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“幸福”はなぜ存在しないのか。

【幸福学とは、なんだったのか。】

まず、「幸福学」を過去のものみたいな言い方をしてごめんなさい。
私は、5年前に幸福学を志し、留学に行ったり大学に入ったり、色々やってきましたが、終止符を打とうと思います。

これまで考えてきた幸福学について、簡単な結論を「なんだったのか。」としてメモっとこう、というわけで本記事を投稿させていただきます。


【幸せの問い方】

「幸せって何?」「どうしたら幸せになれるの?笑」この5年間でおそらく100回くらいは聞かれた質問です。
いつも適当に返してきましたが、今日は答えます。

まず、「幸せ」は物体ではありませんし、客観的に観測することはできません。
生命科学的に、脳波やホルモンなどで観測することができるかもしれませんが、それはある特定の条件下で起こる気分や状態に関連するもので、非常に複雑な人間の「幸福」を明らかにするものではありません。例えば、美味しいご飯を食べているときも、高い目標に向かって努力する辛く苦しい時間も「幸せ」ですし、意識もないはずなのに「寝るのが幸せ」という人や、被虐に幸福を感じるドMの方もいます。カオスです。

そのため、「幸せとは何か」と問うたとしても、私たちが幸せに生きるための客観的な条件や明確な定義は出てきません。ここで出てくるのは、人々が共通で使用する「幸せ」という言葉の言語的な意味や共通認識です。日本人が使用する「幸せ」という言葉について掘り下げてみるもの面白そうですが、それは私たちがそれぞれに抱く「幸福感」を明らかにしてくれるものではありません。
「幸せとは何か」という問いからは、私たち自身の人生における幸せの実感や幸せの価値、幸せの意味を解明することはできないのです。

私たちが幸せに生きていくためには、また私たち自身が幸せの意味を腑に落ちて実感し、幸せな人生を歩んでいくことを願うのであれば、
「幸せとは何か」という問いかけではなく、
「私自身の生のなかで、幸せとはどのように実感されるのか」という内在的な意識体験の中に問いかけなければなりません。

このような問いかけの上で、私は私の人生における幸せの実感を掴み取ることができますし、ひいては私たち人間自身の生における幸せの意味を解明することができるはずです。

だから、もう誰かに幸せを聞くのはやめにして、私たち自身の内に問いかけなければなりません。

(客観的な/外在的な)“幸福”は、存在しません。
それは、私たち自身の生のなかに、内在的な意識体験として経験されるだけなのです。

・・・

続く

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