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自分に向き合うってどういうこと?

先日のnoteへ初投稿。
何を書きたいんだろう、伝えたいんだろう、いや、そもそも、わたしはどんな人間なんだろう、・・・ふだんから、自分を掘り下げているのに、書きはじめて程なく手が止まってしまうのです。

自分自身を掘り下げる・・その「自分自身」ってものがそもそもわかってないんじゃないか・・薄々そんな感じはしていました。
もちろん、分かってないから掘り下げているんです。でも、そもそも、致命的なことに、"自分自身"という概念そのものを見当違いな捉え方しているのではないかという感じがありました。

自分には、幼児期の記憶がほとんど全くありません。そのことをぼんやりと心の中で眺めていて、問題の根っこは多く、幼児期の親子関係にあるといわれているのに、つくづくと、わたしはそれを一向に見つけられないできたなと。
見つけられないということは、無意識に気づかないように封印している記憶があるんだろう、とは思っていました。周りから聞いたり、本や動画で知った、問題の根っこになっていると言われる幼児体験というのは、いかにも、それ以後の人生に影響を与えそうな親からの酷くみえる仕打ちや、客観的に酷かろうがそうは酷くなかろうが、本人にとってとても酷いこととして刻み込まれた出来事なんかがそういう幼児体験なのだと。その相手が親じゃない場合もあるけれども、兎にも角にも、幼児期に経験したことの中に今の問題と感じていることの根っこがあるんだということを、カウンセラーやセミナーの講師たちや、コーチたちから耳にタコができるくらい聞いてきました。

どうしてわたしは、こんなに幼児期の記憶がないと感じるんだろう。
何か決定的な嫌な経験があって、封印しているんだろうか。
本当に何にもないんだろうか・・・


そうして浮かび上がってきたのが、特別扱いを求めてしまう性質、でした。

一般的には問題の根っこは幼児体験だというけれど、わたしの場合は、人と違って、特別に、もっと成長してからの体験が問題の根っこになってるんじゃないか・・
わたしは、他の人とは違うのかも・・
特別なのかも・・

自分の脳の奥に、めちゃくちゃ当たり前な顔をして存在していた、そういう「自分は特別」という思い方。
自分が特別だなんて・・未だ、書くのが勇気が要ります。そんなことが周りにバレたら、絶対嫌われると思う。でも、自分がそうだということを知ってしまったら、隠して置けないと思う。そうだからこそ、自分のその部分を必死に自分から見えないように、ずっと隠し通してきた、、直視しないようにしてきたんだ・・

自分は特別なんだから、一般的に問題の根っこは幼児体験にあると言われている、そのセオリーから外れていなくちゃならない。そうじゃなきゃ、特別じゃなくなると思い込んでいた。そうやって、わたしは、みんなとは違う、特別なんだと、極め付けな大前提として脳の奥深くに設定してしまっていたんだと・・
そういう自分のあり方が浮かび上がってきた時、芋づる式に、自分の幼いころのことが、思い出されて来ました。


それは、家業の医院の看護師さんやスタッフのお姉さんたちが、◯◯ちゃん、◯◯ちゃんと、私をいつもいつもかわいがってくれたたこと。たくさんのお姉さんお兄さん、おじさんおばさん達に、いつもいつも可愛い可愛いと言ってもらってきたこと。あの頃、家業の事情もあって、飲み会はほとんど家でやっていて、父は男友達をたくさん家に呼んでいて、そこでわたしは父の膝の上に乗って、その輪の中できっと、いちばん特別な席にいると感じていたこと。
リアルに覚えているわけではないのですけれど、その経験が、いかに、当たり前なまでに深く脳に染み込んで、脳に染み付いていただろうかと思い浮かんだ途端、一瞬で濃い霧が晴れました。
でも、と同時に、真っ逆さまに、谷底に突き落とされた気持ちがしました。
今までの自分のふるまい、言動、やってきたことのすべてが、それに裏打ちされているとしか思えなくなった・・そんなふうに、心の基盤のところで女王様気取りでいた自分が発想したり、言動したり、やってきたことが恥ずかしくてならなくなった・・

これが、「それ」だったのかと。
ずっと掘り起こせない感じがしてきた、いろんな問題の根っこである幼児体験、その先に何があるのか知りたいと願っていたけれども、どうしても壊せないできた壁のような、どうしても突き破れない固く厚い岩盤のような、わたしの意識の奥に立ち塞がってあったもの。

問題の根っこはトラウマになるような体験というものは、必ず、誰しも、ネガティブに感じるような経験だとすっかり思い込んでいました。
自分は特別と思っていたのに、そこだけは、その考え方をどこかに押しやっていた。

一人っ子に生まれ育って、たくさんの大人たちに囲まれて、一身にちやほやとしてもらい、一身に可愛がられ、一身にいい子いい子して貰ってきたという境遇にいて、自分は輪の中心にいて、だから、わたしはものすごく特別な存在なんだという勘違いを脳の奥深くに刷り込んでしまったんだ・・わざわざ取りあげて考えてみるとか、見直してみるとか、そんなことは思うべくもないほどに当たり前なこととして捉えてしまっていた。

「わたしはおとぎのくにのお話の主人公のお姫様なの」的な状態がわたしの人生のいちばん基盤のところに鎮座してしまって、その感性で、自分自身を、親を、周りの人たちを、社会を、世界を見ていた・・愛され、恵まれた状態を感謝してればよかったものを、そのまんま無関心に放置してきてしまった。
感謝しないなら、逆に、表立ってがっつりと周りにマウントとって、タカビーな嫌な女をやりきって、自分の感情だけでも突き抜けさせて、いい気分でいるという選択だってあったものを。
このどっちにもなりきれない中途半端さは、わたしがずっと感じてきた、自分の“煮えきれなさ“そのものだった。



ここまで書いて、しばらくこの記事から離れていました。
時間が経ってみると、自分の中の、そういうお姫様を、のさばらせたというよりも、独りで放置したような、ネグレクトな扱いをしていたんじゃないかという気もしてきました。
もし、自分の恵まれた境遇に感謝していたら、放置ではなくて、自分の中のお姫様を自分で大事に我が子のように育てたかもしれないのに、彼女を放置して、孤独にさせて、捻くれさせて、二度と振り向いてもらえないくらいにそっぽをむかせてしまっていた。
まさに、アダルトチルドレンという言葉そのまんま。幼児願望という表現がある、そのまんまのこじれぶり。

ふと、沢尻エリカ様のことが浮かんでくる。
自分とは全く違う人間だと思い、それでも他人事のような気がしない。あんな突き抜けた生き方も清々しさすら感じる、と思っていた。
彼女も苦しかっただろうな・・


「ありのままの自分」。
今では、そこかしこで普通に聞くことのできる表現だけれど、その「自分」が「ありのまま」なのか、どうか。
そこがなかなかわからなかった。本当にわからなかったところです。

そう。都合の悪い自分、直視できない自分、無意識にスルーしている自分、大前提も大前提すぎて、流行りの言葉でいうと、メタ認知ができていない自分、
どれだけ問いかけても見つけられなかった人生のスタート地点の自分。

問題の解決を外に求めるのではなく、内側に目を向けていくという概念に出会ってから20年余。
こういう言葉には何百回、何千回と触れてきたにもかかわらず、情報として、言葉としては、脳に届いていたけれども、思い込み信じ込みがキツすぎて、言葉を知っているだけ、になっていた。

「自分に問いかけるだけ!」ということを知って1年半。
粛々と問いかけてきたから、ここに来れたのかな。

「自分に向き合うこと」→「自分に問いかけること」→「ありのままの自分を知ること」。

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