自共鳴者設定覚書:蜂須賀東吾①

◆子墨(後の蜂須賀東吾)誕生〜幼児期

若い頃の父・張皓然(チャン ハオラン:以下特殊漢字のためハオランで表記)は、欲しいと思った物はなんでも手に入れなくては気が済まなかった。
親を殺し故郷を追われても、したたかに確実に登り詰め、ようやく自分の城とも呼べる『会社』を立ち上げるに至った、その矢先の話である。

ハオランは、恋をした。一目惚れだった。
相手は日本人の女性、百合恵だった。
会社もろとも潰す予定の若きCEO、その妻にあたる女性だった。
ハオランは、丁度いい、と思った。
邪魔な若造は、自力ではなく親の力で今の地位に座っている。
日本人らしく平和ボケていて、ほのかに甘い香りのするビジネスの話にすぐに食いついた。毒餌だとも知らず。
若きCEOの会社は大きくなるどころか、すぐに借金まみれになった。
ハオランは金がなくなった男を見て、妻である百合恵は愛想をつかせるかと思った。
だが逆だった。
私が支えなくてはと彼女は奮起した。
素敵な女性だとハオランは思った。
ハオランの中で、何かがプツンと切れた。

ハオランは正攻法をやめた。
偽の手紙を残し、恰も百合恵が裏切ったように偽装し、彼女を拐った。
その少し後。
若造が首を吊ったとかなんとか。
いずれにせよ、ハオランにはどうでもいい話だった。
だが百合恵の逃げたい気持ちを殺すには効果的だったようだ。

一年後、子どもが生まれた。男の子だ。
名を子墨(音:Zimo:ズィムォ)と名付けた。
金で買った女が、ハオランの財産を狙って産んだ子達とは違う。
この子は特別な子だと思ったからだ。
百合恵は大人しく子墨の面倒を見た。

子墨が3歳になった頃、百合恵が逃げ出した。
組織内の裏切り者はすぐに見つかったが、肝心の百合恵と子墨の行方がわからない。
どうやら、日本に逃げたようだ、という事まではわかった。
だが、どうもハオランとはライバルにあたる『会社』と懇意にしている組織の世話になったようだ。
日本に着いて以降の消息がわからなかった。

ハオランは百合恵を愛していたが、百合恵はハオランを愛さなかった。
だが子墨はどうだ。まだ3歳じゃないか。
父親が必要だ。そうだろう?
ハオランは子墨を最優先に、血眼になって日本を探した。
だが、もしも……もしも、平和な日本で幸せに暮らしているなら。暫くは様子を見るつもりでもいた。
ハオランが他人を優先することは滅多にない。
それ程迄に二人を愛していた。

子墨が見つかるのは、それから6年が経ってからだった。


◆子墨幼少期

(子墨の記憶)
物心がついた頃から、母の中には二人の母がいたように思う。
それは、年々ひどくなるようにも思えた。
天使のように優しい母と、悪魔のように残忍な母。
天使のような母は、俺の事を様々な名前で呼んだ。
「昇」「隆」「賢太」「勝」「亮太」……
どの呼び方であっても、俺は母に応える必要があった。
「なぁに、母さん」
ちゃんと応えることができれば、母さんは天使のように優しいままでいることが多かった。
返事を返すのが遅れると、悪魔の母が表に出てくる。
俺は、なるべく悪魔の母を起こさないように過ごす必要があった。
時折、話をしている間に、俺の名前が変わっていることがあった。その時はどうしても間違えてしまい、悪魔の母が出て来てしまう。
そうなると、俺は母の気が済むまで、残忍な仕打ちに耐える必要があった。
あといくつか、悪魔の母が起きてしまう理由がある。
「父さんは、チョコレートが嫌いだったわ。ナッツ系のアレルギーなんですって。だからね、私、バレンタインデー困っちゃって。あの人にはクッキーをつくってあげていたの。もちろん、ナッツには気を使ってね。とても喜んでくれたわ」
だから、俺はチョコレートにはアレルギーが"無くてはいけなかった"。ナッツにも。
食事は、かなり気を使って食べた。
例えば、サラダにナッツのドレッシングがかかっていたら手を付けてはいけない。”合格”すれば、母は笑顔でサラダを取り換えてくれる。
他にも、わかりきっているものは絶対に避けた。
祖父や祖母の話……俺には居ない人と、母の仕事の話は、絶対にしてはいけない。本当の父親についても聞いてはいけなかった。俺のこのヘーゼルの瞳が、誰に似ているのかは、永遠にわからないままだ。
それから、母の許しがなく、母の同行がないまま、外に出たり、誰かと話すことは禁じられた。
母は、俺を殺すことはしなかったけれど、死ぬ思いは何度もした。
散々俺を嬲った後、天使の母が戻ってきて俺を抱きしめて言うのだ。
「あぁ、○○。そろそろ良い子に戻ったかしら?今手当するわね、可哀想に」
タバコの火傷も、カッターで斬り裂かれた痕も、熱を孕む事があったけれど、母は俺が無力であれば涙を流しながら賢明に看病してくれた。
たまに来る男が薬を出してくれるけど、この人も俺が熱を出しているとすぐに帰ってくれた。
熱に浮かされている間だけは、幸せだった。
例え病院にかかったことがなくても。

(子墨の発見について)
母子が発見されたときハオランは手を引くことを考えた。
だが、ハオランの右腕である姚静(ヤオ・ジン)とその弟分にあたる刘敏(リウ・ビン)の二人はそれに反発した。(特殊漢字の為、以下カタカナ)
敵の組織に下った裏切り者を生かしておいては示しがつかない。
敵の情報を吐かせて殺すべきだ、少なくとも百合恵だけは殺すべきだ、とハオランを説き伏せた。
また、ヤオがハオランとの押問答をしている間、リウが子墨の様子に違和感を覚える。
怯えるように慎重な会話をしていたり身体が引き攣るような動きをする子墨を見て、リウはハオランに子墨が母親に虐待されている可能性を提示する。

ハオランは、しばらく百合恵を泳がせてから殺し、子墨を回収するように部下二人に命じる。


◆子墨幼少期⇒中国へ

(子墨の記憶)
ある日、母が大きな仕事をするから、食事は自分で取るようにと告げて出ていった。
俺は、直前まで蹴り上げられていたせいか、息をするたび胸が苦しかった。
うまく立ち上がれなくて、その日は這うようにしてキッチンへ行き、生米を齧った。
翌朝も、母は帰ってこない。
野菜室の野菜を囓る。冷たい胡瓜が喉を潤した。
立ち上がれないので、水を飲めない。
トイレにも行けなくて、粗相をしてしまった。
怒られてしまう。着替えなくては。掃除も。
身体に力が入らない。
胸と足が熱い。
痛くて、苦しくて、汚い体で床に突っ伏していた。
夜になり、荒々しく扉を開ける音で目が覚めた。
男が二人、入ってくる。
血の匂いがする。
ああ。きっと殺されてしまうんだ。
そう思ったのに、二人は俺の様子を見て、一人の厳ついの方がが服を脱がせて上から指で軽く俺の体を触り始めた。
何をしているのかわからなかったが、胸と足に触れたとき、痛くて思わず呻いてしまった。
それから、聞き取れない言語。
もう一人がコップに水を汲んできて口に当てる。
流し込まれる水を、胸の痛みに呻きながらもゆっくり飲み干した。
それを確認すると、金髪の方が何かを話しながら俺を抱えて、冷めきった風呂の残り湯におろし、濡れるのも構わずに粗相の跡を洗い流すと、バスタオルで俺をくるんで抱えた。
俺は、混乱していた。
けど、二人が俺を殺す気がないのは流石にわかった。
どうして?この二人は誰なんだ?
訊きたい事はたくさんあったけれど、俺はいよいよ朦朧としていた。
もう、後のことはよく覚えていない。
覚えているのは、灯油と、血と硝煙と、タンパク質の燃える匂いだけだ。

(ヤオ&リウの記憶)
銃で脅せば、女は簡単にこの国の敵対組織の情報を吐いた。
と言ってもこいつは末端の末端だ。
大した収穫にはならなかったが、それでも信憑性の高い噂程度の人物情報をいくつか仕入れ、あとはシラを切り通した裏切者がもう一人あぶり出せそうだった。
上々だろ。あとはガキを一人、連れ出すだけだ。
「暴れるかもな、ママー!ママー!ってよ」
「どうでしょう。まぁ、騒いでも殴れば黙りますよ。…………そういえば、忙しくて一昨日から監視してないですが、家にいますかね」
「いるだろ。お外怖いって感じだったぜ?居なかったらまた考えるさ」
軽口を叩きながら女の家に向かう。
まず眠りこけていた管理人をサイレンサー銃で片づけてからマスターキーを拝借した。
周辺の部屋も全部開けて、静かに、黙々と頭に一発ずつサイレンサー銃で細い風穴を開けてやる。
ドアを開けて入った先で、子供が荒い息をしながら床に倒れていた。
下半身からは、嫌な臭いがする。
「…………おっと」
「……あの女、虫も殺さない綺麗な顔して、やってる事は肥溜め連中とかわらねぇな。おい坊主、生きてるか?死なれたら親父さんに殺されるだろうが」
「ヤオさん、俺が診ますよ」
「おぅ。……見たとこ、脱水おこしてるな。水飲ませてやるか」
ガキを見て、少しだけびっくりした。
ハオランそっくりだ。
不思議なことに顔貌が似ているわけではない。
どちらかというと、お綺麗な母親寄りの顔だ。
だが、目が。
飢えて怯えてなお射るようなヘーゼルの目が、間違いなくハオランの子だった。
ヤオは、こんなことあるんだな、などと思う。
リウの触診が終わって、水を飲ませる。
ガキはむせながらも、ゆっくりと水を飲んだ。
「右足が折れて、左の肋骨二本にヒビが。炎症を起こしてます」
「……本土に帰る前に、まず薬だなぁ。抗生剤の注射持ってきてるよな」
「ええ。俺ら用に一本ずつですがね。量は……ま、調整しますよ」
「よし。じゃぁ子墨坊っちゃま!車を汚さないように、身体をキレイにしまちょうね〜」
ヤオは風呂場らしきところに子墨を連れて行くと、身体を流してやる。
ふと、子墨が何かを怯えたように不思議そうに見ていることに気づく。
目線の先では、ヤオのズボンの裾と靴が汚物の混じった湯で濡れていた。
「なんだ、こんなことで俺が怒るとでも思ったのか。いいんだよ、わざわざ汚れ仕事するための服なんだからな。とっくにお前の母ちゃんの血とゲロで汚れてんだ、ここで洗い流せばちょうどいいさ……、っと」
子墨は、少し力が抜けたようでふらついた。
朦朧とした表情から、意識を失いかけているように思える。
「チッ……手のかかる。リウ!バスタオルよこせ」
「もう置いてあります。自分は残りのアパート連中殺してきますよ。あと2部屋ほどあったはずだ」
「…………よくできた弟分だよほんと……先戻って着替えてるからな」
「ええ。あとは任せてください」

車に戻るころ、子墨の意識は完全に落ちていた。
「リウが戻ったら抗生剤打ってやるからな。そしたらオジサンたちとパパの国だ。小さなお舟と車で行くからな……それまで持ちこたえろよ。じゃなきゃ、俺達ゃお前さんを埋めてほかの国に高跳びしなきゃならん」
「ヤオさん、終わりました」
「火は」
「もちろん。見ていきますか」
「いや。お前がやったって言うなら大丈夫だろ。とっととガキに薬打ってずらかるぞ。船が向かってるはずだ」
「はい」
燃えるアパートを背に、三人は漁港へ向かった。


◆中国での暮らし

(以降主に子墨視点、会話メインメモ、小説)


――――約半年後。

「ではこれは」
「木」
「そうだ。木は何に使う」
「木材にする。火をおこしたり、家を建てることができる」
「いいぞ。家を建てた。どんな人間が住むと思う」
「家族。お父さんと、お母さんと、お兄さんと、妹」
「どうしてそう思った」
「男と女、大人と子どもが半分ずつだから、公平だと思った」
「なるほど。裕福か?」
「きっとそう」
「そうか、だったら子供は一人かもな。この国で、しかもいい暮らしをできるような地域で、二人目を生むなら高い金が要る」
「……そうなんだ」
「ああ。それで、どっちを殺す?」
「え?」
「兄貴と妹、どっちかを殺して身代金を要求するとしたら、お前ならどっちを殺す」
子墨は嫌そうな顔をしながら、考え込む。そして、
「……妹」と言った。
「どうしてそう思った」
「時間をかけずに殺せそうだから。下手に長引かせたら、他の家族が気付いて捕まっちゃうかも。お兄さんを誘拐するのは、大変かもしれないけど……」
「はは。なるほどな。その細腕じゃ、兄貴は殺せんか」
「リウさんは?リウさんだったらどっち?」
「俺は兄貴だ。俺は力があるから、どっちも変わらん。で、身代金を要求したら妹は売り飛ばす。女は金になるからな。返してやるなんてもったいないことはしないさ」

「…………何やってんだお前ら」

家庭的なボードゲームを挟んで物騒な話をする大柄な男とガキを、ヤオは何とも言えない表情で見ていた。

「ヤオさん、帰ってたんですか」
「おかえりなさい、ヤオさん。今リウさんに中国語の練習に付き合ってもらってたの」
走り寄る子墨をヤオが抱き上げる。
最初に持ち上げた時に軽すぎた体も、ここへきて普通の子供と同じぐらいまで回復している。
「練習ねえ……物騒な話しやがって、もうだいぶ喋れるじゃねぇか、天才児かよお前。あんまりリウの手をわずらわせるなよ」
「うん!」
「物騒な言葉も教えなきゃ、子墨自身が危ないでしょう。それに、俺もいい息抜きになってますよ」
「ならいいが」
「今回の首尾はどうでしたか?……張大兄は?」
「今シャワー浴びてる。仕事の首尾は上々だ。……おい坊主」

「体もすっかり良くなったみたいだからな。親父殿が話したがってるぞ」


◆初仕事

「よく来たね子墨」
「お父さん」
「体はもういいのかい」
「うん、もう痛いところないよ。ご飯もちゃんと食べてる」
「そうか。中国語が上手くなったね」
「ありがとう。難しい言葉はわからないけど、リウさんに練習付き合ってもらってるんだ」
「そうか。ヤオとリウは好きか」
「うん!」
「そうかそうか。そういってくれると父さんも嬉しい。自慢の部下だからな」

ニコニコとハオランが笑みを浮かべる。
だが、決して子墨に触れようとはしない。
子墨も、なんとなくそれを感じて、父の目の前2~3mのところからは近寄ろうとはしない。
会話は親子そのものだが、異様な光景だ。

「それはそうと、子墨。40,000元、と聞いて、何の数字かわかるかな」
「……わからない……」
「お前の治療費と、半年の生活にかかった金だ。日本円でいうところの……そうだな、約70万円相当だ」

子墨は体を固くしてうつむく。

「思い至ってなかったわけじゃなさそうだな。さすがは私の子だ。親子だから当然だなんて楽観的には考えていない。ああ、やはり俊杰や到远とは違うな。あいつらよりずっと俺の子だという実感が持てるよ」
「……どうすればいいの、俺」
「古今東西、金を得るには働くしかないのさ。よく覚えておいで」

そう言うと、ハオランは何か手のひらサイズの箱を取り出す。
子墨がおずおずと歩み寄って箱を見てみると、それは煙草の箱だった。
既製品の箱だった。が、よく見なくてはわからない程度に包装しなおされている。
中からは甘いような苦いようなにおいが漏れてきていた。

「……たばこ?」
「ウチの新製品の試作品だ。それを売り歩いてこい。一日3カートン、売れ行きが良くなってきたら5カートンから10カートン、それを7日間だ。全然足らんが、それでチャラにしてやる、父親だからな」
「………………」
「嫌か?嫌なら、お前の臓器でもいいぞ。腎臓を片方、肺を片方……まぁ、あとはそのきれいな顔を使って稼げば、1500元くらいにはなるだろ」
「……よく、わかんないけど……俺を売るなんて、怖いこと言わないでよ……これを売ればいいんでしょ。どこで、いくらで売ればいいの?」
「1箱4元、カートンで35元。売り場まではヤオをつけてやる。お前は貧しい家の子のふりをするんだ。間違っても張ハオランの息子だなんて言っちゃいけない、いいね?」
「………………はい」
「では明後日からだ。今日から風呂に入るなよ、貧しい家の子は、石鹸の香りなんてしないもんだ」

「しけたツラじゃねぇか」

売り場に向かうまでに、髪の毛を乱され、土ぼこりまみれになった。
(運転しているのはヤオさんだが、当然車はヤオさんの車じゃない。汚れるから)
俺はあのたばこの意味をずっと考えていた。

「ヤオさん、俺……父さんが怖い」
「……あーーー」

「……勘がいいことだ。そう思っても仕方ねぇとは思うが、あんまり言うなよ、そういうこと。お前、親父さんが居なきゃ死んでたんだぞ」
「……うん」
「まぁなんだ。お前さんはあのぶっ壊れた女のとこにいたから、あんまりほかの人間と関わってねぇんだよな。……安心しろ、親父さんはお前さんを溺愛してるよ。この件だってそうだ。よく考えろ、1カートン40元しないたばこ、20カートン売上げたって800元もしない。40000元には届かねぇ。これは、お前さんの社会勉強も兼ねてるのさ」
「俺、掛け算は解らないよ……」
「はは、そうだったな。帰ったら教えてやる。……あとは、ただ飯喰らいがいつまでもお膝元にいるってのは、やっぱりよくないのさ。大人と同じ仕事しろとは言わないが、きちんと働かなきゃな。ほらよ、ついたぜ」

キッ、と車が停まる。
大きな倉庫の裏手だ。

「タバコは、ここに積んである。安心しろ、俺達の倉庫だ。俺達が送り迎えしてたんじゃ、お前が貧しい子だって嘘の設定がバレちまうから、ここへの出入りを許してやる。中にはちゃんと布団も食べ物もあるから、好きなの食え。ゴミは裏手に収集所がある。放置しておいても持っていくから置いとけ……と、忘れない内に……ほらよ、この倉庫の裏口の鍵だ。寝るときは忘れずに閉めろよ。盗みに入られたら、親父さんに殺されると思え。脅しじゃない。あと、誰もここへ入れるなよ。ここに入った奴は、俺たちが殺す。殺さないのはお前だけだ、いいな」

「う、ん……」
「タバコは見たことあるな?」
「うん。…………■■■って書いてあった」
「『設定』は覚えたか?不安ならもう一回復唱してもいいぞ」
「大丈夫……もう10回以上確認したじゃない」
「よし。布団の横の棚に積んである。あの銘柄以外は売るなよ。カートはそこ。積んだら……」

「ここの道だ。ここから向こうへ1キロちょっと歩くと、橋の先に商店街がある。そこで売るんだ」
「そこだけ?」
「そう、そこだけ、というか橋の奥のそのあたりに住んでる奴らにだけだ。橋の手前や、観光客みたいなよそ者には売るな。橋の先に住んでるやつだけだ。いいな」
「わかった……」

「それじゃ、一週間後の夜、ここにまた迎えに来るからな」

◆商店街

「たばこー、たばこいりませんかー、たばこー」
「おう、坊主。いくらだ」
「一箱4元です」
「ほぉ……ま、売店で買うよりは安いな。んじゃ二箱」
「どうも、有難うございます」

「……見ねぇ顔だなぁ。どっから来た」
「えっ……と」

本当のことを言ってはいけない、と口酸っぱく言われてはいた。
だが、子墨は中国の地理についてはてんでわからない。
すぐに嘘なんて付けるはずもなく、言葉を濁すしかなかった。だが、

「か、川向こうから……」

オジサンの顔がみるみるこわばる。
まずい、と思った。
どうやら川向うというのは特別な意味だったらしい。
最初のお客さんだったおじさんは、俺の手を取って、大通りから脇道へとグイグイ引っ張った。

「坊主、ちょっとこい!」
「え、うわ」

タバコのカートと一緒に引きずられて、人の居ない空き地まで引っ張ってくると、おじさんは大きな大きなため息をついた。

「何で川向うの人間が商売してる?ここは許可制だぞ。親はどうした」

しまった、そうなのか。
落ち着け、ならあの『設定』は『こういうことを見越して』いたはず。
思い出すんだ。落ち着いて。

「親は……いません。先月、死にました。俺んち、向こうで酷い目にあったから、お客さん寄り付かなくなっちゃって……家も追い出されて……今は倉庫の空き室で寝泊まりしてるんです。それで、たまたまトラックからタバコの箱が落ちたの見て、倉庫に隠して……売ってお金にして、食いつなごうと思ってて……ごめんなさい、向こうだと俺のこと知ってる人ばっかりで、売れないんだ……」

おじさんは、少し唸っていたけれど、おもむろに俺の上着の裾を捲し上げた。
俺はびっくりしたけど、おじさんはそれ以上何もしなかったので黙って待っていた。
そして、ため息と一緒にシャツを戻して、

「ひでぇ痕だ……ろくでもねぇ親が、上の連中裏切ったってとこか、なるほどな」

と言った。
母は”ろくでもない親”だったんだと、少しだけ驚いた。

「わかった……しかたねぇ。見逃してやる。だがもう、あんな大通りで声上げて売るのはやめろ、いいな」
「………………う、ん……」
「しょげた顔をするな。大通りで売るなと言っただけだ」

「裏通りは、俺達の生活区域さ。そこでなら、大通りを取り仕切ってるとこの商売許可はいらねぇ。店をやってる連中もいる、そういう奴らに、店に置く分買ってもらえ、俺から事情は話しておく。坊主は良い子そうだからな、大丈夫だろう」
「あ、ありがとう……!!あの、……!!」

「王(ワン)だ!あとで店に顔を出せ。母ちゃんに粥作らせておくよ」

それから、裏通りでタバコを売り歩く日々が続いた。

王さんはこのあたりの顔ききだったらしい。
裏通りに行くと「話は聞いてるよ、安心していい」と警戒を解いた人たちが少しずつ買っていってくれた。
裏通りはあまり清潔ではなかったけど、表通りより地元の人が多いように感じた。
人伝に訊きながら王さんのところにお礼を言いに行ったら、奥さんが温かいおかゆを作ってくれていた。缶詰よりずっと美味しい。
「このあたりも昔はもっとにぎやかだったんだけどね。若い人はみんな都心に出ちまって、今いるのは老人と荷運び、大通りの色宿の人間だけさ。だから、子どもが生まれたらみんなで育てるんだ」とおばさんはいった。
「あんたみたいな、箸だって使える、ちゃんとお礼も言えるいい子が……こんな煙草を売って二束三文でその日暮らしなんて……」
「……坊主。明日からも、ここ寄れよ。たばこ一個と粥一杯交換だ。それから、今日だけ1カートン買ってやる。店においてやるよ」
「あ、ありがとうございます、おじさん、おばさん……!俺、俺……なんて言っていいか」
「あー。やめろやめろ照れ臭ぇ。とりあえず1カートンだけだ、なくなったらまた買ってやる。良かったら後ろで休んでる荷運びの若い連中にも売ってこい。安いからな、喜んで買ってくれるぞ」



(荷運びの男たちがたむろしている)

「お、君が王さんの言ってたたばこ売りの少年か」
「はい、あの、たばこいかがですか」
「一個もらおうかな」
「俺も」
「うん、うまい。やっぱ、この銘柄好きだ」
「有名なんですか?」
「一番売れてるってわけじゃないけどな、ツウな人間だけ」
「……ん?でもなんか、味変わったか?」
「気のせいだろ」
「ツウぶってやがる。……っと、坊主には、まだちょっと早い話だったな」
「おい、そんな言い方したらだめだろ。坊主、たばこはな、吸わなくて済むなら吸わなくていいんだぞ」
「お兄さんたちは?」
「俺たちは、なぁ?」
「もう、手遅れってやつだ!!ははははは」



(赤いワンピースの華やかな女性が声をかける)

「ね、ボーヤ。あたしにも頂戴」
「あ、えっと、ありがとう。1箱4元だよ」
「カートンがいいな、2つ3つ買おうかと思って」
「えっ!?お姉さんそんなに吸うの?」
「え?……っあははははは!違う違う!私も吸うけどね、お客さんも吸うのよ、帰る前にね」
「あ、そっか、ごめんなさい……」
「いくら?」
「えっと、1カートン35元です」
「じゃぁ3カートン」
「わ、ありがとう……!」
「いいのよ。売れ行きが良かったら、また買ってあげるわ」



「今日も来たな、坊主!坊主のたばこ、ほかでも売れたらしいな。評判良いぞ。うちのも明日無くなりそうだ。カートンで買いたいから、少し多めに持ってこい」



「子墨!黄兄ちゃんたちと缶蹴りするか」
「する!」
「お!よーし、負けねぇぞー!」
「張り合ってどうするんだよ……」

「子墨ちゃん、うちのはまだあるんだけど、向かいのお総菜屋さん達もこっそり置きたいってお使い頼まれちゃった。補充分も合わせて、3カートン、ある?」
「あるよ!小蘭お姉ちゃん、ありがとう!」
「ふふ……いいのよ。……あーもー!子墨ちゃんみたいな子ほしいなー、結婚しちゃおうかなー」
「お姉ちゃん結婚するの?……お姉ちゃん綺麗だから、きっと素敵な人と結婚するよ!」
「~~~~~~~~~~~~~……はぁ。良い子。あんた、その内たくさんの女の人泣かせるわ……断言してもいい」
「え?」
「なんでもない。あんたのたばこが一番って話」



「子墨、今日も来たわね。ごめんなさい、今日はあの人いないのよ、お粥はあるから食べておいき」
「……どうかしたんですか?」
「そうねぇ……いつも来てる方が、今日は来てなくてね。心配して見に行ってるんだ」
「そう、ですか」

「……子墨」
「はい」
「うちの人と、ちょっと話してたんだけどね。……お前、うちの子にならないかい?」

「あたしたち、子どもを事故で亡くしててね。私も、もう産めない体なんだ。……代わりだなんて思ってないし、思ってほしくはないけれど……正直、あんたが来た時、神様がアタシたちに授けてくれたんじゃないかって思ったんだよ」

「会ってまだ6日だ。急にこんなこと言われて驚いたろうけど……あたしたちは、あんたを息子にしてもいいと思ってる」
「………………あの、俺…………お、れ…………」
「あ、あ、無理しなくていいんだよ。ゆっくり考えてくれていいんだ。それだけ、伝えておきたかったんだよ。あの人も同じ気持ちだからね。もちろん、たばこを売りに来てお粥を食べるあんたを見てるだけでも、あたしたちは安心だから……返事はいつでもいいんだよ」

「おい!!」

王さんだった。珍しく声を荒げたので、俺は飛び上がってしまった。

「……あぁ、子墨、来てたのか。すまないな、大声出して」
「どうかしたのあんた」
「あ、ああ……ちょっとな。子墨、すまないが、今日はもう帰れ。ぁ、あぁ、たばこは……ほら、今残ってる4カートン分だ。みんなの分もおじさんが立て替えておいてやる。だから、いますぐカートごと置いて帰りなさい。面倒ごとに巻き込まれるぞ」
「あんた、何だって言うのよ!?」
「劉さん、家で死んでたんだ。普通の死に方じゃない、あれじゃ上の連中が調べに来る……ほら子墨、ボサッとしてないで!帰るんだ!」
「う、うん……」



「……なんか、変だ」
帰る前にちらっと大通りを覗いた。
変わらない、にぎやかさ……のはずなのに。
どこか、どんよりとよどんだ空気をまとっている気がして。
気になって、こっそり原因を探った。

と、見覚えのある顔が、トボトボ歩いていた。

「……小蘭お姉ちゃん!!」
「……子墨」

近寄ってみると、小蘭お姉ちゃんはボロボロだった。
誰かに殴られたのだろう。
顔の半分は形が変わるほどに腫れているし、服も破れてしまって、コートで何とか隠しているといったていだ。

「ひどい……どうしたの、なにがあったの……!?」
「わかんない……わかんないのよ……さっきまでタバコふかして、すごい機嫌がよかったのに、いざしようって時に急にわけわかんないこと言いだして……殴られて、引き倒されたときに服も……怖くて、必死で逃げてきたの。……ごめん、わかんないよね……子墨はもう帰るの?」
「……う、うん……劉さんが亡くなったんだって。おじさんにもう帰れって言われちゃった」
「そっか……劉さん……優しい人だったな……」

「子墨……もう、ここ来ない方がいいかもしれない」
「えっ」
「あのね、あたしだけじゃないの。お客さんに暴力振られた子。……昨日も一人……今日はアタシ……なんかちょっと、勘だけど、変な感じする」
「でも……でも俺……」
「王さんには言っておく。王さんも、あんたに会いたいと思うから……しばらく商店街には近寄っちゃだめ。ほら行って。なんか騒がしい感じがする……」

次の日は、商店街に行かなかった。
頭をよぎる考えが恐ろしくて、一日、何も手につかなかったのだ。
倉庫の中で缶詰を食べて、ヤオさんが迎えに来るのを待った。



「25カートンか。驚いたな、目標達成だ。やるな子墨」
「………………」
「……?随分静かだな?どうかしたか」
「……ヤオさん……俺、父さんに訊きたい事があるんだ」
「……俺なら黙っておくね。知ってるか?突いちゃいけない蜂の巣ってのがあるんだよ」
「………………」
「大体、訊いてどうする?仮にお前に都合のいい答えが返ってきたとして、お前はそれを信じられるのか?」
「……それでも……訊きたい。俺が何をしたのか、はっきりさせておきたい」
「……何を訊くつもりか知らんが、後悔するぞ」

「俺が取り次がなくたって、親父さんからお前を連れてくるように言われてる。帰ったら風呂に入って綺麗な服きて面会だ。その細い首が身体とオサラバしたら、俺が埋めてやるから安心しろ」

◆取引

「きたか、子墨」

「頑張ったそうじゃないか、ヤオから聞いたぞ。お前には商才があるのかもなぁ」

「どうした子墨。元気がないじゃないか」

「お父さん……あの煙草、何なんですか」

「見せてもらった日から……最初から、あの煙草、甘苦い匂いがしてた……最初は気付かなかったけど、すぐに吸ってる人から同じ匂いがするようになって……段々、おかしくなる人が出てきた」

「俺は、本当に煙草を売っていたの?あれは、煙草なの?ねぇ、お父さ……」

うつむいていた顔を挙げて父親を見た時、子墨はぎょっとした。
父親が、立ち上がって首をかしげていたのだ。
とても、とても、嬉しそうに。

「…………最初から?」
「……え……」
「子墨、最初から甘苦い匂いがしたと言ったかい?どんな匂いだい?お菓子のような匂いかい?それとも果物?花?」

子墨は怯えた。
どうして父がそんなことを訊くのかわからなかった。
ただただ怖かった。
が、何も答えなければこのままナカッタコトにされてしまうかもしれない。
だから、震えながら、声を絞り出す。

「わかんない……わかんないけど、花みたいな……ううん、どちらかと言うと木の皮みたいな……桂皮よりずっと弱いけど、似ている感じ……ねぇ、なんでそんなこと訊くの……?」

言った瞬間、父の笑みが濃くなる。
大股で父が近寄ってくる。
それが無性に怖くて、腰を抜かしてその場に座り込み、子墨は体を丸める。
殴られる?蹴られる?刺される?
だが、次の瞬間訪れたのは強すぎるぐらいの抱擁だった。

「あああぁぁぁぁ……子墨……!!子墨、子墨、子墨……!!!!やはり、お前は特別な子だ!!ああ、私は今まで神を信じたことはなかったが、お前は間違いなく神が私に遣わした子だよ!!!!」

こんなにも、恐ろしい抱擁があっただろうか。
既に、子墨は震えて泣き出してしまう。
父親からの抱擁だというのに、子墨は言いしれない恐怖に涙を流して固まっている。
ハオランはそんな子墨の様子を無視して続ける。

「聡い子だね子墨!!そうだよ、あの中身は薬物だ、麻薬だよ!!それもとびきりのやつだ!!子墨、本当に匂いがしたんだね?本当に!?あぁぁぁ、そうかそうか、匂いがしたか!!桂皮に似た匂いが!!あの量で!!あのパッケージに入っている状態で!!5年かけて開発した新製品だというのにお前と言うやつは……!!」
「ひっ……」
「あぁぁ嬉しい誤算だ、お前はなんてできた子なんだ!!お前こそ祝福された子だ!!私の息子だ!!!!」

怖い。何を言っているのかわからない。
だが、一つだけわかったことがある。
この反応、この言葉。
それらが、昨日から頭にこびりついていた恐ろしい考えを肯定する。

「俺……俺、おかしくなる薬を、ばらまいていたの……?」

否定してほしかったのだろうか。
だが、ハオランはそんな無駄なことをしなかった。

「そうだよ、子墨。お前があの商店街の人間に薬をばらまいた」

深い深い笑みのまま、そういった。

「あの薬はね子墨。わが社の自信作だ。依存性が極めて高く、ごくごく微量で神経系に作用する……つまり、幻覚を見たり幻聴が聞こえたりする。欲望を開放し、攻撃的にする薬だ。接種してから重度の依存性を表すまでの期間が極めて短い。デメリットを言うなら、流通には向かないところだ。人間がすぐに潰れてしまうから、”顧客”を増やして収益を上げるのには向かない」
「……どうし、」
「どうしてこんな薬を作っているか、か?それはお金になるからだよ、子墨。お前にやってもらったのは、この薬の宣伝活動さ。あそこは、うちの"お客様"にとって、とても都合の悪い場所だったんだ。この薬の一番の売り文句はね、相手に気づかれずに吸わせることができるんだよ。無味・無臭と簡易服用を徹底的に追求したんだ。けれどこんな薬、表で売るんじゃ売れないのはわかってるんだ。じゃあ何に使う?それはお前が実践してくれた!相手に気づかれずに吸わせて、自滅させるんだ。武器だよ子墨、武器だ!相手を徹底的に殺し合わせるための武器さ!」

ぼろぼろと。涙があふれる。
みんなの顔が、脳裏をよぎっていく。
王おじさん、おばさん、黄兄ちゃんたち、小蘭お姉ちゃん、劉さん、総菜屋のおばさんに、色宿の店主さん、他にもたくさん。
皆、いい人たちだった。
誰も、子墨を傷つけたりしなかった。
10年間、ほとんど貰えなかった愛情を、たくさん注いでくれた。
なのに。
なのに。

「……っ、……なんて……こと……っ!!ぅ……ひぐ……っ……ぅ」
「おやおや、他人事みたいに言うじゃないか。最初から違和感を覚えながら、私が怖くて売るのをやめられず、真実を見ずにばらまいたのは、他でもないお前自身だろう?そこに関して、お前は私を非難できないはずだ」

その通りだった。
気づいていたのだ、何か変だと。
けど、怖気づいてしまった。
売るのをやめたら、捨てられるかもしれない。
捨てられるだけならまだしも、殺されるかもしれない。
それに。
売るのをやめたら、商店街に行く理由がなくなってしまう。
皆と過ごす理由を捨てられず、結局1週間売り通してしまった。
結果がこのざまだ。
こんな大ごとになるとは思っていなかった。
薬をばらまいたのは、紛れもなく、自分。
劉さんが死んだのも、多分俺のせい。
小蘭姉ちゃんが殴られたのも、俺のせい。
俺が、皆を。
俺は、この男と同じなのだ。

「……っ止めなきゃ……」
「おや。それを私に言うのかい?子墨」
「お願い、止めさせて……もう十分効果はわかったでしょう?宣伝にはなったでしょう?俺が……俺が、話すから。たばこ、吸わないでって言ってくるから、それならいいでしょう?だから……お願い父さん、お願いだよ……!!」

自分の無力が情けなかった。
事の元凶はこの男なのに、それを止めるためには、この男を頼らなくてはいけない。
一蹴されてもおかしくない。
だが、ハオランは困ったように笑う。

「……つくづく私はお前に弱いな」

そう言って、抱擁を解いて、向かい合う。
まるで、おいたをした子に言い聞かせるように、普通の父親のように。

「だが、甘やかしすぎるのはいかんな。子墨、お前はその嗅覚を磨きなさい。もし、私の試験をクリアして、お前の力を十分に私に示せば、お前を再びあの市場に連れて行ってやる。今度はたばこ無しでな」
「私のおじい様……お前のひいおじいさんは、十数メートル先の匂いだけで毒草を見つけることができた。その力を一族の繁栄のために使ったが、最後は私の父に罪を着せられて死んだ。お前はそうなるな、子墨。強くなり、力を磨き、隠すんだ。いいな」

◆試験

テーブルの上には、2つの洋菓子。
冷たく冷えた南瓜のプリン。
プリン、中でも南瓜は嫌いだ。
植物らしい野の香りに、動物らしい卵と牛乳の香り、加えてバニラでたっぷり香りづけされた、冷たい冷たい、甘いお菓子。
口に含む前の、冷えたプリンの香りがわかる人間が、いったい何人いるだろう?ましてや、その下のカラメルの匂いは?

2つのプリンのうち、片方のプリンは1/3ほど手がついている。
これは、はずれのプリン。
毒物が仕込まれたプリン。
子墨が死なないよう、すべて食べても致死量には満たず、子墨自身が間違いに気づけば吐き出すことができる。ただし、口に含む前に正しいプリンを選べなければ失格であることに変わりがない。
これが子墨が受けた最初のテストだった。

うまく吐き戻せない。
吐けずにいたら、ヤオが押さえつけるようにして細いホースをのどまで突っ込んできた。水が注ぎこまれ、無理やり胃を満たす。
ホースを外され、水と一緒に溶けたプリンを吐き出す。
苦くて酸っぱい匂いと、鉄臭さ。
ダメ押しとばかりにもう一度ホースを飲み込まされ、吐き出す。
ホースで傷がついたのか少しだけ、嘔吐物に、糸のように血が混じっている。
何故、セメントタイルが敷かれた、シャワー室のような部屋でプリンを選ばされたのか。この時にやっと理解する。

「この世の終わりのような顔をするな、子墨。お前はこれを、3食連続で、すべてクリアしようというんだぞ。もちろん、次の2食目は正解率が1/4だから難しいぞ。3食目はもっと難しい。なんと1/8だ」

子墨はすべてを吐き終えてもハアハアと荒い息をして、ぐったりと動けずにいる。
ヤオの目には少しだけ憐れむような色が見えるものの、ホースを押し込んだり、暴れる子墨を取り押さえる力に一切の手加減は見えない。
仮に、こっそり町に連れて行ってくれと言ったところで聞かないだろうことは訊かずともわかった。それはリウも同じだろう。
彼らはあくまでハオランの腹心であり、ハオランの息子だから、子墨の世話をしているに過ぎない。
ハオランが用済みだから殺せと言えば、その懐のホルダーに入っている物騒なものの安全装置は軽く弾かれ、子墨の頭に向かって鉛が撃ち放たれるのだ。
今更、やっと理解した。ここはそういうところなのだ。

絶望していると、ハオランがため息をつく。

「ああ、情けない。この程度でへばってどうする。男の子だろう?子墨。この程度で気づけなければ、二日目の毒は下手をすると吐けずに数日苦しむことになる。もしかしたら……後遺症が出るかもなぁ。それを、耐えられるのか?子墨。それとも、商店街は諦めるかね」

ふつり、と子墨の心に炎がともるのがわかった。
この調子では、いつ商店街に行けるかわからない。
その間に、だれが死ぬかわからない。
黄お兄ちゃんたちは、一番たくさん吸っていたから、もしかしたら間に合わないかもしれない。
だが小蘭お姉ちゃんはお客さんが吸うからって、自分は吸わない。勘もいい。
王おじさんも、おばさんも、たばこを買ってはくれたが、店においてくれただけで、ほとんど吸っていないのだ。
もしかしたら、間に合うかもしれない。
いや、間に合わなかったとしても。
俺は、俺がしたことときちんと最後まで見届けなくてはいけない。

「あきら……め……ない……」
「ふ。強情だな。嫌いじゃない。せいぜい頑張るといい」

そのハオランの言葉を最後に、ヤオに抱えられて部屋から担ぎだされる。

”うちの子にならないかい。”
おばさんのその言葉を思い出して、目頭が熱くなった。

………。

「これは?」
「………………」
「子墨」
「……トリカブト」
「どうしてそう思う」
「根が下に伸びてて丸っこい。ニリンソウはもっと横に伸びる」
「そうだ。葉と根と花と実。毒性が一番強いのは」
「……根っこ」
「よし。次に症状の」
「リウさん」

中国語を教えていた時と全く変わらない様子のリウに、話しかける。
もう、この人がただの気のいいお兄さんではないことは重々承知だ。
だが、この人は試験には来ない。
試験に付き合うのは、決まってヤオの方だった。
別に、誰が一緒でもどうでもいい。
でも、ずっと気にはなっていた。
だから、毒草と向き合う以外での、話しかけるきっかけにした。

「リウさんが、教育係なのは何故なの」
「俺は懐柔役だからな。ヤオさんは、ああいう性格だし、案外情に脆いから、長いことこうしてお前さんと対話するなら、俺のほうが向いてる」
「向いてるって?」
「ヤオさんはスラム育ちで、こういうぬるま湯みたいなやり取りが嫌いなんだ。逆に、俺はヤオさんたちに拾われる前は、至極真っ当なとこで生きていたからな。こうして誰かの相手をずっとしてるってのは、嫌いじゃない。……ああ、そうそう。それからお前がばらまいたタバコ……あれの開発責任者は俺だからな。こういっちゃなんだが、薬物の知識だけなら、ヤオさんよりずっとあるぞ。今のお前に必要なもんだ」
「アレの……開発……」
「ああ。お前がうまくばらまいてくれたおかげで、こっちの痛手はゼロだ。仲間の血は、今のところ一滴も流れていない。感謝してるよ」
「……リウさんは、父さんから電話で俺を殺せって言われたらどうするの」
「首を折る。今は銃がないからな」
「……そう」

やはり、そこは変わらない。
リウさんの絶対はヤオさんで、ヤオさんの絶対がハオランだ。
だから、ハオランから連絡が来れば……ヤオさんと同じく、リウさんも俺を殺すことをためらわない。
リウがため息をついた。

「……しっかし……お前は賢いのに、馬鹿な子だよなぁ。どことも知れない、だれとも知らないやつになんて、初めから情なんて寄せなけりゃ良かったんだ。いつかのたとえ話と一緒さ。金が欲しいから子どもを殺す。平和に暮らしたいから、見ず知らずの人間を殺す。何も違わない。下手に同情しなけりゃな」

そうして、俺の下を向いてずり下がったサングラスのブリッジを押して、顔ごとクイと上げさせた。

「同情して、挙句そんなザマじゃ、世話ないぜ。……視神経、危なかったんだって?視力が少し落ちただけで済んでよかったな。まだ痛むか?」
「……平気。でも、なるべくサングラスかけろって。刺激に弱くなったから」
「その年でサングラスか。くくっ、似合わねぇな」

自分でも似合わないと思う。
せめて、もう少し色の薄い物が手に入ればなあと思った。
目の前の毒草は、この目を曇らせた毒草なのか、それとも違うものなのか、まだ今の知識では、そこまではわからない。

「リウさん」
「なんだ。外に出して、なら聞かねぇぞ」
「父さんは、悪い人なの」
「見方による。少なくとも、俺とヤオさんから見たら、お前の親父さん……張大兄は尊敬すべき存在だ。特に、ヤオさんは張大兄に拾ってもらってる。俺はヤオさんに。大兄がいなきゃ、俺たちは今頃犬の糞だ」
「商店街の人はどうしてひどい目に合わなくちゃいけなかったの」
「あそこの商店街は、あると都合が悪かったのさ。少なくとも、"お客様"と、今の張大兄にはな」
「……どう都合が悪いの」
「世の中、誰かが何かを起こすときに一緒に動くのが金さ、子墨。悪ぃが、これ以上は答えねぇぞ、話していいって言われてんのはここまでだ。死にたくないなら、自分で調べるのもやめるこったな。そのうち張大兄から話すだろうさ」

しばらくの沈黙。
次いで、リウが深いため息をついた。

「……子墨。ヤオさんから聞いたかもしれんが、張大兄はお前のこと、溺愛してるよ。毒は食わせても薬物はやらせない。こうして療養期間も設けてやってる」
「……あの人は、俺を犬か何かだと思ってるんだ」
「そうかもな。だが大兄から見たら、ガキも犬も大して変わらねぇ。ただ、お前さんのことを手放したくないって思ってんのは確かだぜ。それが嗅覚のせいだって、他の兄弟よりゃマシな扱いだ。お前さんから見たら、特別ひどい、と言い換えても変わらないかもしれないが」
「………………」
「さて子墨、十分サボっただろ。おとなしく続きをやるぞ。……目に支障が出たからには、いよいよ鼻と舌に頼るほかなくなったからな。こうして実物用意してやってるんだ。鼻で嗅ぎ分けられなきゃ、今度こそ見えなくなるかもしれねぇぞ。死ぬ気で覚えろ。さて、トリカブトの症状が現れる順番だが……」

◆合格

―――……試験開始から26日後。

「合格だ!!子墨!!すばらしい!!」

「あぁすまない、手足の先はまだしびれるんだったね。でも合格だ、おめでとう。試験を始めてから26日か……療養期間も考えたら驚異的なスピードだ!よく頑張ったな!!」
「………………」
「……約束だろう?覚えているよ。リウに手伝ってもらって、着替えておいで。送迎はヤオに行かせる。私は行かないから、存分に楽しんでおいで」

◆俺の罪

(倉庫前)

「着いたぞ。……歩けるか?」
「……平気」
「ここで待ってるから、気が済んだら帰ってこい。頼むから逃げるなよ。逃げたら即刻殺せって言われてるんだ。誰かがお前の"特技"を知る前にな」
「……逃げないよ。向こうに、俺の居場所なんてない……」
「わかっているならいい。大声で騒ぐのもなしだ。とにかく向こうの関係者に気づかれるな」

(商店街)

「なん、だ……これ……」

商店街だった場所は、どこもかしこもシャッターが閉まっていた。
まるで、昔からここには何もなかったかのように。
ただただ人の気配が消えた静かな四角いシャッター付きの箱が、拒むように両脇にたたずんでいる。
ここは、本当に同じ商店街だろうか。

「ここ、焼き鳥屋だった……ここで、おじいちゃんたちが、麻雀してて……ここでは、お酒を売ってた……」

小さな声で、おそるおそる店を確認しながら進む。
大通りはめったに通らなかったが、裏通り側の店は覚えている。
だが、裏通りに入ったところで、人がいないのに変わりはなかった。

「だれも……いないの……?どうして……?」

誰もかれもがいなくなっていた。
ただがらんどうな店ばかりが続く。
惣菜屋の生ごみが発酵でもしているのか、ずっと異様な匂いがする。
ふと、誰かがごみ置き場の横に座り込んでいるのが見えた。
女の人。
薄汚れているが、赤い、ワンピースの、

「っ!小蘭お姉ちゃん!?」
「……♪…………♪………」
「小蘭お姉ちゃん、俺だよ、わかる?子墨だよ!ねえ!!」
「………………子墨?」

ほっとしたのもつかの間だった。
みるみる小蘭の顔が歪む。

「知らない!!知らない!!アタシ知らない!!!!」
「お、おねえちゃ、」
「知らない知らない知らない知らない!!!!知らないってば!!もうやめて!!やめてよぉ!!!!殺さないで!!殺さないで!!いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!!!」

何を思い出したのか、何が見えたのか、わからない。
わからないが、美しく明るい小蘭はもうそこにはいなかった。
そして、嫌でも子墨は気づく。
自分が目の前の女性の狂乱のトリガーになっていることに。
半狂乱になりながら、這うように逃げる小蘭を、子墨は追いかけられない。
膝が震える。
もう、逃げてしまいたい。
粥屋に、行きたくない。
そう思うのに。

うちの子にならないかい。

おばさんの顔が、おじさんの笑い声が、脳裏から離れない。
もしかしたら。逃げてくれているかもしれない。
逃げて、俺に何かメッセージを残してくれているかもしれない。
そんな魅力的な考えが、頭から離れない。

ふらふらと、粥屋に向かう。
シャッターは、半分くらい、開いていた。

「王おじさん……おばさん……?」

がらん、としている。
誰もいない。ここに来るまでに、鼻は利かなくなっていた。
どこもかしこも、腐敗臭がすごいのだ。
とくにこの辺りは食べ物屋ばかりで、生ものがそのまま腐って、むわりとした嫌な臭いで、ほかの匂いがわからなくなってしまった。
粥屋もそうだった。
厨房には豚肉の煮物などがそのまま放置され、あらゆる食材にハエがたかっていた。
だが、おじさんとおばさんがいない。
ほんの少しだけ、ほっとする。
……そのまま気づかずに帰ればよかったのだ。

「……二階だ」

1階は厨房と、喫食スペースだ。
ではおじさんとおばさんはどこで眠っているのか?
この建物は2階建て。
2階で寝泊まりしているのだ。

軋む階段を上ると、差し込む夕日に、障子ごしに人影が見えた。
寝室に立っている、おそらくは、

「王おじさん!!!!」

飛び出した。
生きていた!!という喜びが、これまで見てきたものを一瞬で否定した。
生きているなら、あの店のあり様になるはずがないのに、そんなことには思い至らなかった。
がらりと、引き戸を開けると、
ガサガサと音を立てて、何匹か虫が飛び出し、
子墨はそれを尻でつぶすかもしれないなんて思いつかないうちに、その場に座り込んだ。

布団にくるまれた赤黒い塊、変色した細い腕。
いつも粥をよそってくれた手が、黒や緑に変色して異臭を放っていた。
それを見下ろすようににして。
王おじさんが、天井の梁からぶら下がっている。
シャツからのぞく肌は、おばさんの手よりも人らしくはあったが、やはり血の通っていないそれだった。
下にたまる汚物や、赤黒い塊に、たくさんの虫が群がっている。
むわり、とひときわ濃い、血と汚物の腐敗臭が漂った。

…………。

気が付くと、走っていた。
もう、商店街の出口を出ている。
ヤオの姿が見えた。
こちらを見てサングラスを外した顔は、引きつっていた。
急いで吸っていたタバコをその場で落として踏み消している。
叫んでいたか、声になっていなかったのか、もう覚えていない。
ただ、ヤオのもとにたどりついた俺は、ヤオにしがみついた。
うまく呼吸ができない。
どこまでが現実でどこまでが悪夢なのかわからないまま、割れそうなほどひどい頭の痛みと、破れそうな肺の痛みと、引きちぎれそうな足の痛みだけが、今は現実だった。
そんな中で、ヤオの体温と鼓動だけが、俺の魂をこの世につなぎとめる蜘蛛の糸のように思えた。
ヤオも、俺を引きはがしたりはしなかった。
何を言っていたか、もう思い出せない。
けど、その記憶を最後に気を失い、俺は二日間眠り続けた。

俺の最初の罪、間接的な一般市民虐殺という重すぎる罪は、こうして幕を閉じた。



(ヤオ視点)

「……おせぇな」

子墨が商店街に見送ってから、1時間が経った。
もしもこれ以上戻らなければ、銃を持って迎えに行かなければならない。
ヤオは、苦虫を嚙みつぶしたような渋面になった。

……ハオランは、子墨に執着している。
それだけは間違いない。溺愛と言っていいだろう。
だが、その愛情は、ひどく歪んでいるのだ。
ヤオは、ハオランが今の『会社』を立ち上げたころからハオランを知っている。
だから、他の組の人間より、少しだけハオランのことを知っている。
ある滅びた名家の息子であったこと。
若干12歳で両親を殺害していること。
その家で、何があったかは分からない。
だがその家のことを調べると、人肉の売買にかかわっていたような噂がちらほらと顔をのぞかせる。
ヤオはここまで調べて、これ以上踏み込むのをやめた。
これ以上首を突っ込んでハオランに牙を向けられるのが怖かった。
うわさが経ち始めた時期から間もなくして、ハオランは両親を殺している。
間違いなく、これはハオランにとっての地雷だ。

ハオランは、両親に何を見たのだろうか。
自分を救い出してくれたハオランのことを尊敬している。
ハオランと敵対するくらいなら、自分は自害するだろう。
それでも、子墨に向けるハオランの歪んだ愛情には恐ろしさを感じるのだった。
ハオランは子墨を自分の分身のように思っている。
あるいは、誰かからの贈り物のように。
ゆえにその神格を、子墨に強いているのだ。
祀り上げ、組織のトップに……いや、下手をすると、この国のトップにでも据えようとしているのではないか……と思うほどに、入れ込んでいる。
ハオランは、子墨の後ろに何を見ている?

そこまで考えた時だった。
ハアハアと荒い息が聞こえた気がした。
そちらを見れば、子墨が走ってくるところだった。

ああ、戻ってきやがった。
そう思った瞬間、目を見開いた。
サングラスを外し、慌ててタバコの火を消す。
やるべきことはわかっていたからだ。

くそったれ。
俺こそ、子墨の後ろに何を見ていた。
子墨は、確かにハオランに似ている。
目が似ている。賢い所が似ている。
だからって、ハオランと同じではないと、頭ではわかっていた、はずだった。

目の前に、わずか9歳の男の子がかけてくる。
似合わないサングラスの奥の目に、絶望の底を映している。
父親からも、母親からも、まともな愛情を向けられず、
愛情に飢えて、自分の周りをみんな助けようとする、
馬鹿で、世間知らずで、どうしようもなく優しいこども。
そんな子が、絶望し、混乱し、発狂しながら、救いを求めて駆けてくる。

飛び込んできた小さな体を抱きとめる。
子どもとは思えないほど、指が折れるのではないかと思うほど、強くしがみつかれた。
腕の中の子墨は震え、縮こまってしまっている。
この数か月、幾度となく抱き上げてきたが、こんなに細かっただろうか。
今、この子はぎりぎりのところに立っているのだと、直感的に分かった。
片足が、肉離れを起こしているのか熱をもって赤くなっている。この後腫れるかもしれない。
過呼吸も起こしているし、何より先ほどから瞬きをしていない。
かひゅ、かひゅ、と漏れる息の隙間で、何かを話そうとしているが、言葉になっていなかった。

「子墨……子墨、喋るな。喋ろうとするな。ゆっくり呼吸をするんだ。おい。子墨、聞こえているか?子墨!俺がわかるか?ヤオだ!……くそったれ、こっちを見ろ、見るんだ子墨!」

焦っていた。
よくわからないが、このままでは壊れてしまう、そんな気がした。
だから、子墨の頭を胸に抱え、呼吸がしやすいように前かがみになるように抱きなおしてやる。
じっとり汗をかいた体が冷たい。
しばらくヤオの背にも冷たい汗が流れていた。
これが正解かはわからない。自分はリウのように医者だったわけではないのだ。だが、今は本能に従うことにした。
これが、功を奏したようだった。
しばらくそうしていると、少し安心したのか、徐々にではあるが、子墨の呼吸が整ってくる。

と、同時に。
子墨の紡ぐ言葉が聞こえ、
凍り付いた。


ごめんなさい。

ごめんなさい。俺が殺した。みんな殺した。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……

「……子墨……」

ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……

そのあと、糸が切れたように気絶するまで、子墨は謝罪し続けた。

ヤオ・ジンが張ハオランよりも張子墨を優先するようになったのは、これ以降のことだった。


◆日本へ

10年後。

「坊ちゃん、襟がよれてますよ」
「……リウさん、やめてよその呼び方。俺が嫌がるのわかってて呼んでるでしょ」
「言われたくなきゃ、俺に母親みたいに直される前に直したほうがいい、そうだろう子墨坊ちゃん?」
「うぇ。わかってるってば。勘弁してよ」

慣れないスーツ。息苦しいのを我慢して、襟を正す。
……なんか、うまくいかない。タイが曲がってる。
結局母親のように、リウがタイを巻きなおしてくれた。

「……張大兄が喜んでたぜ。最初、鼻が利くって聞いたときには”犬で十分じゃねぇか”と思ったりもしたがね。犬じゃ、匂いで事情を把握したうえで、相手の恋人をだまして事を進めるなんてできやしねぇ。せいぜいやかましく吠えるくらいだ。こちらの血が流れずに済んだのは、これで何度目かな」

リウさんのことを、理解したのはいつからだろう。
この人は、どこまでも合理的だった。
元は医者だというが、誰もかれもを救うせいで、要らない恨みを買ってしまったのだという。
そして殺される直前に、ヤオさんがことを収めたのだという。
だからそれ以来、この人の中には基準ができた。
ヤオさんと、金と、それ以外。
俺は”それ以外”なのによくしてもらってる。
ヤオさんが、大事にしてくれたからだろう。
……ある確信があって、それでも確認したくて、訊く。

「……リウさん。ヤオさんから、俺のこと聞いてた?」
「ああ。これでも弟分だからな」

やっぱりな、と思う。
これだけ心酔されている相手に、話さないわけがないんだ、ヤオさんが。
そう思っていると、いたずらっぽく眉を上げる。

「子墨。お前もよく知ってると思ってたんだが、ヤオさんは隠し事が下手なんだぜ。誰がお前たちの詰めの甘いところをフォローしてやってたと思うんだ」
「……あは。やっぱ、そうだよね……ヤオさんと俺のコンビにしては、うまくいきすぎると思ってたんだ」
「言いやがる。ヤオさんに怒られんぞ」

それは、計画。
ヤオさんが俺のためにたててくれた計画。
親父を裏切らず、親父から俺を、そして……俺から親父を開放するための、10年越しの、超大作。

「……親父、怒るかな」
「まぁなぁ……いい顔はしないだろうが。でも、穏便に済ますために、この10年、ヤオさんと色々手ぇ回してたんだろ?」
「……うん」
「なら、今更だろ。ほら、しゃんとしろ。ヤオさん見送るんだぞ。お前がそんなんじゃ、ヤオさん化けて出てきちまうよ」

斎場と呼ぶには簡素な、そして静かな場所へと向かう。
俺たちは、まともな葬式ができない。無関係な人間に、迷惑がかかる。
だから、弔うときはすべて自分たちでやる。
簡素な木の箱に、ヤオさんとたくさんの花を詰めた。
ヤオさんが見たら「女みてえに花なんか添えやがって」とか言うかもしれない。
けれど、菊の花のいい香りがあたりを満たしている。
宗教なんてわからないけど、花に囲まれて目を閉じているヤオさんを見ていると、やはり買ってよかったと思えた。
もう、最後だ。これで見納めだ。
燃やしてしまう前に、リウさんがヤオさんに話しかける。

「ヤオさん……結局、子墨の入れ墨完成したの見れずじまいですね。昨日、最後の彫り入れたんですよ。惜しかったなぁ」

子墨の右肩甲骨のあたりには、今、大きな雀蜂がいる。
曼陀羅華の華と黄色と黒の大きな大きな雀蜂。
ヤオの腕には蛇がいた。
リウの背中には虎がいる。
虎のように強そうで、蛇のように毒をもつ生き物。
自分だけの入れ墨を入れると決まった時から、雀蜂にしようと決めていた。
二人への感謝と、再会の願いを込めて。

ヤオも、それを聞いて楽しみにしてくれていたようだった。
だがヤオは、完成を見ないまま、帰らぬ人となってしまった。
棺桶の中できれいに整えられた服の下、腹には大きな穴が開いている。
長い金髪に隠れたこめかみにも銃痕。
至近距離の散弾で腰椎が飛んだヤオが、すぐにこめかみを撃ち抜かれたことで苦しむ時間が短くて済んだのは、敵の慈悲だったのか、それとも敵が単に最後にあがかれるのを恐れたためか。
どちらにせよ、見つけた時のヤオは、どこか苦しみから解放されたような、ほっとした顔に見えた。
単に目と口が半分だらしなく開いていただけだが、痛みに歪んだ顔でなくてよかったと思う。
おかげで今は、棺桶の中で安らかに眠っているように見えるのだ。

「……さて。そろそろ女々しくすがるのはよしておくよ。あんた嫌がるだろうしな」
「……ヤオさん。10年間、ありがとう。俺たち、もう行くね……うまくいくよう、見守ってて」

棺桶の蓋を締め、組み木に火を入れる。
煙が登っていく。

遠く、日本まで届けばいいと思った。




ここまで!


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