自分という隣人

寒さで病んでる人が多くなってますね。
自分という隣人、という話で持論というか僕の話をしようと思います。
僕も全然出来た人間なんかではないんですが、これらは僕が生きてきて得た経験なので『こういった人もいる』と思っていただければ結構です。
何かの力になれれば幸いです。

自分を苦しめるそれは、
本当にアドヴァイスか?

さっそく矛盾しそうなこと言っていますが笑

たとえばあなたが受験生で、両親から偏差値の高い学校を勧められたとします。
「ここは父さんの母校でもある」
「お前は頑張れば出来る子だ、学力だって同じくらいの子が多ければすぐに友達ができる」
「雰囲気のいいところだから、きっと楽しいぞ」
その言葉を信じて、たくさん勉強して、あなたはその学校に受かりました。

さて。

この場合の2つのパターンについて考えてみます。

一つは、本当に両親の言うとおりの学校だった場合。楽しく過ごすことはできるかも知れませんが、その報告をするとき、ことあるごとにこんな言葉を言われたらどう思うでしょうか。
「ほらな、父さん達の言ったとおりだろう?」
頑張ったのはあなたです。
たくさん勉強したのはあなたです。
両親に悪意はありません。
あなたが進む道を探してキョロキョロしていたところに、勝手に嘴を突っ込んだだけです。
でも、何故か両親の手柄のようになってやしないでしょうか。
急に、楽しい日常に両親が入り込んだような違和感を覚えないでしょうか。

もう一つのパターン。
進学してみたら両親の言っていた内容からはかけ離れており、いじめにあった場合です。
両親は今度は「言ったとおりだろう」とは言わないでしょう。精々「父さん達の頃から変わったんだなぁ」ぐらいです。
その時の気持ちは、どうでしょうか。
「騙された」が大きいのではないでしょうか。

ここで何が言いたいかというと、誰かの意見に従って得た成果は最早自分のものではないということです。
もちろん、新たな気付きを得ることはあります。
他人の意見を蔑ろにしろという話ではありません。
鵜呑みにしてはいけない、という話をしています。
鵜呑みにして、自分を殺すと、どちらに転んでも他人の報酬になります。
だから、嘴を突っ込むことが好きな人間というのが、一定数いるのです。俗に揶揄って言う時の『センセイ』です。本当の教師のことじゃなくてね。
他人の意見は大事です。
自分の視点だけでは得られないものがたくさんあります。
けれど、傷付いてまでそれを全部飲み込む必要はないんです。
いい人程、全部飲み込もうとします。
けれど、味の好き嫌いがあるように、得手不得手や個性というものは存在します。
苦手な味を飲み込むのは大変なのに、頑張って一生懸命飲み込んだ後に言われるのです。
「ほら!やっぱり私の料理は美味しかったでしょう?」と。

莫迦らしくありませんか。

だから、受け入れられないものを無理に受け入れる必要はないんです。
「これとこれを合わせるのはありだな」「こういう好みの人もいるんだな」「なるほど、そういった工夫の仕方があるのか」
そんな感じでメリットのある意見を取り入れたら、あとは全部捨てていいんです。
「悪いけど、私は私が美味しいと思うものを作るね」で良いんです。
出すなら自信作を振る舞いたいですよね。

「みんな」の暴力

この手の強い言葉の話をすると「だってみんなそう言ってる」とか「それが普通」と反論する人が一定数います。
それに対しては纏めて言うと以下の通りです。

「みんなって誰だn=1?せめて最低限サンプル数10以上揃えてから出直せ。ランダムサンプリングじゃないから100居ても無価値だけどな」
「お前の普通が世間の普通なのか?思い上がるな」

です。
理系諸君は大嫌いな言葉ですよね、「一般的」「普通」「常識的」。
何処の何人をサンプリングした何年の誰発信の情報?参考文献にある?
って心の中の教授が笑顔で囁きます。
その説は御世話になりました……ゴメンナサイユルシテ

大体、人間周りの3人が同調すれば万能感を得るそうです。やったね。
けど、人間って80億人だかいるんですよね。
井の中の蛙どころか大海のミジンコぐらいのやつの意見だと思うんだがどうだろうか。
宇宙でっけーからよ。
自分が少数派かどうかなんて大した問題じゃないし気にするものでもないんですよ。

何か言われてもn=1がよく吠えるなぁくらいでいいと思うのです。ルドヴィカは。

自分を一番いたわってやれるのは自分

ルドヴィカは腰が低い方がトラブルになりにくいので下手に出ることは多いんですが(心の中で悪態はついているし、そのまま社交辞令とも捉えてなくて謝られもしないと"マジで舐めてんなこいつ"ってなる)……
悪くもないのに「自分が悪いんだ」と思って本気で自分を責めてしまう人が結構いますね。
そういう人がアドヴァイスを鵜呑みにしてしまいがちだなと思います。

自分を省みるなとも言っていないし、自己中心的になれとも言いません。
でも、自分が味方にならなきゃ誰が味方になるの?とも思います。
自己肯定感は誰かが作るものではありません。
自分で作らないといけないし、何かに付随してついてくるものでもありません。
誰かに自己肯定を委ね過ぎれば依存体質のメンヘラになりますし、
はっきりいいますが、他人はあなた自身ほどあなたに対して親身にはなりません。
親切にはします。心配はします。
でも何処かで見切りはつけます。
それはどの程度までいったらなのかはわかりません。一緒に死ぬとこまで落ちる人もいるかもしれません。
でも結局死ぬまで一緒なのは自分なんです。
そのあなたが、真っ先に自分を見捨ててどうするんですか。

よく「自分へのご褒美」をバカにするツイートを見かけますが、あれはナンセンスだなと思っています。
「ご褒美」が踏み出す活力であれば、それはセルフメンテナンスが出来ていることに相違ありません。
バカにしているのはセルフメンテナンスが出来ない人の野次でしょう。無視して構いません、所詮外野です。

あなたのことはあなたが一番知っていて、あなたが一番理解して動けるんです。
甘やかすのも、鼓舞するのも、自分が一番うまいはず。
それだけ、忘れないでください。




偉そうに色々言いました笑
会社についたのでここらでアディオス


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