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書けないことについて

 当初、「書くことについて」という題で出すつもりだったのだが、むしろ「書けない」ことへの思索であることを鑑みるにこちらのタイトルの方がよかろうと思い至り、改題することとなった。
 さて、最近遅筆が極まっている。書きたいことはしばしば頭に去来するし執筆にも取り掛かっては見るのだが、400字詰め原稿用紙にしてものの一枚くらいでパタリと筆が止まってしまう。こういうことを表現したいのだという心象はあるにも拘わらずそれを言葉に乗せてスケッチすることがどうしてもできないのだ。こういった経験をこの1ヶ月のうちに片手では数えられないくらい積み重ねた(ということは少なくとも1週間に一回はこういう苦境に立たされているということだ)結果、この「書けない」という病について一度腰を据えて取り組んでみるほか快方に向かう余地はなかろうという結論に至り、このいささか逆説的な-そして悲しい哉、別に目新しいわけでもない-試みを始めたのである。
 この時点ですでに書けない/書きたくないという症状が現れ始めている。してみると、今の自分の精神状態をヴァージニア・ウルフに倣って事細かに記すことは「書けない病」に罹った私のカルテを残すことに他ならず、しばしののちに医者の目をもってこれを見聞することは、かの病への処方箋を書く最良の近道に他ならない。では始めてみよう。

 私は自室の机で原稿を書いている。ラップトップが机上にあるが、それは使わずに便箋に書いている。あえて手書きを選んだのは白い紙を汚すというサディスティックかつマゾヒスティックな感覚(マゾ的な要素は白い紙は私に汚されていると受動態で書き直してみると明確に立ち上がることだろう)を伴わずば書いている実感を得られないほどに「書く」という営みに対して精神が麻痺しているからである。と、ここで「書けないこと」への思索に邪魔が入る。今使っているのと同じ便箋に数日前に認めた数通の手紙のことが頭をよぎったのだ。徹底して他人行儀な手紙二通と、自己を露見させたようで最後の瞬間まで裸になり切れてはいないような手紙一通。特に後者について考えるまいとするうちに、今度は聴覚的な刺激が私を襲う。リビングで家族が客人と談笑している声が耳に入ってくる。この歓談を耳に入れず執筆に集中するためにイヤホンをしてYouTubeでブルックナーの騒々しい交響曲を流しているというのに。しかし、周囲の雑音を耳に入れまいとすればするほどそれに対して鋭敏になるのもまた真実であろう。と、この一文を「カルテ」に書き記すが、間を置かずしてこの手の使い古されて埃を被ったような格言をしたり顔で引き摺り出してくることのいかに恥ずべきかが身につまされて感じられその一文を塗りつぶす。折しも、午前中に読んだベンヤミンの評論にて「常套句」への罵詈雑言を目にしていたのでその恥じらいはひとしおである。どうして文筆家というのは同類に対してこうも辛辣なのだろうかとため息が出る。偉大なる先達たちのことを考えると自分が改めて何かしらの文章を認めることの意義が途端に見失われる。自分よりもずっと賢い人間たちがすでに森羅万象の最も細い枝葉に至るまで書き尽くしているというのに、どうして今さら自分が二番煎じをせねばならぬのか。さらに仮想的に読者のことを考えるといっそう絶望的な気分になる。私がどれだけ細かい部分にこだわったとしても「この文章の筆者は要するにこういうことを言いたいのね」という要旨を掴もうとする読みの業火に焼かれてディテールの存在は亡きものとされる。ここまでくると、自分の書いた文章が全て馬鹿らしいものに思え(あるいはより正確を期すならばその馬鹿らしさにようやく気がつき)、原稿を破棄する決意を固める。

 これは「書けない」ことを分析するための文章であるから、いくら下らなくても、そしていくら破棄したくてもそうするわけにはいかない。さもなくば永久にペンを捨てる以外の道は残されないから。
 ふと思う。なぜ永久にペンを捨てる決意はできないのだろうか。長きにわたり「書けない」と嘆き喚いているばかりか、偉大なる文筆家たちからそうするよう幾度なく迫られているというのに。
 してみると、問題は「書けない」ことよりも「書きたい」ことに所在するということか。質の低い文章を書きたくないという思いとは裏腹にせっかちに紙とペンを手に取ってしまう習性こそが諸悪の根源なのではなかろうか。「書きたい」という欲望そのものに罪はないが、その扱い方が罪深くあり続けてきたがために、ここにきて私はひどく行き詰まり苦しんでいるのではなかろうか。「せっかちに」と書いたがこれは本質的である。書きたいという欲求が書かねばならぬという切迫感の前に立つと、内容が煮詰まる前の良くも悪くもサラサラな状態の文章を生み出すことになる。ただ言葉の奔流を楽しみたいだけならばそれで充分だしむしろそうあるべきである。しかし、そこに何らかの思惟の痕跡、あるいは核を期待するならば、書きたいという絶えざる欲求に対して能う限り禁欲的であらねばならない。さもなくば先に述べた「こんなことを書いて何になるのか」やら「こんなことはきっと誰かがすでに書いているだろう、しかもおそらくはより巧みに」やらの絶望に囚われかえって欲求不満に陥るのは必定である。
 ここで、私が「せっかちに」紙とペンを手にしてしまう心性の原因を探ってみるに、一定程度SNS、特にTwitterの影響があるように思われる。Twitterの140字の文字数制限は「書きたいことを表現しきれなかった」というフラストレーションを与えるだけではなく「書きたいことをうまく表現しきれなかったがそれは文字数制限のせいである」という形で表現者に逃げ道を与える甘い誘惑でもある。さらに都合の悪いことに、Twitterにおいては非常に些細なことを呟く-お腹が空いた、お手洗いに行きたい、起床した、etc.-ことが許容されている節がある。例えば日記をつけるとして、これらの情報を書き記すかといえばおそらく答えはNoであろう。それだけ価値のない書き物をすることすら広く認められているのがTwitterという魔境である。字数制限と瑣末な内容。この二つを自覚せずしてTwitterを利用するのはまさに毒である。國分功一郎先生は授業中に4000字のレポート課題について「ツイート30個分くらいだからすぐ書けるでしょう」とふざけていたが、ツイートとレポートの間の決定的な懸隔に彼ほど自覚的な人もいないだろう。もしかしたら我々駒場の学生の書くレポートなぞどう転んでもツイートの集積くらいの価値しか持たないという強烈な皮肉だったのかもしれない。
 話を戻そう。禁欲的という言葉が裏側から示すのは、欲望が消えることは決してなく、またその欲望を恒常的に抑圧し続けることも不可能だということである。そして、書く行為をこれ以上延期することは不可能であるという切迫感に突き動かされて書いた文章ならば、たとえそれが自慰的なものであったとしても、これは自分にとって絶対的に必要な営みだったのだという最低限の慰めを実際に得ることができるだろう。そして、そのようにして生を受けた文章の中に人が見出すのは、「書きたい」という欲望の粗野でグロテスクな姿態での顕現ではなく、「書きたい」という欲望の没我的で美しい結晶であるはずだ。

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