非合理な特殊解 3
夏子はこの日は早めに退社し、会社から一番遠い入り口から地下鉄へ入った。
清澄白河駅へ着くと、トイレで眼鏡を仕舞い、濃い青と濃い緑のチェック柄のワンピースに着替え、髪の縛りグセを櫛でと梳かした。会社の人に会いそうにない清澄白河役は、近場ではとても使い勝手の良い駅だった。
夏子はいつも、地下鉄を降りて地上に出ると、橋の見える方へ歩いて行った。そして大抵は、渡る細いどこかの路地に見覚えのある黒い車が停まっているのを見つけるのだった。
車に近づくと、後部座席の窓が空き、
「律、元気?」
と笑顔で迎えてくれる。
夏子は車に興味がない。車の違いが全く分からない。色と、普通車か軽自動車かということくらいしか分からない。しかし、そんな夏子でも、その黒い車に乗るといつも一瞬緊張した。何となく普通の車ではなさそうだと思っていた。
夏子はお店では律と名乗り、その人は宮本と名乗った。その宮本という人は、以前は大きな会社の偉い人だったらしい。噂で何となく聞いた程度なので、本当かどうかは分からない。律は、相手が自分の肩書きを話してくるまで聞かない主義なので、肩書きを言ってこないということは、肩書きなしの普通の人対人で接してほしい、とのメッセージと捉えて、そう付き合うようにしていた。
80代後半のそのご老人は、私が隣に座るとすぐに、
「昨日今日はどうしてたの?」
「最近何か面白いことあった?」
と律へ質問した。そこで大抵は、ここ1〜2週間の間に起こった面白かった事、驚いた事などを報告することになっていた。普通の庶民の話を聞いて、いつも意外と面白そうにしているから不思議だった。
「今日は普通に会社でしたよ。昨日も。昨日はオフィスの有料のお菓子をお金を払わないで棚から取っていく犯人を、ついに見つけたの。犯人の当たりをつけて、今日はしっかり見てたのね。証人としてもう一人にも確認してもらったの。その犯人の人は会議中に取る出前の昼食でも、みんな親子丼とか天丼とか食べているのに1人だけ鰻重とか頼んだりするの。支払いが会社の経費になる時はいつもそういうことをしがちで、出前の件は犯罪とかじゃないけど、何とも思わないのかな、といつも思っていたのよね。」
「そういう奴もいるよな。」
宮本は鳥越神社の鳥居の辺りを目で追いながら答えた。律も、ここはこの前神輿で通ったなと思った。
「それから、昨日のお店は、割と暇で。外国人もいたかな。そういえば、中東系の人が何人か来店してたと思う。」
「そう。」
宮本はこの話題にも興味がないようだと律は感じたので、すぐに話を変えた。
「その後、真夜中からバイトしたの。」
「店が終わってからって、0時すぎてるだろう?」
「うん。」
一瞬お父さんに叱られているような雰囲気を感じて、キョトンとしながら答えた。
「どんなバイトなの?」
「絵を描かれるバイト。」
宮本の意外に真剣な物言いに、律の声はどんどん小さくなっていく。
「描かれる?何それ。」
「画家が私の背中に絵を描くの。」
「背中?どうやってそういう仕事が舞い込むわけ?」
「町で声をかけられたのに近いかな。」
宮本はどんどん不機嫌になり、律はしどろもどろになった。
「どんななの?見せてよ。」
「写真は私持ってませんよ。」
何で怒らせたのかなと思いながら律は答えた。
「無いの?」
「うん。彼女は持ってると思うけど。」
エマのアトリエで、朝かすかに聞こえたような気のする携帯電話のシャッター音を思い出しながら言った。すると宮本は急に笑い出した。
「え、女?はははは。なーんだつまんない。」
「つまんないって?えっ、ついに!だと思った?」
律は苦笑いになった。
「思った。思った。でも違うのか!ははは。」
宮本のご機嫌は戻ったが、律は少し複雑な気持ちになった。違う訳でもないが、ややこしいことになりそうなので今は黙っておくことにした。
「それで描いてどうするの?」
「いつも眠くなって途中から寝ちゃうからよくわかんないんだけど、描いた絵を写真に収めて終了なんじゃない?」
「大丈夫なの?」
「うん 多分。彼女には顔は撮らないでねと言ってあるし。」
「嫌じゃないの?」
宮本の心配そうな顔に、律はなぜか少し申し訳ない気持ちになった。
「嫌じゃないと言えば嘘になるよ。元々写真を撮られるの全く好きじゃないんだけど、でもね、彼女がとても喜ぶの。印刷した写真は、アルバムに大事に仕舞ってあるみたい。」
律は間違ったことをしていないかどうかを思いを巡らせつつ、自分にいい聞かせるように答えた。
「もう少し自分のことを大事にしてみたら?」
宮本に初めて会った日にもそう言われたな、と律は思った。
「え?これって私は私を大事にしてないの?私ね、完成した絵を見ると毎回感動するんですよ。しかもすぐに絵を落とさなきゃいけないと思うと、余計に愛おしくなったり。」
律はとても嬉しそうに話した。
「そう?」
宮本は、律がその画家の女をなぜそんなに信じているか解せなかったが、顔色の良さそうな元気な律の笑顔を見て、これ以上心配するのはやめておくことにした。
「それからまた朝になったら会社へ行って、今日のお昼休みは中国人のエンジニアの女の子がAIについて力説してたんだけど、私の知識が無さすぎて話についていけなかったの。これからどうなっていくんだろうね。」
「そうだな。」
「あ、そうそう、その人に、日本ではあなたのような人も楽しく生きていけるのよね、と言われたの。日本は数値化出来ないものも大事にすると言っていたのだけど、これどう言う意味だったのだろう。」
「良し悪しあるけど、数値化できないものも大切にするってのは、分かる気がするけど。」
「そうですか?」
「海外出れば分かるんだろうけど。挙げればキリがないよ。」
「ふーん。沢山あるのか。じゃ、私のような人って、どんななのかな。取り柄もないのに、気にしないで楽しく生きてる人?」
「そうかもしれないけど、何だろうな。最初、すごく貧しそうだなと思ったよ。でも確かに、それとは不釣り合いに面白そうに生きてるやつだとも思った。身なりは田舎者の新人って感じで、しっかり髪も服もらしくなっているのに、異様に地味で、それでいて子供のようだった。」
「あの6丁目の喫茶店で?」
「そうそう。一人で本の世界に没頭しているのが、側の席に座っていて笑っちゃうくらいよく分かったよ。」
「あの時もごめんなさい。うっかりコーヒーをこぼして、宮本さんのお洋服にシミをつけてしまいましたね。」
律は申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいよ。いくら何でも俺だってあれがなかったら声をかけられなかったから。」
宮本は穏やかな笑顔で律を見た。
「しかも、あの時は確か、長編小説のクライマックスあたりを読んでいて、心理描写が行ったり来たりで焦ったい話を15万字以上も読んで、いよいよ!というところで急に話しかけられたから、現実に戻ってくるまでに数分かかって、ご迷惑かけたのに、すごく無愛想な対応をして、今でもあれも後悔してます。ごめんなさい。」
「ははは。面白かったよ。これからも色々話してよ。」
「こんなんで良かったら。」
律は喜んでもらえて嬉しい反面、こんな普通な話で喜ぶ宮本はどんな日常を送っているのだろうとも思った。
窓の外は見覚えある街並みだった。去年神田祭の神輿で通った道だった。神輿の下で人の頭と神輿の丸太の間から見えた小さな空と見覚えあるビルの看板。一瞬にしてあの時の熱気が思い起こされた。
「そういえば、ホームタウンの大事さをこの前思いましたよ。先週は胃が痛くてあまりご飯が食べられなかったのに、お店から歩いて家まで帰る途中、気がついたら色々と買いすぎちゃって。家に持って帰っても腐らせそうだし、通りかかった新富町の公園の近くに座っていたホームレスの人に一つおにぎりか何かをどうぞと手渡しながら、あなたの後悔を教えてください、と聞いてみたの。」
「そう。」
宮本はとても驚いた表情で律を見た。
「しばらくは何を言っているか分からない言葉をゴニョゴニョとしていたけど、段々と私が聞き取れるようになってきて、寂しい、とか、会いたい、という単語を何度も言っていると分かってきたの。」
「そう。それで?」
「誰に会いたい?どこに行きたい?と聞いたら、兄妹とか親とか、家族と言ってた。じゃあ、行けばいいじゃない?と言ったら、もう無い、と言ってたのを聞いて思ったの。人はそもそも、ホームが1つか2つしか無いなんて、とても危ういことなんじゃ無いかと。」
「そう。」
「ホームだ!と思えるようなところ、いくつありますか?」
「そうだな。いくつもは無いな。」
「私は実家だって親と喧嘩して3年帰ってないし、画家のお友達のお家は大好きだけど、今の私にはそれだけだから、怖くなっちゃった。ホームみたいなところを、たくさん作らないと。」
そう言うと、律は深く頷いたが、宮本は
「そう思う?」
と眉を顰めた。
「はい。」
律は、宮本に何故分かってもらえないのかと不思議そうな顔をした。
「しかも、よくホームレスに声かけるね。夜中に。」
「買いすぎたから、たまたまです。エコだから。勿体無いでしょう?それはさておき、どうやったらホームが出来るのでしょうね。」
「家族の外だろう?仕事と言いたいところだけど、そうでも無いかもなあ。趣味とか?」
「趣味ですか。趣味も今は読書くらいしか無いですから。こんなんでホームできるかな?」
「それじゃ、夢とか目標は?」
「これと言って無くて。あるとすれば、日本がずっと良いところであってほしいということでしょうか。」
「金とかなりたい職業とか無いのか?」
「今は借金あるから多少金欲あるけど、それが無くなったら、欲が本当に無くなるかもしれない。しょうがないよ。子供の頃、毎日私のじーさんの横で寝ていて、戦地での悪夢でじーさん歯軋りしたり、うなされたりで毎晩のように眠れなかったんだから。今の普通な日常は、こういう過去大変な思いをした人たちのお陰だと、よくよく思い知らされてますから。」
「本当にあんたのじーさんは幸せ者だわ。」
「え、孫とかひ孫とかと眠ったりしません?」
「しないな。しなかったな。無いだろうな。だから羨ましいわ。」
宮本が微笑んだ。こんなことを羨ましがるものなのか、と思うと、何とかしてあげたくなってきた。
「なーんだ。しょうがないな。」
律は両手を広げて見せると、宮本は少し意地悪な顔で笑いながら、
「え、いいの?いつ?」
と顔を律へ近付けた。
「ほらほら着着ましたよ。ははは。」
律は、楽しそうな宮本の背後の窓の、六義園の臙脂色の外壁へ目をやった。
「何だよ馬鹿野郎。ははは。」
宮本は向き直った。
「そうだよ。いつも馬鹿野郎でごめんね。全然飛べてないくせに、せっかくの鳥籠にも入らないで逃げ回って、ご心配ばかりかけちゃって。本当にごめんなさい。」
宮本は何度か律の就職先を見つけようとしてくれたりしたことがあったが、律はそれらを全て断っていた。
「そうだよ。馬鹿野郎だ。でも、最近は鳥籠に入れたら元気なくなるんだろうと分かってきたよ。」
「ありがとう。分かってくれて。それに、自分だけ鳥籠に入るということが、なかなか納得できなくて。お願いがあるとすれば、鳥籠の外にいても、安心な世の中になって欲しいということかな。宮本さん、お願いします。」
律はペコリと頭を下げると、宮本は苦笑いになった。
「俺に言われても。」
「じゃあ、誰にいえばいいの?」
「そうだな、難しいな。」
「そんなこと言わないでよ。私が今までに出会った人の中で、一番出来そうなオーラがある人なんだから。どうか宜しくお願いします。」
車が停車し、宮本は運転手に少し待ってと目で合図をしてから言った。
「もう隠居なんだよ?」
「でも、水戸黄門だって御隠居って呼ばれてるけど強いじゃない?」
律は笑いながらも、内心は真剣に話した。
「ははは。分かった。とにかく、たまにはちゃんと眠ることだな。」
宮本は律へ、外へ行こうと目で合図した。
「はい。」
律は小さなショルダーバッグを肩に下げながら、昼のメールの句を思い出した。
「あ!そういえば、何かありました?」
「まあ。でも、もういい。」
「もういいって?」
律はかける言葉を考えたが、思い浮かばなかった。
宮本も特に言いたそうにないようなのでこれ以上話すのはやめることにした。
六義園の入り口へ進みながら、律は少し先を歩く宮本の日常を想像した。孫と一緒に眠ることが無いらしい、宮本の日常を。
大きな枝垂れ桜を通り、池の側まで来ると、律の大好きな本のあるシーンが浮かび上がってきた。
「西太后に使える宦官ならどうするんだろう。こんな時は。」
「え?」
「西太后と若い宦官が、避暑地の頤和園をお散歩するところの絵が今頭に浮かんだの。」
「ああ。」
宮本は、律が以前にその小説について語っていた事を思い出した。
「手を繋いでるんだよ。つなぐというか、宦官がエスコートしてるというか。支えてるというか。お支えしましょうか。」
律が宮本の腕を抱えて支えようとすると、宮本は振り解いて、
「要らないよ。まだ歩けるよ。」
と言い、背を伸ばして律にアイサインをした。
「私エスコートは要りませんよ。手を繋ごう。」
律は宮本の左手を握った。そして少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「ははは。孫と散歩だな。」
「そうそう。ははは。」
宮本の手は力強くて温かかった。
律は紙の案内図を見ながら呟いた。
「本気の騎馬戦してるみたいだね。」
道の両側の緑のあちこちから虫の声が聞こえてきた。
「ははは。当たらずも遠からずだな。」
僅かに水の音も近づいてくる。律はその方へと宮本の手を引いた。
「私には一生わからないかも。山奥の小さな畑じゃ、指相撲も起こらないよ。想像も難しい。ごめんね。」
律が振り返ると宮本は下を向き、表情が全く見えなかった。慌てて顔を覗き込むと、宮本は歯に噛んだ笑みを浮かべていた。律が安堵して微笑むと、宮本は繋いだ手を引き寄せた。
「いいじゃないか。それで。それでいい。」
久しぶりに見た宮本の満遍の笑みだった。
「うん。」
律は嬉しくなった。
「それからね、歌は歌でがいいな。」
宮本は携帯電話を取り出して言った。
「分かりました。」
歌なんて作ったことがなかった律には出来るかどうか自信が無かったが、目の前の嬉しそうな人を見て、断ることができなかった。
「じゃ、吟行しようか。」
張り切った宮本が言った。
「はい。でももう閉園まであまり時間がないから、作るのは後。とにかく、お散歩しましょう。紫陽花観ましょう。」
律は少し申し訳なさそうに言うと、宮本はまた歯に噛みながら
「それもそうだな。」
と呟いた。
宮本はとても特殊なお客様だった。一度、宮本の側の人が店の人と話していただけで、本人がお店に来たことは無かった。
銀座へ向かう車の中で、宮本はいつものようにお店へ渡す封筒を律に手渡すと、
「今度は写真見せて。」
と妙にソワソワしながら言った。
もっと早く聞きたかったのに、「自分を大事にしたら」と言ってしまった手前、言うに言えなかったのだろうか。今までこんな事を内心躊躇っていたのかと思うと、やはりこの宮本という人は可愛い人だと律は思った。
律はニッコリ頷いた。
程なく車は3丁目辺りの細い路地に入った。そして律を降ろし、去って行った。
そしていつものように、律は車が見えなくなるまで見送った。
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