タクンタ・エスコバル 2

「園森、ダーウィンの進化論って知ってるか?」
ベントレーの後部座席に乗った柴山が、ネオンにきらめく街を眺めながら尋ねた。
 「知りません。自分、まともに学校に行ってなかったので」
 「いままで、地球にはいろんな種類の生物がいただろ?人間はもともとサルだったっていうし、ペンギンはもともと、空を飛べたらしい。つまり、生物は等しく進歩しているわけだ。何億年という歴史の中で、自然界の生き物たちは殺し合いを繰り広げながらも、進化して絶えず種を存続させてきた。」
 「は、はぁ…」
 「その生存競争を今の生物は勝ち抜いてきた。その理由が分かるか?」
 「足が早かったり、腕力があったってことですかね?」
 「俺も最初はそう思ってた。だがよ、ダーウィンによると、変化に適応できるやつが生き残ってきたらしい」
 「そうですか。変化に適応できるです、か。」
園森は助手席で戸惑いながらも柴山の突飛な話を聞いていた。フルスモークの車窓から、歌舞伎町を行きかう人々を見ていた。ブランド品に身をまとった二十代の若者、これから春を買おうとする中年の男性、様々な格好をした人々が群衆に彩をもたせていた。
どうして、急に進化論の話などをしてきたのかと疑問に思っていると、柴山は再び口を開いた。
 「ところでよ、園森。二トンのコカインを24時間以内に運んでくれや」
嫌な予感がし、心拍数がほんのすこしだけ上がった。
 「勘弁してください。急に言われても俺にはできませんよ」
「おまえ、タクンタしんぺいってやつを知ってるか?」
心の中で予想していた単語と全く同じものが柴山の口から出てきた。
 「はい。組の流通を受け持つとかふかしてるやつのことですよね?」
 「もし、あいつが本当に二トンのコカインを24時間以内に運べるとしたらお前はどうする?」
 「お言葉ですが組長、そんなことを考える必要はありません。奴のことなら脅しをかけたんで大丈夫です。仮に、輸送が成功したとしてもそのときは、やつを殺さずに利権だけを奪います。タクンタの家は既に知っているので、手を打つことはできます」
 「それならいい」
彼はそう言うと、再び車窓から見える風景に目をやった。
「あと、大事な話を忘れてた。変化を生き延びるためには、まず環境が変化したことに気づくことも大切だからな」
 「わかりました」
園森は安心した。柴山がタクンタという若者の話を鵜呑みにしたのではないかと一瞬、疑った。もし、そうでなくても彼はビジネスのためなら組員の命を簡単に奪ってしまう人間なので気を抜くことはできなかった。
車は新宿から世田谷に向けて走った。園森は自宅まで送ってもらった。車から降り、柴山に礼をした。閑静な住宅街に鳴り響くヒグラシの鳴き声が不気味であった。彼は玄関の前に立っているセキュリティ係の男に軽く会釈して、今日もよろしくなというと、家に入り、スーツを脱いでパジャマに着替えた。
タクンタの案件を片付けないと俺の地位は奪われる。しかし、柴山さんは十藤会に金さえ納められればなんでもいいって人だ。タクンタの所属は拳下組で同じ十藤会。本心では始末したいが、それをやると俺自身も危ない。
園森はソファに座り、眉間に人差し指をあてながら長考した。そもそも、タクンタという若造に本当に二トン運べるかどうかも定かではなかった。
あいつが本当に二トンを運べたら、そのときこそ俺はメンツもポストも奪われる。
危機感に駆られた園森は、ポケットから電話を取り出し、子分の梶木に電話をした。
 「どうしましたか?」
 「梶木、明日の朝に吉森と俺の家に来い。タクンタのガラ抑えにいくぞ」

タクンタは携帯電話の着信音で朝の四時に叩き起こされた。画面をみると「老害野郎拳下」の文字が表示されている。ぼんやりとした意識で眩しいディスプレイを見つめながら電話に出た。
「タクンタァ!」
電話口から怒号が聴こえてきた。タクンタは急に起こされた不快感からイライラしていたが、平静を装った。
「どうかしましたか?」
「どうかしましたじゃねーよ、何勝手なことしてくれてんの」
「なんの話ですか?拳下さん、寝ぼけてませんか」
「ガキが口答えしてんじゃねーよ、お前のせいで俺の名前が汚れるだろうが。俺は、優秀な若い奴を組織に預けることで十藤のオヤジから気に入られてるんだよ」
拳下、メンツばっか気にしやがって。はやく死なねーかな
「拳下さん、その話は既に柴山さんと話をつけてあります。心配しなくても、親方の顔に泥を塗るようなことにはなりませんよ」
「あ?一丁前に能書き垂れてんじゃねーよ。あとでシメるからマフィア大学にこいや」
拳下は言いたいことを言い終えると、電話を切った。タクンタは電話を投げ捨て、夢の世界へ帰った。
翌朝、八時頃に目を覚まし、コーヒーとサンドイッチを食べて、スーツに着替えた。髪型を整え、拳銃や財布などを革製の鞄に入れると、車に乗った。日差しがちょうど雲に隠れて彼の家の周りに翳りが訪れた。窓を開けると、一瞬の風が夏の暑さを忘れさせた。早朝から日に照らされた車内は蒸し焼きにされたような、しつこい暑さが飽和していた。タクンタが発車しようとしたとき、前方にみたことのない男二人が拳銃を向けながら、ゆっくりと出てきた。左の腕から椿の入れ墨をのぞかせた男がこちら側に向かって何かを言っている。タクンタは両手を上げながら、車から出た。
「おまえがタクンタだな」
「誰だよてめーら」
相手をにらみながら、そういうと急に頭に鉄で殴られたような鈍痛を感じた。
「タメ口?」
梶木は刺青が入っていた方で手に持っていた拳銃でタクンタの頭を殴った。彼の横にいたのは同じ園森の子分である、吉森であった。吉森は背丈が180センチ、体重が90キロほどありそうな巨漢であり、彼の眼は漆黒に染まっており、人を殺したことがあるような目つきをしていた。タクンタは車を運転させられ、郊外にある産業廃棄処理場まで行かされた。当然、断る選択肢は与えられなかった。処理場に到着すると既に園森が待っており、車から降ろされるや否や手足を縛られ、詰問された。これ以上仕事を進めると殺すぞと言われたり、本当に二トンのコカインを運ぶのかなどを聞かれたりした。タクンタはずっとシラをきっており、園森は次第に鉄棒で胴体を殴ったり、みぞおちに膝蹴りを入れたりした。体のあちこちがずきずきと痛み、頭から血が流れはじめたとき、タクンタはようやく口を開いた。
「園森さん、これに何の意味があるんすか?」
「てめぇ、俺がお前を殺せないって知ってるから調子に乗ってるだろ?」
タクンタは彼の質問を無視して、持論を展開した。
「園森さん、俺は本当に二トン運べます。トンネルを使って運ぶんですが、すべての利権はあなたに与えます。ただ、副責任者に俺をおいてくれませんか?そうすれば、俺は流通ルートを開拓したってことで柴山組に貢献したことになりますし、園森さんも二トンのコカインを運べるようになって上納金も今までより多く積めます。柴山さんは金さえ納めれば何も言わない人でしょう?ただ、全部の売り上げのうちの3割である1000万は俺にください。これは名目上の副責任者を証明するためのものです。おれたちヤクザものはメンツも大事でしょう?」
「ふん、ガキのくせに頭使えるじゃねーか」
園森は鉄棒を地面に投げ捨てた。コンクリートに鉄がぶつかる音がした。彼はスーツのポケットからラルフ・ローレンのハンカチを取り出して、血に染まった手をきれいに拭いた。
「柴山組長には俺から報告しておくから、お前は帰れ。今回ことは、若気の至りってことで大目にみといてやるよ」
園森はそう言うと、梶木に縄を解かせてタクンタを開放した。タクンタは右腕をおさえ、片足を引きずりながら車に戻った。ドアを閉めようとすると、
「タクンタ、てめぇ何が狙いなんだ?」と、聞かれた。
「十藤会をもっといい方向に導くことですね」
タクンタはそう言って、車のドアを閉め、運転席に腰を下ろすと処理場から遠ざかっていった。車を運転する途中でヒロキやノリヒロから安否を心配する電話がかかり、俺は大丈夫だということを伝えた。その電話で彼は、逆にヒロキたちに何事も起こってなかったのだと知り安心した。暑さで傷口が化膿しないように、公園のトイレで傷口を洗い流した。びしょ濡れになった髪の毛と服のまま、ドラッグストアで消毒液や包帯を買い、簡易的な治療を済ませた。運転をしているうちに、十藤会に対する不満が込み上げてきた。
若いとか経験がないとかの理由で、まともに考えすら聞いてもらえず、シメられる。仮に本当に何かをひっくり返すようなものを持っていても、若者はそれを証明するために命をはらなければいけないし、仮に成功したとしても利益のほとんどは上に持っていかれる。権力の座に胡坐をかき、ふんぞり返っているだけの拳下や柴山たちのことが憎かった。そもそも、彼らは既に莫大な富と名声を得ており、これ以上金を求めても仕方がないはずだった。それにも関わらず、いつまでも欲望をむき出しにし、組織が本当に存続していくためのことなど微塵も考えない。そんな老害極まりない上司たちのことをいつか絶対に殺してやると彼は心に誓った。
 この先、どんな犠牲を払ってでも俺たちは裏社会の帝王になってやる。
彼は覚悟を決めた。交差点の信号が青に変わったのを確認すると、ハンドルを切ってマフィア大学の駐車場に車を入れた。
 エレベーターに乗り、拳下の部屋がある地下二階に降りた。アサルトライフルを持った、セキュリティの二人に守られた厳重な警備を通過してドアを開けた。
 「拳下さん、お待たせしました」
 「おう、タクンタ。なんだその頭は」
 「柴山さんのとこの園森にシメられました。結局、トンネルの利権は彼に渡して、俺は手を引くことにしました」
 「はじめから、そうしろよな。オマエみたいなまだ社会の『し』の字も知らない青二才が、一丁前なことをやらない方がいい。俺の言った通り、痛い目にあっただろう?」
 「拳下さんの言う通りでした」
 「分かったならもういい、帰れ」
てっきり、問答無用で殴られるかと思っていたからタクンタは驚いた。今日は機嫌でもいいのだろうかと思った。今回はすみませんでした、と一礼をした拍子に周りを見渡すと、拳下の机上にストローと白い粉が微かに散らばっているのが見えた。それがコカインなのか覚せい剤なのかはどうでもよかった。サークルの活動については、大麻栽培をしてそれを安値で柴山組に売りさばくことにして、拳下の了承を得た。
タクンタは部屋を出た。地下2階の廊下は暗かった。窓がなく、日差しが差し込まない。蛍光灯のみによって照らされた空間は明るいのだけど、その明るさはどこか不自然だった。タクンタは一階に行くためのエレベーターを待った。しかし、どれだけ待っても一階と五階の間を行ったり来たりするばかりで、降りてこなかったので、彼は自分の足で一段ずつ、階段を上った。

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