寝過ごすことと床屋に行くこと、あるいはカムパネルラの死について

 久々に寝過ごした。かなり見事な寝過ごしであった。神奈川を走っている間は、ナボコフの『ロリータ』をその長ったらしく過度に皮肉っぽい文体に辟易しながら読んでいたのに、気付いたら浦和駅に列車は滑り込み『ロリータ』は手から滑り落ちて無惨に床でくしゃくしゃになっていた。あるいは、神奈川を走っている間は僕の向かいにいたのはマリンブルーのボタンダウンに黒のジャケットを合わせ、ベージュ色のハーフコート(裏地が素敵な浅葱色!)を羽織った女性だったのに、目覚めた時はマドラスチェックのシャツに季節外れの黒いダウンジャケットを羽織った女性だった。すっかり変わり果てた周りの状況にやれやれと思いながら本を拾ってとりあえず浦和駅で降りたものの、寝起きのぼおっとした頭の状態が妙に心地よくてしばらくホームのベンチに腰掛けてつらつらと寝過ごすことについて考えた。

 寝過ごすというのは実はかなり痛快な営みなのではなかろうか。こんなことを言うとまた君の逆張り詭弁が始まったのか、いい加減もうそれには飽きたよという反応をされるかもしれない。そりゃあ時間も無駄になるし下手をすれば終電が迫って帰れなくなるリスクすら生じる、なにより寝過ごすというこの世にある数々のやらかしの中でもなかなかに間抜けなことをしでかした自分自身へのフラストレーションが身に応える。しかし、そういった感情は後からじわじわ訪れるものであって、寝過ごしたことに気づいたその瞬間に注目すると事態は変わってくる。車窓から見える景色は刻一刻と変化し周囲の人々も各々の作業を進める中で自分だけは阿呆のように口を開けて眠りこけ、目が覚めるとプチ・浦島太郎みたいな顔になる。寝ている間も愚鈍な顔をしているのに、目覚めたら目覚めたで自分の属している時間と文脈を把握できなくてなお愚かしい顔つきになる。これを痛快と呼ばずしてなんと言えば良いだろうか。この痛快さは床屋に行くのとも似ている。スキンヘッド以外なら好きにやってかまわぬなどと理容師に伝えてからはどんと構えて漫画に没頭し、およそ1時間の後に全くの別人と化した自分の姿に愕然とする瞬間はとても素敵だ。むしろ大して変貌を遂げていないときの方が不愉快である。それに、やたらと話しかけてくるタイプの理容師!美容師にこの手合いは多いけれど、こちらはにこやかな会話をするためにお金を払うのではなくて約1時間後に謎の人物と鏡越しの対面を果たす厳粛な儀式のためにお金を払っているのだ。厳粛な儀式に軽妙な会話は必要ない。

 寝過ごしたとき、私たちは自分が喪失した時間と文脈に否応なく意識が向くが、そもそも常にアテンティヴに生きることなどとても叶わない話なわけで、生きているだけで時間と文脈を毎秒少しずつ失っていく。手からさらさらとこぼれる砂のように。でもやはり、寝過ごすとき、床屋で自分の椅子に座っている別人を発見するときに失われる時間と文脈は格別である。「床屋で別人を発見する」と書いたがこれは本質的だ。目覚める瞬間、あるいは理容師に施術終了を知らされる瞬間に私が引き戻される世界はそれまでとはなんと違ったものであろうか。よく寝過ごして目が覚めたときの感覚を「タイムスリップ/タイムトラベル」と形容する人がいるけれど、そんな甘っちょろいものではない。寝過ごしと散髪の前後では「私」はまったくの別人だ。だからむしろ生まれ変わるとでも言うべきだ。私が目を覚ますと同時にカムパネルラは最後のあぶくを水中に吐き出し、目を覚ました私は失われた時と文脈を悼んで寝過ごした己と理容師を呪い、それからようやく諦めて生まれ変わった先の世界に向かって歩き出す。新しい世界では石原さとみの唇が「たらこ」ではなくて「熟れたいちご」と形容されているかもしれないし、右手にあったほくろが左手に移動しているかもしれない。実際はそんなわかりやすく環境が変化してくれているはずはない。それでも、カムパネルラが死んでジョバンニが生まれ変わったのは間違いない。寝過ごすとき、私たちは一度死んで生まれ変わらねばならぬのだ。

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