないのだ。毎日それなりのボリュームがある日記を書ける患者って、今の自分よりよっぽど健康なんじゃないか?私、末期がんより重症なのでは?なお、この時点では診断がつかず何の治療もしていなかったため当然悪化していく一方で、記憶もほとんどないし、思い出したくもないので省略する。

そして数年が経った。
何がどうなったのかは私にもわからないが、大変な努力の末に法の隙間をすり抜けて新薬を手に入れ、治ってはいないもののとりあえず生命の危機は去った。そして文章が書けるようになったわけだが、ここまできてようやく闘病記に登場する患者と同レベルだということに気付いた。あいつら、健康状態に余裕があるじゃないか……ずるい!

病気になると弱い者の気持ちがよくわかるようになるというがあれは嘘だ。
だんだん性格がねじ曲がってきて「アッ、私より明らかに健康なのにチヤホヤされている。ずるい、死んじまえ」と他の患者を妬むようになってくるのだ。思いやりどころか、奴らはなんてイージーモードな闘病生活なんだろうと腹が立ってくるばかりである。
体調が良くなってくるとそんな負の感情はさっぱり消えて、病人を思いやる気持ちと慈悲の心があふれてくるのだが、悪くなると「あいつら病院で世話してもらえてずるいずるい」という悪い心がもたげてくる。体の具合と精神状態が笑っちゃうぐらい正比例しているじゃないか。
「病気になって感謝の気持ち/人を思いやる心/家族のありがたみを学びました!」なんて話をよく聞くが、そもそも病気というのはあらゆるものを奪っていく存在なのだ。思いやりや感謝など、病気にならなくとも学べる。そのほうがずっといい。平和の尊さを学ぶために戦争を経験する必要はないだろう。
ま、ありがたいと思わんとやってられないのかもしれないが、こちらとしては「病気になって良かったことは何ですか」と質問してくるマヌケがいたらそいつを一瞬で原子分解して壁のシミに変えるつもりだ。目からビーム出す修行をしないといけないな。

それでも無理やり良かったことを見つけるとしたら、死にたくないから必死に勉強するので知識が増えたことだろうか。うーん、無理があるな…。
しかし医学を学んでいて本当によかった。知識がゼロだったら死にかけの脳で1から勉強するのは不可能だっただろう。性癖は身を助ける。でも健康だったらもっと効率よく勉強できていたはずなので、やはり利点と言うのはこじつけに過ぎるか。うん、無理!いいことないですね!

さて闘病記の件だが、まったく書く気持ちをなくしてしまった。個人情報がダダ漏れになってしまうことに気付いたのだ。そんなもんが全世界に出て読まれたら一生の恥である。だいたい、書いているだけで辛いことばかり思い出して精神に悪い影響がありそうだ。というわけで、印税でぼろ儲けという不純な野望は静かにフェードアウトしていったのであった。

まあ、物を書くのは好きなので、それで何かうまいことお金が儲かるといいなとは考えている。なんかいいアイデアないかな~。


フルツとか医学書とか買います