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魔薬 小説第四回

治験責任医師
僕は横浜ハートセンターの経営会議である提案をするつもりでいた。安藤幸太郎院長が部屋に入ってきた。
「では経営会議を始めましょう。先月は4000万円の赤字。このままだとあと3か月で資金がショートしてしまいます。前回の宿題ですが、誰かいいアイデア持ってきている人はいますか」
僕は挙手をして発言を求めた。
「治験はどうでしょうか。それも入院ベッドを使用する早期治験です。年間の売上は、受託する治験の数にもよりますが、立ち上げ初年度から年間3億円の売上になる予測です。この案を実現するには治験支援企業との基本契約が必要になります」

経営会議で僕の提案は採用された。僕は提携する治験支援企業を探した。少し前から汐留に本社のある株式会社アレコアにアプローチしていた。前回相談した営業責任者とのアポを取り再度交渉した。
「いかがでしょうか。お約束通り御社が欲しいとおっしゃっていた治験ユニットを横浜に設けることができます。もちろんそれには御社のお力添えが必要で、協業を前提に経営面での支援も含めまして、何とかご検討いただけませんでしょうか」
営業責任者が答えた。
「それは弊社としても大変光栄な話です。先日お伝えした通り、私たちも早期治験ユニットを是非欲しいと考えているところです。大室先生、あとは経営層同士の話をうまく着地させることができれば決まりです」
「なんとかそこをうまくまとめたいと考えております。それにもついても是非お力添えください」
最終的に経営層同士の話もうまくまとまり契約にこぎつけた。アレコアは早期治験医療機関を持つことができ、横浜ハートセンターは資金ショートを回避できた。

僕は横浜ハートセンターで治験責任医師として着実に実績を上げていった。当時の治験業界において責任医師は開発全体の中では「お飾り」的存在であることが多く、署名することが何より大事な業務で、残りの厄介な仕事は治験のプロフェッショナルである治験コーディネーターが代わりに仕上げていく、そういう時代だった。そこにある意味、本物の臨床医が参戦して、治験業界では珍しく「機能する」責任医師が登場した。僕は治験業界で意外なほど簡単に有名人になった。それから数年経つ頃には、僕にはヘッドハンティングの誘いが来るようになった。僕は自分が治験業界に入ったことに運命的なものを感じていた。


再会
五反田に本社を構えるIT系製薬スタートアップベンチャーのセレンテック株式会社森誠一社長から、早期臨床試験専門の病院をひとつ用意するので一緒に仕事をしないかという誘いが来た。治験にはフェーズⅠ、フェーズⅡ、フェーズⅢがある。最も早期のフェーズⅠ試験は病院に入院して実施する治験だ。セレンテックが準備すると言っているのはそのフェーズⅠ試験のための病院だ。一般的には株式会社が病院を経営する、いわゆる企業立病院は、昭和30年代までは存在したが、現在は承認されることはない。これは病院が営利目的で経営されるべきではないという医療に対する倫理的な考え方によるものだ。しかも経営する企業が治験を委託する側の製薬企業と言うことになるとさらにハードルが上がる。病院が治験を実施する際に製薬企業の意向が病院で実施する治験の評価に影響してはならない。その意味で、製薬企業が病院を経営するとなると、利益相反にならない独立性が求められる。

セレンテックは、わかりやすく言うとアプリやゲームやAI(人工知能)などを治療へ応用することを目指した会社だ。こうした分野を、Digital Therapeutics(DTX)と言う。製薬企業に分類されて議論されるが、開発するのはアプリやゲームであって薬ではない。IT系製薬と言われるのはそういう意味だ。今回のフェーズⅠ専門病院の建設は百床という規模からいって相当に大きな投資だろうことは容易に想像がついた。もちろん僕にも不安がなかったわけではない。しかし僕も森社長も勝算はあると考えていた。その当時の製薬業界には「デジタルで治療を」という大きな流れが確実にあった。国からもそれを後押しするコメントが数多く出されていた。まさにDigital Transformation(DX)が医療の世界にも押し寄せてきた印象だった。加えてセレンテックは期待できるシーズ(将来新薬になりそうな研究段階の種)を持っているベンチャー企業をいくつか買収していた。IT系製薬から本物の製薬に転身する可能性もあった。病院は何年か先には大きな価値になるだろうと思われた。草分け的ベンチャーのセレンテックからのオファーは魅力的だった。僕はセレンテックと手を組むことに決めた。病院設立計画策定に2年、病床の承認をする東京都福祉保健局との交渉や工事などで約3年、合計5年の準備期間を費やした。開院とともに僕はそのプロジェクトに合流した。病院は大崎から五反田にかけての再開発地域のど真ん中にあった。セレンテックフェーズⅠ病院という名前になった。一緒にやると決めたものの、僕には気になっていることがあった。それはこのプロジェクトに厚生労働省官僚の強い口添えと裏のお金の流れがあったという噂だ。セレンテックが厚生労働省や東京都とどのような話をしたのか知らないが、製薬企業が病院を実質的に経営するのは異例のことではある。そう簡単ではなかったはずだ。
社長肝いりプロジェクトということでセレンテックからは精鋭社員たちが選ばれ病院配属になった。

開院直前の忘年会で僕は森社長から病院配属のスタッフを紹介された。その中に見覚えのある懐かしい顔があり、僕は驚いた。横浜セントルーカス大学病院循環器内科の後輩研修医だった石井武彦だった。
「石井先生、久しぶりだねえ。何年ぶりになるかなあ。十年ぶりくらいだろうか。元気だったか。ところで今ここで何をしているの?」
立て続けに僕が話すと石井武彦がゆっくりと話し始めた。
「お久しぶりです。大室先生が大学を去って治験を始められたと聞いて僕も治験に関わりたいと思い、その道を探しました。大室先生に憧れていましたから。そんな時に、セレンテックの森と知り合って誘いを受けました。悩みましたが、思い切って循環器内科医の道を捨てて、現在は医者をする傍らセレンテック株式会社取締役を任せていただいております。この病院は弊社にとっても私にとっても夢の病院です。それを憧れの大室先生とともに実現できる、それこそ夢のようです」
循環器内科研修医だった頃の石井武彦とはまるで別人だった。スーツをビシッと着て落ち着いた態度は、医者のそれというよりもむしろビジネスマンのそれだった。石井武彦の変貌には驚いたが、頼もしさや懐かしさの入り混じった不思議な感じがして、周りに誰もいなければ泣いていたかもしれないくらい嬉しい再会だった。
「大室先生、私も副院長として、大室先生の後方支援をするように弊社森より言われております。今後ともよろしくお願いします。今日のところはこれで失礼します」
石井武彦は僕に軽く頭を下げると、店の奥にいた森誠一のもとへ歩いて行った。


失敗
セレンテックフェーズⅠ病院の立ち上げは無事に終わり、事業はスタートした。治験業界でも大きな噂になり華やかな滑り出しであったが、その裏ではスタート直後から大きな初期投資を回収する方法にセレンテック経営陣は悩んでいた。もちろん僕もその状況を知っていた。そして僕も石井副院長とともになんとか経営のプラスになる方法を考えてトライしたが、付け焼刃的な方法論ではうまくいかなかないところまできていた。というのも、セレンテックフェーズⅠ病院の準備期間5年の間に、治験業界のなかで大きな潮流に変化があり、未来の治療の一つの軸になると言われ盛り上がっていたDTXというコンセプトが様々な想定外の要因でビジネスとして成立しにくくなっていた。治験によって医療機器として承認されるものの保険償還されず点数がつかない状況になったのだ。セレンテックは、IT系製薬から本物の製薬へと勝負の場を変えることを考えるなど、再度コンセプトメイキングをしたうえで事業計画を見直さざるを得ない状況だったのだ。僕は経営会議でそうした意見を主張し、振り出しに戻ってもう一度、セレンテックフェーズⅠ病院がどこを目指すべきか、皆で議論し、このプロジェクトの目的地を考えなおそうと主張したが、世の中で正論が最も人を怒らせ最も人を傷つけるということに僕は気づいていなかった。今から思うと僕の主張は、セレンテック経営層を苛立たせるに十分だっただろう。当然のことだが、事業負債の責任が僕にあるなどと、当時の僕には全く想像できなかった。セレンテックフェーズⅠ病院は開院3年が経って、業界でも一定の評価を得るようになっていた。しかし内実は、キャッシュフローは回るようになったものの初期投資を回収できる見込みが立たない状況に変化はなかった。それだけではなかった。治験を委託する企業が治験を受託し実施する病院を経営するという形態に対して、今頃になって厚生労働省から批判的な意見が出ていることも聞いていた。存続そのものにかかわる問題だ。

その年の暮れに僕は森誠一と石井武彦から五反田のセレンテック本社社長室に呼ばれた。部屋には張り詰めた空気感があった。厳しい話なのだろうことは部屋に入った瞬間から容易に想像できた。
「大室先生、実は今日ここにお越しいただいたのは、セレンテックフェーズⅠ病院の経営状況が厳しく、まあそれは経営会議で十分に理解していただいていると思うのですが、その責任の半分が大室先生にあることを共有するためです」
大野社長がそう言うと石井武彦が後を引き継いで発言した。
「本プロジェクトの失敗は大室先生の能力がないことやその後の努力が足りなかったことが原因だと我々は考えています。大室先生にもっと能力があれば、あるいは大室先生がもっと努力していれば、今の赤字はなかっただろう、初期投資の回収は進んでいただろう、という分析です」
石井武彦が言っていることに僕は耳を疑った。
「石井先生、何を言っているのだ?今も一緒に頑張っているじゃないか。僕は院長として、石井先生は副院長として、力を尽くしているじゃないか。それに、僕たちが守るべき最も大事なことは医者として、治験責任医師としての使命だ。経営の問題が大事ではないとは言わない。もちろん大事だ。だからこそ、いまは病院のビジョンを考え直すべき時だということを話したばかりではないか」
「大室先生は相変わらず甘いですねえ。経営基盤が安定しなければ良い医療も正しい治験も高邁なビジョンも成立しないのですよ。大室先生には今回のプロジェクトの初期投資40億円の半分にあたる20億円を負担してもらいたい、これが弊社セレンテックの主張です」
僕は顔が火照ってくるのを感じた。
「20億円なんてお金を僕が個人で払うことできるわけないだろう。石井先生、君はどうしてしまったのだ。あの頃の石井先生はどこへ行ってしまったのだ」
森誠一が笑みを浮かべながら口を開いた。
「まあまあ大室先生も石井先生もこの私もですねえ、皆それぞれに言いたいことはあるでしょうが、今年もあとわずかです。大室先生、年末年始かけてご進退も含めてよくお考え下さい。弊社としましては、後任の院長を年明けには検討したいと思っています。まあ、今日はここまでということにしましょう」
そう言うと森誠一は部屋を出て行った。石井武彦は僕に一礼してその後について出て行った。

僕は狐につままれたような感じだった。ビルを出て人ごみを歩いて電車に乗った。横浜山手の自宅に着いたが、途中の記憶がほとんどなかった。20億円などという話をそのまま家族に話せるわけがない。家族に生活の心配をかけるわけにはいかない。父からそういう教育を受けて大人になった。僕はリビングのソファに倒れこんで目を閉じた。何とか自分で解決しなければ。問題の解決方法を模索しなければと思うと同時に、セレンテックフェーズⅠ病院を退職することも考えざるを得なかった。それにしても石井先生はどうしてしまったのか。僕にはあの変容ぶりが恐怖でさえあった。


信用
森誠一はこの業界で生き残ってきた。かろうじて生き残れてきた。なぜか。簡単なことだ。他人を信用しなかったからだ。信用は美徳だが同時に大きなリスクになる。人を信用するかしないか。生き残り戦略としてどちらかを選択しなければいけないとしたら、森誠一の選択はあながち間違いではない。
20年前に製薬会社の営業をしながらビジネスチャンスを狙っていた。ある時元上司から誘われてSite Management Organization(SMO)ビジネスに参画した。それまでの知識や経験を活かせただけでなく個人に任せてもらえる裁量が大きかった。当時はSMOバブルだった。その会社はそのバブルに飲み込まれた。業務拡大と巨大な投資の結果黒字倒産してしまった。森誠一は倒産直前に数名の部下を引き連れて独立した。それが今のセレンテック株式会社だ。時代はDXを求めていた。医療にもその波が押し寄せ、DTXはある種のムーブメントになっていた。森誠一はDTXのスタートアップベンチャーとしてトップを独走した。家族を置き去りにした。離婚も経験した。家族だけでない。社員からも信頼されなかった。パワハラやセクハラで何度か訴えられた。裁判でも負けた。それでも自分を変えずに戦ってきた。必死に仕事をしてきた。森誠一の居場所は社長室しかなかった。会社がすべて。他のものは信用できない。止まれない。走り続けるしかない。そう思っていた。

「大室瞬には支える人間がいる。そこが気に食わない。だが本当は大室瞬を憎いわけではないのかもしれない。ただいつも誰かを敵にしないと走れないのだ。今この時期の敵がたまたま大室瞬だったということだ。彼には申し訳ないが負けてもらうしかない。まずは石井をうまく取り込んで働いてもらおう。堀川という医者も使えそうだ。そして大室瞬よりも何よりも、うちのST1121の承認を取らないと。CF506に負けるわけにはいかない。さあ面白くなってきた。大室瞬とCF506を同時に葬り去る。その方法を考えなければ…」
森誠一は大好きな赤ワインを飲みながら考えを巡らせた。

理念
治験支援企業である株式会社クリ二カルリーチの代表遠田肇は大室瞬に会いたいと連絡をした。遠田肇は創業社長だ。今でこそ珍しくないが、当時はまだあまりなかった医療系スタートアップベンチャーの走りだ。本社のある高田馬場の居酒屋を待ち合わせ場所に指定してきた。遠田肇は新薬開発の業界で有名であったので名前や顔は知っていたものの、本人と実際に会って話すのは、意外なことに、初めてだった。実際に会ってみると、細やかな気遣いができる、かつ大人物だった。僕の好きなタイプの男だ。乾杯のあと遠田肇が言った。
「大室先生、私は回りくどい話は好きではないので、ストレートに言いますが、横浜ベイサイドクリニックに来ていただけませんか。我々と一緒に治験をやっていただけませんか。セレンテックと先生の間のトラブルについても少し耳に入っています。大室先生のことを心配もしています。その件も含めて引き受けますので是非来てください」
人間の好き嫌いは会って数秒で決まる、というのはどうやら本当らしい。僕は遠田肇が好きになった。

それから半年後、僕は横浜ベイサイドクリニックで非常勤の医者として働き始めた。僕は遠田肇のためになりたかった。そして株式会社クリニカルリーチのために働きたかった。僕もまた遠田同様に熱い男でありたいと思ったのだ。僕はクリニックで内部の体制変革を始めた。変革によって、長く勤務していたスタッフが様々な理由をつけて退職していった。組織というものはそういうものなのかもしれない。長く勤めてきたということは長い間の慣習的な仕事のやり方で良い思いや楽な思いをしてきた人たちだ。体制を変え、やり方を変えればその人たちはやりにくさを感じる。退職する理由は形だけのもので、要は理念に不満を持つ者が辞めたということだと僕は理解した。非常勤の医者も色々で、多くの患者を集めて診察する者、ほとんど診察をせずにただ時間を過ごす者、治験に対して協力的である者、協力的でない者。こうした条件を加味して僕は数名の医者の肩をたたいた。外来は随分とすっきりした。なかなか受け入れてくれない医者もいたが、遠田肇は全面的に援護射撃をしてくれた。スタッフの中には、僕の進める変革の理念をフラットに評価してくれて、そのうえで全体をまとめてくれる者もいた。岩倉千夏はその筆頭だった。彼女は実にはっきりとした性格で、正しいことは正しい、間違いは間違い、好きは好き、嫌いは嫌い、そうした自分の評価を周囲に対してもはっきりと言葉にして表現できる人物だ。物事や人物を本質で理解して、表面的なことに惑わされない。僕は彼女を信用し、彼女は現場をまとめる。そういう関係だ。

そして遅れてこのクリニックに合流してくれたのが事務長の平沢健一だ。僕の右腕として、僕の理想を実現させるために、ゆっくりとであるが、問題を解決していった。平沢健一は元外資系製薬企業の役員であり、問題解決についてある意味ではプロフェッショナルだろう。そういう点で僕は平沢健一を信頼していたし、仕事ぶりを買ってもいた。僕はスタッフに恵まれた。結局数年経って見渡してみると、僕の理念に賛同する者が集まり、僕の理念に反対する者は去っていった。ただそれだけのことだった。依頼される治験の量は多くなり、実施する治験の質は高くなり、売上利益は右肩上がりに増加していった。セレンテックとの問題もいざという時の対応策については、平沢健一が土井義弘と相談しながら知恵を絞り、複数の解決方法を準備してくれていた。そのおかげでセレンテックの問題を気にすることなく、僕は目の前の仕事に集中できた。問題は解決方法を連れてやってくる。有名な経営者の言葉だ。


もうたくさん
僕が川島幸に初めて会ったのは20年前だ。川島幸は老人ホームエース横浜の職員を相手によく僕の話をした。
「大室先生にお会いしてからもう20年になるわねえ。早いわねえ。最初は高血圧で外来にかかり始めたら、こんなに優しい先生がいるのかと私は驚いたのよ。それ以来私、大室先生にしかかかったことがないわ。ある時左胸にしこりがあることに気が付いて、外来でそれを大室先生に言ったら、ちょっと診ますね、って言いながら手のひらを平らにして左右の乳房を上からゆっくりと押しながら触診してくれたの。でね、川島さん、心配することないよ。そのかわり僕の言うことをよく聞いてね。いまから紹介状を書くので、川島さんの家の近くの横浜セントルーカス大学病院に行きましょう。いくつか検査をして多分手術が必要になると思います。でも心配いりませんよ。大丈夫って。大室先生はあの時に触診しただけで精密検査をするまでもなく乳がんだとわかったのでしょうね。大丈夫、っていう言葉にどれほど勇気づけられたか。私の気持ちを落ち着かせるために優しく丁寧に説明してくれたのでしょうね。いい先生」

「私は、戦後から昭和40年代くらいまで「新柳(しんりゅう)二橋」と言われて、新橋と柳橋(現在の台東区柳橋)が花街として東京のトップを競っていたころの柳橋(IR浅草橋駅から徒歩5分ほど墨田川沿いにあるにある)で、そうねえ、たぶん一番の芸者だったわ。政界や財界の人や芸能関係の人も毎晩たくさんいらしてくれて、通りには黒塗の車が並んでいたわ。あの頃大室先生が柳橋にいてくださればよかったのに。私には難しいことはわからないけど、田中角栄さんが誰かと選挙で争ったとき(角福戦争のことだろう)の旗挙をしたときも柳橋の料亭で、私も呼ばれてそこのお座敷にいましたよ。角栄さんはなぜだか私を気に入ってくれていつも呼んでくれたのよ。大室先生が知らない昔の話ね。夜の仕事が終わって私が歩いて帰る道のあちらこちらにお札が落ちていて、ほら私お酒弱いからふらふら歩いているのね、そうすると誰かが置物の襟のあたりに挟んでくれたお札を落としてしまうでしょ、朝になるとそれを皆で拾い集めていた、という噂話を何度も聞かされていたわ」

「私の乳がんはリンパ節に転移がありましたけど、手術がうまくいって、90歳を超える今もこうして元気なお婆ちゃんをやらせていただいているわ。昔のように、というわけにはいかないけれども、いつまでも女でいたいと私は思っているの。5年前に腰椎圧迫骨折をしてから一人で外出ができなくなってしまって、もともと天涯孤独で身寄りがない私は大室先生の勧めで横浜にあるアリス横浜という老人ホームに入居したの。それがここね。それからは2週間おきに大室先生が訪問診療してくれているわ」
「老人ホームというところは、入居すると身の回りのことは全部施設の人たちがやってくれるから、私は楽といえば楽だけど、何もすることがなくて、生きる意味もわからなくなってきちゃうわ。大室先生はあの時に老人ホームを勧めてくれたけど本当にこれでよかったのか、大室先生を恨むことないけど、私時々考えることもあるのよ。最近大室先生によく言うの。早くお迎えに来てほしいわ、これ以上生きるの、もうたくさん、ってね。戦前戦中戦後を懸命に生きてきて、行きたいところには行ったし、食べたいものも食べたわ。よく働いたわよ。でも家族もいない。いまさらやりたいことはない。もうたくさん、というのが私の本音。大室先生のお仕事は私を生かすことなのでしょうけれども、もうたくさんなのよ。私がそう言うといつも大室先生は困ったように悲しそうな顔をするの。薬を飲んで簡単に死ねる、そうでなければ薬をやめれば簡単に死ねる、そんな薬があれば命と引き換えに私の心は救われると、本気で考えることもあるのよ。もちろん大室先生には頼めない。そんなことをすれば大室先生の罪になるでしょ。だから私は何もできずにただ大室先生の診察を楽しみに待っているだけなのよ」

そう言いながら川島幸は死んだ。最期の瞬間は誰にも気が付かれずに彼女は逝った。苦しかったのか、幸せだったのか、誰にもわからない。老人ホームの看護師が朝訪室したら息をしていなかった。大室は川島幸が亡くなったという連絡をアリス横浜の施設長から受けて、昼休みにタクシーで向かった。静かで平和でそして川島幸らしい美しい死だった。型通りに死亡診断書を書き、川島幸から頼まれていた通り、死亡した事実を四つ葉信託銀行の担当者に伝えた。翌朝その担当者から電話があった。
「大室瞬様、四つ葉信託銀行横浜支店の川島幸様の担当の者です。昨日亡くなられた川島幸様のご遺言を預かっており、その内容に従いまして、全財産を大室瞬様が相続するという手続きを取らせていただきたく存じます。お時間のある時に当行にお越しいただけませんでしょうか」
僕は決して死を美化するつもりはないし、ましてや安楽死の是非に特別に意見をするつもりもない。しかし、もうたくさん、と言い続ける患者の心からの声を僕は聞かないふりをしながら、診療を継続した。それなのに、川島幸は自分を無視してきたその医師を最期まで信頼してくれた。僕が終末期医療に心からの納得がいかないと思うのはそういう瞬間だ。CF506に惹かれる真の理由かもしれない。


取材
私は週刊立春の政治部記者、山崎保だ。こんな熱を入れた取材は久しぶりだ。これはひとえにの感謝の念からだ。私の母の異常を指摘したのは故郷北海道釧路の病院だった。骨髄異形成症候群と診断され、余命3ヶ月で治療法はない、と言われ途方に暮れた。評判が良いと友人から聞いた横浜ベイサイドクリニックの外来に相談に来たのが大室瞬との出会いだ。
大室瞬は、造血幹細胞移植の可能性を話し、横浜セントルーカス大学病院血液内科を紹介してくれた。造血幹細胞移植はうまくいき母は今も元気だ。医療の地域格差はなお存在しているのだ。私は大室瞬が犯人であるはずがないと確信している。人の命を救うために持てる力をすべて使う、そういう医者が人を殺すわけがないと。
コーラルファーマ開発部長殺人事件について、私は先週の初報に引き続き今週の続報に間に合わせるために、思いきって懐に飛び込んで込んで取材をしていた。これまでの取材で疑惑の中心にいるとふんでいる宇都宮正医系次官へのインタビューの約束を取りつけた。宇都宮正はグランドパレスホテルのラウンジを約束の場所に指定してきた。大手町にある厚生労働省お役人御用達のホテルだ。早めに到着し先に席ついて待つことにした。

今日はどこから話をして、どのあたりをゴールにするか。インタビューの前には真のゴールと今日のゴールを決めるのが私のやり方だ。まずは、コーラルファーマ開発部長殺害の報道を知っているか。その中で話題になっているコーラルファーマが開発中の新薬CF506について知っているか。知っているならばその開発に賛成か反対か。厚生労働省内で医系と事務系との覇権争いがあるというのは本当か。このあたりを今日のゴールにしようと私は考えていた。真のゴールは「誰が犯人か」だ。

10年前、私は取材中に急に胸が痛くなり動悸がすることが何度かあった。
「最近休みが取れていないので疲れが溜まっているのだろう」
と勝手に思っていたが、ある取材で夜の9時頃に日進自動車横浜本社に詰めていた時に胸が痛くなり、30分くらい経った頃から痛みが強くなり、冷や汗が出てきて、立っているのもつらくなってきた。気分が悪くトイレに行き嘔吐した。痛みは次第に強くなっていく。
「これはどうやらただ事ではない」
仲間を呼び救急車を手配してもらった。救急車が来た時には意識も薄れていた。サイレンの音が響いていたことだけは覚えている。後で聞いた話では血圧が40mmHgしかなかったらしい。血圧が低下してショック状態で運ばれたのは横浜セントルーカス大学病院だった。いくつかの病院に断られた末の搬送だった。


負傷
その日の当直は石井武彦だった。患者の心電図を見てすぐに急性心筋梗塞であると診断した。カテーテル室の準備と指導医である僕への連絡を看護師に指示をした。同時にCoronary Care Unit(CCU)へのベッド確保の連絡と患者の家族へ、入院してこれから治療するという連絡をするよう伝えた。石井武彦はゆっくりと手順を確認しながらカテーテル室に向かった。手洗いを終えてカテーテル室に入るとすでに患者の身体の上には清潔な布と清潔なカテーテル用のセットが置かれていた。看護師から連絡をもらった僕が先にカテーテルセットを開けて準備をしていた。
「大室先生、お願いします」
「石井先生、よろしく」
石井武彦がカテーテルを開始した。
「山崎さん、検査を始めますね」
動脈穿刺を始める様子を僕は後ろから注意深く見ていた。カテーテル室の次世代を担うのは石井武彦だと僕は思っていた。患者の意識は戻ってきて、看護師や技師がてきぱきと動き、カテーテルは順調に進行していた。
「では左冠動脈を造影します。山崎さん、聞こえますか?」
山崎保は何か答えようとしたが酸素マスクが口元を覆っていたためうまく声が出ない。石井武彦が手元のシリンジを適度な強さで押し造影した。左冠動脈の完全閉塞だった。
「ステント用意して。3㎜で」
手を変わろうとした石井武彦に僕は言った。
「石井先生、やってみるか?」
「いいのですか?」
少し驚いた様子だったが大きくはっきりと頷いた。もしも危ない状況になればすぐに手を変えて僕がステント留置を行うつもりだったが、石井武彦はすべてを難なくやり遂げた。
「ステント留置終了」
「石井先生、お疲れ様。お見事。さてあとは血行動態が落ち着くまで、念のためにIABP(大動脈内バルーンパンピング)を装着して終わりにしよう」
そう声をかけて僕がメスを渡そうとしたとき誤ってメスの刃が石井武彦の右手首を切った。
「うっ…」
「あ、石井先生、すまない。大丈夫か」
右手首をガーゼで押さえたが、出血が止まらない。清潔なメスなので感染症は心配ない。
「石井先生、ここまで石井先生がやってくれれば、あとのことは僕がするので、手を下ろして、外科医に右手首の処置をしてもらってくれ」
そう言うと、大室先生が看護師に外科医を呼ぶように頼んだ。
「IABP開始。血行動態は問題なし。よし、終了。CCUに入れて」
右手首の処置が終わり、着替えて医局に戻った石井武彦は、満たされた気持ちだった。興奮もしていた。何しろ初めて自分の手で患者の命を救ったのだ。右手首を負傷したが、幸い大事には至らない軽症だったし、痛みも強くはない。言ってみれば名誉の負傷だ。カテーテル治療が面白いこと、自分がまだまだ未熟であること、そして上司が素晴らしいことを身に染みて実感していた。自分も上に立ったら部下の医者に対して同じように振舞えるだろうか。部下に任せて、責任を取る。上司の基本だが、なかなかできることではない。特に患者の命がかかっている場面で部下に任せることは、自分自身の知識や技術に自信がなければできないことだ。医師としても、部下を育てる上司としても、必要な素養を身につけていて、部下からも慕われる。大室瞬はそれに値する男だった。石井武彦は大室瞬に憧れていた。さあ、CCUに行って患者に説明をしてこよう。
CCUのベッドサイドに向かった。
「山崎さん、わかりますか?」
「はい」
酸素マスク越しで声はよく聞こえなかったが軽く頷いたのはわかった。
「心筋梗塞でした。指導医の大室先生からも明日細かい説明があると思いますが、危ないところでしたよ。ステントという器具を心臓の血管、冠動脈と言いますが、そこに入れることによって幸い命は助かりました。ご家族には大室先生から、安心してください、ということをお伝えしてあります。今日はもう夜中なのでゆっくり休んでください。話はまた明日にしましょう」

腱断裂
「石井さん、2番診察室からお入りください」
名誉の負傷と思っていたが、表面の傷が治ってもなお右手親指をうまく動かすことができなかった。大したことではなく時間経過とともに良くなるだろうと軽く考えていたのだが、実際にはそうはならなかった。横浜セントルーカス大学病院整形外科を受診して相談することにした。
「こんにちは、石井先生。その後の傷の具合はいかがですか?」
「はい、傷はほぼ完治したのですが、親指が思ったように動かなくて。全然動ないわけではないのですが、感覚が鈍いというか、自分が思ったようには動かないというか」
それを聞くと整形外科医は石井武彦の右手首を手に取り様々なところを押したり触ったりしながらひと通りの診察したところで整形外科医は言った。
「石井先生、思ったよりも傷が深かったようですね。右手首の腱が一部断裂しているかもしれません。MRI検査をしてみましょう。」
そう言うとその場で放射線科に電話をしてその日のうちにMRIが撮れるように予約してくれた。翌日石井武彦は予約外の枠で整形外科医に呼ばれた。
「石井先生、お忙しいのにすみません。昨日のMRIの結果を説明したいと思いまして」
そう言いながら画像用モニターのスイッチをONにした。
「石井先生、いいですか。ここです。ここのところ、腱が一部断裂しています。親指がうまく動かないのはおそらくこの部分断裂が原因だと思います」
私は言われていることがうまく呑み込めずに聞き返した。
「それは、つまり、時間が経っても戻らないということでしょうか?」
整形外科医は慎重に言葉を選びながら続けた。
「絶対に戻らないとは言えません。ただ戻るとしても相当時間がかかるだろうと思います。手術を検討するというのも一つの選択肢かと思います。石井先生、これからもカテーテルを続けたいと思うのであれば手術も悪くないと思いますが、どうでしょう?」
少し時間をおいて答えた。
「少し考えさせてください」
診察室を出た。悩んだ。手術を受けるべきか、それともこのまま経過を見るか。右手首の怪我以降カテーテルを触っていない。治らなければカテーテルを諦めるのか。大室先生に相談するか。いや、大室先生の問題ではなく、自分自身の問題だ。
石井武彦は仁天堂大学病院整形外科の外来で順番待ちをしていた。
「石井さん、5番診察室からどうぞ」
待合室の椅子を立って五番診察室の扉をノックして入った。
「石井さん、いや失礼。石井先生。いまMRIのCD-ROMを見ていました。手術をしてみませんか?元に戻るかどうかは五分五分です。手術はやってみないとわかりません。ただ手術しなければおそらく戻ることはないでしょう。どうでしょう。任せていただけませんか?」
「先生、腱再建術に賭けてみようと思います。よろしくお願いします」
私は連休と有給休暇を合わせて使って仁天堂大学病院で手術を受けた。カテーテル室勤務からCCU勤務になったおかげで右手首の怪我もその手術も周囲に知られずに日常診療を続けることができた。しかし術後二週間経ってリハビリを続けたが右手親指は思ったように動かないままだった。私は次第に諦めに近い気持ちになると同時に、原因を作った指導医大室瞬に対する恨みのような気落ちがふと頭をよぎるようになっていた。
「なんであの時大室先生はメスを。もしかしたらわざとやったのではないか。いや、そんなはずはない。でも大室先生のせいでこうなっているのは事実だ」

スクープ
山崎保は約束の場所で周りを見渡しそれらしい人に声をかけた。
「失礼ですが、土井弁護士でいらっしゃいますか?」
「はい。あなたは昨日お電話いただいた週刊立春の記者の方?」
名刺交換をしたあとまずは自己紹介した。
「昨日は不躾なお電話失礼いたしました。週刊立春政治部記者をしております山崎保といいます。実は、母が大室先生に命を救ってもらって、私自身も大室先生に命を救ってもらって、なんというか不思議なご縁で。なんとか私も大室先生の味方になりたい、大室先生を守る仲間になりたい一心で」
「そうでしたか。で、昨日お電話でおっしゃっていた厚生労働省内部の動きというのは本当ですか?」
興奮しながらも、できるだけ順を追ってわかりやすく説明した。つい声が大きくなりそうになってしまい、周囲を見渡して聞いている人がいないことを確認しながら、話を続けた。
「先日宇都宮正医系技官にも取材をしてきました。かなり核心をついていたようで相当動揺していて、取材は途中で中断されてしまいました。で、もともと厚労省のキャリアには事務系と医系があって、トップは事務次官で慣例的に事務系が踏襲してきました。その代わりと言っては何ですが、医系キャリアトップとして医務技官というポストが置かれています。そしてそのふたつの下に医政局長というポストがあるのですが、これが事務次官の登竜門になっているのです。で、いままでは医政局長は事務系キャリアが押さえてきたのですが、どうやらここにきて医系が巻き返しているらしくて、医政局長のポストを巡って事務系山口さんと医系宇都宮さんが派閥争いをしていて、宇都宮さんが勝てば医系キャリアの医政局長誕生、さらには事務次官誕生か、ということらしいのです。そこに株式会社コーラルファーマが大室先生の意見をもらいながら開発している新薬の登場です。この新薬開発に対しては、山口さんが賛成派、宇都宮さんが反対派。もともとの対立構造がさらに煽られているようです。医系技官側では相当なお金が動いているらしく、もちろん噂ではあるのですが、医系技官たちが裏で奔走しているようです。その金がどこから出ているのか、どこに流れているのか、今のところ定かではありません。ただ、この新薬、本当にやばいですよ。だって、1日1錠服用すると、糖尿病、心筋梗塞や脳梗塞といった動脈硬化性心血管イベント、がん、アルツハイマー病を抑制しながら、中止にすると30日で、糖尿病、動脈硬化、がん、アルツハイマーが急速に進行してほとんど全員死んでしまうらしいんです。そもそも開発のための治験をどこでどうやって実施するのか。だって薬を中止にしたら死ぬかもしれないわけでしょ?それでも治験のプロトコールではどこかの時点で治験薬を中止にしなければいけない。高齢者が治験で死ぬかもしれないのですよ。そんな治験、誰が責任医師として実施してくれるのかって話ですよ。この新薬はもう開発の一般論が通用しない新薬です。未来を見据えた新薬開発を考えられる医者でないとこんな新薬治験の責任医師なんてできません。今の治験の世界だったら大室先生の名前は必ず出てくるじゃないですか。一方で政治家や官僚の一部は何とかこの薬を新薬として承認したいと思っている。この新薬で高齢者を、ある意味殺そうとしている。生きているうちの医療費は下げておいて、適度なところで中止にして死んでもらう。しかしそれは倫理的に許されることではない。反対意見も出る。開発を阻止しようと思ったら、株式会社コーラルファーマの仲野さんと横浜ベイサイドクリニックの大室先生は邪魔なわけですよ。だってふたりが協力したらこの新薬、本当にPMEAに承認されて世の中に出てしまうかもしれない。仲野さんを消して大室先生を犯人にすれば物語は完結。開発中止。反対派にとっては、めでたし、めでたし、というわけです。あともう一つ興味深い情報です。セレンテックという、もともとはIT系製薬だった製薬企業がコーラルファーマの新薬と競合する新薬の開発をしているらしいのです。自社開発ではなくシーズを持っていた小さなバイオベンチャーを買収したのですが、これについても調べているところです。ひょっとすると宇都宮派の金の流れはセレンテックの新薬がらみかもしれません。この会社、以前に大室先生も関わっていたようですよ。事件の背景はおよそ見えてきていますので、解決しなければいけない問題は、詳細な金の流れ、仲野さんの殺害方法、すなわちどのように麻酔をかけてどのように穿刺したか、それと大室先生の指紋。こんなところでしょうか」
かなり具体的な話に土井義弘も身を前に乗り出して聞いてきた。
「そうすると、今の話の流れで言うと、本筋は宇都宮医系技官のクーデターってことですね。そして医系技官たちは新薬開発に反対で、彼らにとってはなんとしても阻止したい開発だと。仲野さんと大室先生はトカゲのしっぽ切りだと?」
「ま、推測が正しければですが、そういうことになりますね。今夜セレンテックで以前役員をしていた男と会う約束をしています。セレンテックの新薬開発の件についても何か聞き出せるかもしれません。麻酔と穿刺の件、このあたりの医療的な問題について、大室先生に確認していただけませんか?私は警察と、熊田という刑事なのですが、裏で情報共有しながらお金の流れについて追いかけています。何かわかればまたご連絡します」

筋読み
熊田哲夫は周囲に聞き込みをすればするほど大室瞬が犯人だと思えなくなっていた。最初の直感通りだ。あの男からは犯人特有の「匂い」がしない。自分とは180度違うタイプの人間だが、相当に有能な男だ。あれほどの男が人を殺すか。しかもあれほど頭がいい男が犯人は自分だというような証拠をわざわざ残してそのまま現場をあとにするか。どう考えても不自然だ。
熊田哲夫の今のところの筋読みはこうだった。医療の知識、それもあまり経験値の高くない知識を持つ犯人が、新薬開発の問題か、厚生労働省内の覇権争いとの関連か、それに伴うお金の問題か、仲野剛志や大室瞬に対する個人的な恨みか、あるいはそれらの組み合わせかで仲野を殺した。いずれであっても最後に残る、どうしても解決しておかなければいけない、熊田哲夫には理解できない問題があった。穿刺針を肋間に真っ直ぐ立て、しかも刺す前にメスでわずかに切開している。なぜ切開をする必要があるのか。直接一発で刺せばいいじゃないか。メスでの切開は、手術やカテーテルを行う際にはよくすることらしいが、メスで切開すれば当然痛いので、普通に考えれば麻酔を必要とする。その麻酔も注射であれば痛みを伴う。される側は暴れるだろう。犯人はどのようにこれを実行したのか。そしてなぜそんな面倒なやり方をしたのか。ここは医者である大室瞬にぶつけてみるか。
熊田哲夫は平沢健介と土井弁護士に、僕の滞在場所を毎日報告するよう指示をしていた。ボストンプラザホテルにいることは教えている。ホテル暮らしも金曜日からだから今日で3日目になる。熊田哲夫は平沢健介に電話をした。
「警視庁の熊田です。ああ、大室先生は変わらずにホテル滞在ですか」
「今日は日曜日ですので3日目になりますが、部屋から一歩も出していませんよ」
平沢健介はいかにも自分が管理しているというように答えた。
「ご協力ありがとうございます。で、ご相談なのですが、ああ、もしも可能ならですが、ええ、警察で少し事情を伺いたいのです。こちらに来ていただけませんか」
平沢健介は少し慎重になった。
「そろそろマスコミも落ち着いてきているので車で向かうことはできますが、土井弁護士にも相談してからのお返事でよろしいでしょうか」
「では土井先生のご許可を頂けたら、土井先生、平沢事務長もご一緒に、本日日曜日夕方4時に警視庁捜査第一課に来ていただいて熊田を呼んでくださいますか?」
「わかりました」
熊田哲夫は電話を切ったあと考えていた。大室瞬が犯人という捜査本部の方針通りならば、ホテルに踏み込んできて連行したいところだが、今の状況であれば大室瞬は容疑者から外してもいいくらいだ。大室瞬からはむしろ医療の専門家としてのアドバイスが欲しい。

心当たり
「わざわざ来ていただいて申し訳ありません。ええ、我々もあれから色々と調べているのですが、正直言うと私には大室先生が殺したとはどうしても思えないのですよ。ええ、もちろん大室先生にならできるはずです。しかしあなたほどの医者が何の理由もなく、何の動機もなく、しかもあんな稚拙なやり方で殺人を犯すというのがどうにも腑に落ちない。ああ、ただ使用している凶器の穿刺針は医者が使うもので、しかもあなたの指紋が付着していた。例えば、ああ、例えばですよ、あなたを妬んでいる医者があなたを犯人に仕立て上げたのではないかと。ええ、あなたの周囲の医者でどなたかそういう人間に心当たりはありませんかねえ。」
熊田哲夫は新薬開発の問題や厚生労働省の問題には触れずに、まずは大室瞬個人のことだけを聞いた。
「いいえ、僕には思いあたりません」
僕ははっきりと答えた。本当は一人疑っている医者がいたのだが。
熊田哲夫は続けた。
「犯人はですね、ええ、仲野がソファで寝ているときに」
そう言いながら僕の目の前で無防備に床に寝転んでみせた。
「ええ、まず何らかの麻酔をしたはずです。それも局所麻酔ではなく全身麻酔だったはずです。そのうえで左第三肋間に切開を加えて、ええ、そこに穿刺針を真っ直ぐに突き刺した」
熊田哲夫はここで起き上がった。
「大室先生、あなた、このやり方をお聞きになって何か気がつくことないですか」
しばらく間をおいて僕は話を始めた。
「まず麻酔ですが、笑気などの吸入麻酔と静脈麻酔を併用すれば簡単ですが、解剖の結果では薬物成分は出ていないですか?」
「ええ、薬物についてはある程度調べましたが、ああ、何も引っかかりませんでしたよ」
僕は続けた。
「吸入麻酔薬は実際には病院以外での使用は限定されますからねえ。そうすると、局所麻酔の、例えばまず、ペンレス、一般名をリドカインと言いますが、テープ剤を肘部に貼付する。通常医者は患者の右側に立つことが多いので貼付するとしたらおそらくは右肘部でしょう。しばらくすると右肘部は局所麻酔されて無痛状態になります。そこの肘静脈から例えばディプリバン、一般名プロポフォールをゆっくりと静脈注射する。薬の作用ですぐに意識はなくなるでしょう。そして短時間作用型プロポフォールであれば体内からは検出されないでしょう。右肘に注射の跡、テープをはがした跡がないか。確認してみてもらえますか?」
さらに続けた。
「それと、大変興味深い、と言ってはなんですが、穿刺の方法がなんだか解剖学の教科書を見ながら穿刺しているように感じるのです。左第三肋間から真っ直ぐに刺したと言いましたよね。しかもご丁寧に小切開を加えたうえで。切開などしなくても乱暴に思い切り刺すだけでもいいところを、より確実に穿刺したかったのか、考え方が医者的です。しかもその高さ、第三肋間ですと、おそらく心房、心臓の上半分を心房と言い下半分を心室というのですが、左心房に刺さると思います。心臓は左心室、左の下ですが、ここの圧が一番高いのです。当然そこに刺すと出血が早い。それには胸骨下左縁から斜め右上に針を進めて心尖部を、左心室の先端部のところをそう言いますが、そこを刺すのが一番確実でしょうね。心臓の外側には心嚢という膜があって心嚢と心臓の間に液がたまってしまう状態を心タンポナーデというのですが、そういうことが起きた時は、実際にその方法で心嚢に穿刺して心嚢液を体外へ排出させます。もしも僕が犯人ならば、僕は犯人ではないので、もしもの話、ですよ。僕ならば、これが一番確実に左心室に穿刺できる方法で殺すかと。ただしこの方法には経験が必要です。慣れていないとなかなか難しい」
熊田哲夫は思い切って聞いてみた。
「大室先生ならいかがですか。ああ、失礼を承知で聞きますが、大室先生なら今説明された方法で実行できますか?」
「そうですね。僕が普通にやれば99パーセントはうまくできると思いますよ。でも研修医レベルだと、特にエコーの機械もなく一人だけだと、どうでしょう、厳しいでしょうね」
やはりそうなのだ。これで犯人の特徴がはっきりしてきたと熊田哲夫は思った。残るはこの事件の背景だ。厚生労働省の問題。金の問題。誰が出しているのか。どこに流れているのか。これも犯人をある程度絞り込めればおのずと明らかになってくるだろう。そうなればあとは検察の仕事だ。熊田哲夫は部下に仲野剛志の解剖結果を確認させた。右肘部にテープをはがした跡と注射の跡があったことを確認した。大室瞬が指摘した通りだった。プロの医者だということを思い知らされる。大室瞬が敵でなくてよかった。


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