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くらい学校の周辺事情

部長と中間管理職と副社長の指示の順番を迷ってるとする。その迷い自体えらさの品定めみたいな所はあり、さとり世代と言ったってそれはさとりによらない。組織の問題もある 対等。その際も個人から完全に目をそらすわけにいかない。自分は社会学とか数学とか理解に限定したら早かったから、合理的配慮の話とかは実際的な相談を、十代の前半から出来た。かなり早くても、もっと早かったらという想いはある。
罰という提案はしなかった。
名指しも実は避けた。
それゆえ事実関係として、ちくりは、しなかった事になる。
我慢した気もちは自分に解るから、ちくったとか、ちくらないとかそれは、自分自身に一番わかる。卑怯な手は、つかってない。
学校の雰囲気わるくなった時はそう対応した。
単に言うという提案なら言ったかも知れない。
罰そうという勢いもないとは言えなかったから、言わなかった。単純な短所とは思わないものの、善悪を単純に捉える人とは思った。その人に対しては多少按排として、理系なところは、既にあったのかも知れない。教育的には善悪を優先したいところ、解決を優先して欲しかった。素直に選択肢を提示されたら、転校にはふみきっていたかもしれない。
経営者の悩み、みたいな事は当時以降わかるように成り、縦割り行政等のもうちょっと小規模な解決は、社会は、対策のしかたを、答えている可能性に思い当たった。
それゆえ整理はとにかく、する事にし、小さい頃から知っていた海外の常識を、解禁した。
解禁というのは、底意はなく田舎へ来た私は、都会から来た上に海外経験もあると、嫉妬の因子はする事をわかっていた。
そう強調はしないようにしていた。
例のように、学校も指示系統の迷いとか、配慮を示す順番とか、一方にはハッキリ更にさせるなら、弱者の配慮をするかの悩みを失敗する場合は整理出来ていない事になる。
そういう課題等の解決のため、当時から経営学の本を読みはした。

対等に障害あるなら流石に、加害者から配慮は示せない。
配慮というか理解は、加害者にも、してイイ。
理解をして損するひとは、居ないから。
合理的配慮くらいはつまり、説得的に採用を押しても、悪には無論成らないし、反抗期はともかく、、根源的な疑問を前後も含めた思春期にいよいよ正面からとりくむ、その際は そういう主張はしてみないと、ルールの変更可能な所を分からないし、変更不可能な所を妙な学生運動に表現するし、という、という訳のわからない事に成る。本心から変えたい時に痩せ我慢する必要はない。酷いひとは居る。現実のその人に対応している限り、いろんな、ことは、おきる。最初からとは言わない。比較的速くにわたしは、それには対応出来た。
ほかに困ってる子とか居なくて自分、自身ひとりを考えるなら(そういう人も居るかもしれない)転校は全然止めない。残って実際にえる物はあるにしても、それはしていい。わたしの場合は、問題の構造に亘り、理解を深めて、解決しない種類の悪人についても理解えれた事は財産になった。

自分は環境を理由にしなかったものの転校自体には反対しない。見届けるメリットと収穫はあるとはもちろんいえる。
ストレスの軽減か、根幹か、わたしは「根幹」にした。
もう片方もわるくはない、いい選択肢。

相互援助そのものは、大切と、思います。有償のことをする余裕を持って、無償の活動を敢えてする系のスタイルを、とってます。 プライスレスに、人生を再始動したい人には情報を提供出来るかなとおもいます。OK??? 企画倒れは充分警戒したいし、格闘技なら階級低め、組織ならNPOは、穴場。