多様性の芽をつむ人達

平田さんの、演劇、脚本あった。それを、とある大学の学生は翻案し、上映をしていた小規模に。
めのくりくりした人多かった。
偏差値と関係なく、演劇部の良しあしはあるのは、また項目の面白さを、提起している。
フォーマルな挙措において、座学のエリートは何故敗北していくのか。
いや逆に不利というよりは、まっさらな、無関係という事と想う。
学力は無関係に在る。
非認知領域にあるコミュニケーション能力なのかな。器用さとはまた違う。全く、違った。
つまり相手を見つめられているか。
そういう筋立ての、気の散った薄いリアルと照らした寸劇を、みせられた。
反語としての不条理な相手を見えていないという指摘なんかも知れない。
実行は日本人主体にやっていた。
頭脳は留学生からも借りた様。
その貢献も、大きかった。
駄弁っている。舞台を変える。また駄弁っている。あたかもワルは居ない様。
そういうとき、一番危ない。
世界中善良な日なんて無い。今の所。
揶揄意味してない。
皮肉とか無い。
いまは現実、そうという、丈。
極左は一時代をつくった。
そのとき、独裁と異なった問題は現存し発生した。
右翼にノーして左翼、その単純さ、おかしさ、狂気としての。

仲間も守れないとなると、話は違う。

日本の価値観に許可した物を、根幹の共有土台を、アタマ爆発させつつ、新規に談合、議論せしむる度に前提は忘れられ許した権利を紛糾。
その議論は、意味、無い!
寛容も何もラクに許したらいいのを、初対面の相手の個性も許せませんし状態。
裁判員裁判なのか今は。命に価値を付け出す。
カフカの薄暗い近代社会か。
私刑を厳重注意。
あなたは裁かない。わたしも裁かない。それを、しない。

相互援助そのものは、大切と、思います。有償のことをする余裕を持って、無償の活動を敢えてする系のスタイルを、とってます。 プライスレスに、人生を再始動したい人には情報を提供出来るかなとおもいます。OK??? 企画倒れは充分警戒したいし、格闘技なら階級低め、組織ならNPOは、穴場。