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インターネットと人類

注:これはジョーク記事です

 このように、記事のタイトルからメディオロジーに関するとんでもない大論文でも書けそうな主題を扱うことはすこし気が引ける。しかし、私が私自身のためにも、改めてこの主題について考える事には価値があると思うのだ。とある人がしているように、加筆修正を重ねていく記事になると思うが、ある程度満足する出来になるまでは何のタグもつけないのでご迷惑はお掛けしないと思う。記事のタイトルに惹かれてきた方には申し訳ない話ではあるが、この主題の射程は常に変遷していくものである性質でもあるがゆえ(私はいづれほぼ同一の対象の話になると思っているが)、捉えどころのなくおおきな誤謬を孕む可能性のある記事であることを念頭において読んでいただきたい。また、舞台は一部を除いて日本をメインに話を展開していくので、文化圏の違う海外でも通用するとは明言しない。

1 人口爆発まで。
 これまた波乱を含みそうな比喩を使ってしまうが、私は個人がインターネットの歴史を捉える手段として”人類の誕生”を想像すると良いのではないかと思う。これは”殆どのインターネットユーザーがきっとテクニカルな面に頓着しない”ことを考えての事だ。この記事ではもっぱらインターネットにおける人間のふるまいについて話したいからだ。もし、これに加えてテクニカルな話しをするのならばかなり冗長になってしまうので割愛させていただく。その代わりに、技術面と有名インターネットサイトについて巧くまとめてあるウェブサイトを紹介する。

 話を戻すと、ネット人口は2000年代初期から現在にかけて爆発的に増えている。2011年ごろに日本ではスマートフォンの新規販売数がこれまでのガラケーの半分に匹敵する事態を、人間か大量にインターネットに流れ込む大きな事態―グローバル化、を鑑みれば、2000年代初期まではコミュニティが点々と存在する”未開の民族”に過ぎなかった。We Are Social,Hootsuiteの記事によれば、2018年現在、地球の約半数の人間がインターネットを使っており、またそのうち半数はスマートフォンによるアクセスを伴っているというのだ。人口に対するネット普及率が日本では、We Are Social,Hootsuiteによると93%にも上り、日本国内に限ると27%がスマートフォンによるアクセスであった。また、総務省のデータの2015年-2016年のデータでは普及率が83%で、パソコン・スマートフォンによるアクセスは大体半分づつだった。
 標本の取り方には差異があるにしても、スマートフォン普及以降は着実にネット人口が増えていることがうかがえる(学術論文ではないので証左は割愛、その検証は自分でしてみて欲しいと付言しておく)
 ”未開の民族”(未だに大きなシステムに組み込まれていないという意味)時点でのネットには多くの文化が存在しており、独自のコミュニティのルールを共有していた。「キリ番踏んだら掲示板にコメよろ!」だとか、今では寒いような言い回しもそこでは当たり前だった。今でこそ「〇〇ンゴwww」とか「草」だとかリアルで言っている人がいるが、彼(彼女)らの大部分は10年前には同じことは出来ないだろうと思ってしまうほどには「ネットはネット、リアルはリアル」の考えがあった。当然、人間の事なのでそれらのコミュニティをまたいで接触することもあったし、そのような人物たちの中でも仮面を付け替えながら行動する者もいれば、他の部族のルールを侵害する者もいた。これが、部族の巨大化・崩壊、つまり人口爆発によってその民族内または部族同士の争いを経て今のネットの状態に至っているのだと私は考える。このことに関しては

ここに書かれていることを踏まえて、話を次に進めたいと思う。

2 人間の欲望
 これも実にセンシティブな話題であって、本当は「人間と犯罪」の小見出しを付けてしまいそうになったが、それは良いアイデアではないと思い直してこの小見出しにした。人口爆発から崩壊を経験しながら、生き残ったコミュニティが今どうなっているのかをここで考えてみたい。

・5ちゃんねる
 見事にここはインターネット人口爆発の影響が激しい区域がある。今でもレトロな雰囲気を保つところはあるが、殆どの板は高学歴・高収入・陽キャなどのマウントの取り合いや、アホ同士のレスバトルの場になってしまっている。

・ニコニコ動画
 かなりここは人の入れ替わりが激しいように思える。そしてキッズが実に多い。古参(昔からのユーザー)は日和見主義か、ただ創作して発表を繰り返す実験場のように思っている節があると思う。

・ツイッター
 ちょっと見ない間にパクツイ・出会い・違法薬物販売・バカッターの晴れ舞台、そして見る目を変えるとインフルエンサーたちによるステマの独壇場、広告の場、アルファツイッタラーによる大喜利の会場になってしまっていた。さっさと千秋楽を迎えて欲しい。

・マストドン
 これは人口爆発の中期~後期に注目されていたが、気が付いたら死んでた。もう虫の息だ。ツイッターにすら居場所がない人が群れているところもあり、非常に恐ろしい。

・pixiv
 あまり変わらない。結構平和なイメージがある。ここは不文律が結構あり、オタクの砦といったところか(貶しているわけではない)

・LINE
 普通に使っている分にはなにも感じないかもしれないが、ライン民と呼ばれる人たちは気にくわない相手にマクロを送り付けて携帯をフリーズさせたりクラッシュさせている民度の低い戦闘集団である。主観としては、相手にすると一番時間が無駄になる人種なので関わらないほうが良い。

・ニコニコ生放送
 最初はこのキャスティングのシステムはかなり叩かれていた....日本人はインターネットに顔を出すと言う行為にかなり抵抗があった上に、つまらない人間が多かったから見る意義が見いだせなかったのだろう。そして今、ニコニコ生放送は....よほどのことが無ければ見向きもされないのではないのだろうか。

・FC2
 ただのエロ動画サイト

・Youtube
 これは、私が小学生の頃にサービスを開始した時から親しんできた。HDの動画に対応した時は技術の進歩を感じた。ニコニコと同様に違法アップロードが散見されていたりしたが、運営の統治力のおかげでそれはかなり減少する一方、広告のせいであまり面白くない動画が増えた。これを聞いて驚く方もいるかもしれないが、昔は広告などないサイトだったのだ。広告を入れることでその広告主‐資本とどういう関係になってしまうかの説明は、アメリカの哲学者N.チョムスキーに代弁させよう。彼は「メディアもまた、市場原理による誘導を受けている」と言った。

・・・他にも多くのコミュニティがあるが、マイナーなのを含めては退屈しそうなのでこの辺で控えておく。これらに共通する、コミュニティが活発化する原理というのはやはり人間の欲であると私は断言しよう。
 人間の欲とは、かなり漠然としたものでその捉え方は人によって異なることがある。高名な心理学者や哲学者たちの間でもそれらの解釈は多様になるのでその概念の説明に終始することは避けて、つかみどころのない話を(私には珍しく)しようと思う。ここからは、全くの戯言だと思って読んでいただいてかまわない。
 最近はツイキャス(配信サイト・アプリ)によく出没しているが、そこで見られるのは当然のことながら人間と話したい人間の姿ということになる。例外的に、友人に強要されてやっていたり、キャスに限らず何がしたいのか分からない人もいるのだがここではそのような人々については語らない。殆どの人間は誰かと話そうとキャスを開く、ネットでは人間関係は希薄なものであるので、中にはうまいことコミュニティを築けなければ転生(今のアカウントを削除して別人としてまた始める事)をする人もいる。他方、人と話したい人間のなかには自分の生み出しているコミュニティに固執したり、不器用であるがゆえに悩み苦しむ個体もいる。前者であれば困ったことがあれば全て塞いで転生すればよい、多少の苦しみが伴っても転生をすればスッキリなのだ。この場合、その人は自己実現の欲求に従っているとみなすことができるだろう。ただ、そのコミュニティにおける特色が本人の鏡として表れている場合、何度転生しても無駄なのだが...。
 後者の場合、インターネットそのものが甚大なストレス源になってしまう、こればっかりは避けたいものなのだが、そもそも人と話したいというのはどういう欲求なのか。何が言いたいかというと、そのような人物はネットと現実の折り合いをつけるのがヘタクソなのだと言える。そして実はこのような人のほうが前者より多い。現実の人間関係が絡んでいる場合や、ネット上において”ネットで恋人を作ろうとする”人たちの毒牙にかかる場合もある。このことからもわかるように、後者は複雑怪奇であるが、うまくそのことを解剖してみたいと思う。

3 出会い厨と非出会い厨の境目はない。
 出会い厨という言葉を聞いたことがあるだろうか?おそらく一般的に想像できるのはネットでパートナーを探すのに必死になっている人を指すだろう。しかし、私はこの言葉に少し違和感を覚える。昨今ではこの意義は独り歩きを始めて抽象化しており、まさに出会い厨といえる出会い厨を自分と対比させて自分のほうが人間的に優れているようにふるまう”出会い厨亜種”が居ることは私の経験からして間違いないのだ。生物学でR.ドーキンスがタカ派(攻撃的)とハト派(争いを好まない)の遺伝子の対立があったとしたとき、最終的にはタカ派とハト派の良い所を取った行動をするところに落ち着くと示した(この件で彼を引用したのはわざとだ)。つまり、人間を根本から動かす原理として、初手では嘘をつく・攻撃をするほうが生き残るのだ。あとは勝てそうなら勝負して、負けそうなら引き下がる。自分は出会い厨ではないと見かけ上は嘘ではない確実な嘘をつくことにより、他の個体より優秀なものであることを見せつけよう、あるいは他の個体を引きはがそうという意図が少なからず働いている。これは出会い厨同士の生存競争なのだ。そしてそのような人物はなぜインターネットでそのような行為をしなくてはならないのか?それをよく考えてみる必要がある。出会いがないだとかもっともらしい意見もある、事実そうであることもある。しかし、その相手は真実を述べているか私たちにはわからないのだ。恋愛は、事実から構成されているとは限らない。
 当然、非出会い厨も存在する。とある個体が非出会い厨であることを自負するとしよう。個人間の連絡で使うLINEなど絶対に交換しないし、DMするという行為にも大した思い入れはない。ツイキャスでアイテムを投げたり友達にはプレゼントを贈ったりするが、それ以上は一切なにもないと言い切る。…これを連ねて言ったからといって、行為が伴わなければ何にもならない。これが、境目の規定しづらい原因である。口ではアレコレ言っても、行為そのものが口で言ったことと大きく異なる人は、出会い厨亜種であることを警戒したほうが良い。彼らは厄介だ、もし迷惑に思ったり、それがストレスになるならば、そいつが自分の人生に悪い影響を与えないうちに地平線の彼方へ逃げ去るべきだ。
 ちなみにツイキャスは老若男女問わず利用しており、調査によると児童の性的被害がSNSの中で一番多い(暗数も存在することを顧みれば、むしろ発覚している件数が多いだけよいのかもしれないが)。これは看過できない事態である。私の周りにも未成年、特に15~17歳くらいの女子が多い。恋愛などに敏感な時代を過ごしている彼女らに、心の闇を抱えて依存状態になって果ては共依存になるような恋愛や、面倒ごとを避けた結果どちらかが浮気し放題の恋愛、何のために付き合っているのか分からないけど付き合っている、寂しいから付き合っているだけ、酷いときには事件。それこそ淫行などで性的搾取をされトラウマを植え付けられる事態が起こり得るという事は他人事ではない。この事態を今ここで許すという事は、私たちの後世も同じ目に遭うおそれを残したままにするという事につながるのだ。それでも自分には関係のない話だと一蹴する方にはもう言うことはない。

4 ネットの利用方法から窺い知る人間の性質
 話が横道にそれてしまったので、ネットと人類の話に戻す。私がネットの黎明期を”未開の民族と表現したように、そのコミュニティの在り方は人間の現実での集団の在り方にそっくりなのだ。国内でも多くの派閥はあるにせよ、英語のコミュニティに積極的に飛び込んで行ったりする人はあまりまだいない。英語に苦手意識のある英語圏の人々はその国の言語でのSNS使用にとどまっている、つまり国単位の言語コミュニティの存在があると想像できる。これが壊れることはほぼないと言っていいだろう。英語が出来なくても苦労しないと公言してしまう人物がいる限りは....。
 ※余談にはなるが、英語が出来なくて苦労しない時代はもうすぐ終焉を迎えると私は思う。学術書の翻訳数の減少、出版社の倒産。的外れな英語試験制度の導入。国の中枢が無能すぎて、英語を使わなくても生きていける人々の生活はこれ以上維持するには負担が大きすぎる。もしその人がその代で途絶える家系ならまだしも、自分の子供が欲しいとしたら自分の子供が英語を必要としているのに金以外与えられないと言う”無教養は親として恥”ではないかと考える。
 また、ネット人口爆発からその欲の消化に利用され始めてきたと捉えることもできる。承認欲求、自己実現、寂しさ など、殆どの人間がもつ欲求の爆発も、人口増加から遅れてやってきた。スマホを開けば友達がいる、あるいは自分で枠を取れる、動画にコメントが付いている。などなど、これに救われている人間もいることは確かだが、あまりにも利己的でタカ派な人間はこのままだと得をし続け、利他的で穏健なハト派の人間は損をし続ける。今度は欲求の戦争が始まるのだ。自分を善く、あるいは強くみせたいと思っている人間が周りをうんざりさせる中、ただ黙って聞いている人間が一番損をする。そういった形で時間が奪われ、損をした人間はなにも消化できず、ただただ一方的に殴られた後のような虚無感に襲われる。そしてそういう人は稀にやられっぱなしではなく、他のコミュニティ、SNSで他の人を害してうさはらしをするかもしれない...。
 悲しいことに、これが人間を病ませる事態になる。そして別の人間を害することにもなりかねない。欲のサイクルに巻き込まれると人間は壊れてしまうのだ。これを読んでいるあなたがこのサイクルに巻き込まれていないだろうか?もしそうなら、今すぐそのサイクルを離脱したほうが良い。
 

5 インターネットコミュニティにおけるバナキュラーさ
 そもそも、人間関係とは非常に閉じられたものだという事を前提しておこう。私が見てきた限りでは、インターネットは開かれたものに見えて閉じられた世界にある。この見かけ上の矛盾は何から来るのかというと、その人間関係の構築は当然それぞれの主体が相互に行うものだからであるだろう。その主体の性質によっては、取り巻く環境とはまた別に人間関係を構築する際に選択を伴うのだ。いろいろな人と関わろうという気がなければ、ずるずると友人の友人・・・という風に現実とそっくりな人間関係になる。このことは、自分がどういう人と関わっているのかを顧みてみればわかるだろう。自分がどのような人間と親しくなるかだけではなく、どのような人間と親しくならないかを知ることは決して無駄ではないはずだ。
 こういった関係は、主体(例えばこれを読んでるあなた自身)から離れたある地点をいきなり断絶する。友人の友人の・・・とは言っても、必ず関係の主体から離れるにつれて、自分自身のクラスタからも離れる。つまり友人の友人やさらにその友人が”自分の友人”でない以上は、その人はまた別の人間関係のシステムの中にいる。こういう人との深い関わりは主体の人間関係を大きく変化させるであろうことは簡単に想像できる。例えば人間関係を広く持とうとすると、ある友人とある友人(あるグループとあるグループと言い換えても良い)が仲良くなく自分とは仲がいいという事があるかもしれない。その時にそれを見ている主体はそれらの友人の友人かもしれないが、対立する友人同士では閉じられた人間関係として拮抗が生まれていると解釈できるだろう。このとき対立する友人同士は断絶のあるクラスタではない。クラスタは別だが、自分自身から離れていない閉じた関係の中にいるからだ。
(非常に絡み合った文章になってしまったので、この章についてはまた推敲する)

6 負の人間関係サイクルの離脱
 4章、5章では主に負の人間関係サイクルについてそれとは述べずに触れた。このサイクルは人間関係においてだけではなく、自身の性格にも影響するとも言える。遺伝と環境のうちで選択可能なのは環境だけである。だから、自分自身が想定しうる最良の人間になりたければ、先ずは自分自身がそうなれる環境に身を置くことが精神的に一番楽である。そうでなければストレスでいとも簡単にゆがんだ形に変化してしまう。ここは難しい所で、周りをイエスマンで固めたところでその人自身の研鑽は望めないというのは特筆に値するだろう。本人の望み通りになる環境というのも、性質によっては裏目に出るのだ。遺伝か環境かではなくなってしまったとき、どちらかが極端に影響する。・・・

 まだ数章しか書き終えていないが、果てしなく長くなりそうなので一旦ここまでを公開して筆を置く。最後に、ストア派の哲学者セネカの言葉を引用する。
”最善の人々が最悪の不幸を受けるのを見るとき、人は誰でも自分自身にどんな期待をかけたらよいのか。”ー『心の平静について』より抜粋 

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