抽象度

抽象をよいとしよう。
具体な程、下になる。

今回はそれを考える。
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試みとして、こういう風に、具体へと降下していく。
演繹というのは抽象度を最大にしてから、個別へとエッセンスをあてはめていく事になる。
その抽象度を最大にしていく所を帰納と言う。
この(おおまかな)大別から、判明させていく。大体なんなのか、から絞って、固有の1個に到達させる。
その1こに成ったとき、演繹出来たと言う。
具体的にしてあり、順番に考えた分類も分かる。
抽出した共通点の総括を、林檎も鉛筆も1なら、1つ。といった風に、概括する、具体性を減らして図にする、それを帰納という。
これをいい加減にやると、一党独裁は合理的に効率イイとか言って防衛機制としてケアレスミスした事に成るよ。
細かく見たら、違っても、設計図は同様の建築は同様な構造をしている。
具体性から見ても、計画から作った点から同様とは断定出来る。
同様な中に個性はある。
製品としては、同様の品質をもっている。
これを概括しておくのを帰納法と言い、二度手間の煩瑣な個別の愚痴を省ける。
演繹はここから、設計図は同様なら、ミニ四駆は同様の品質の大量生産、成功したのかなと類推したり、典型的なソースに入ってる成分を、他のソースの主成分に予測してみるといった具体性への理屈に合う類推をいう。
敷衍というのは、もっと全般的な例の列挙や、類推のシソーラスを曖昧に広めに指す。
経験というのは、具体化を経ないものは無く、予期を完全に出来たらコントロール出来るなか、後手に訪れる事は多いと(比較的)言える。
衝突してから、かてをえる、それも経験とは言う。
そういった闇鍋染みた普遍化に適さない孤絶した1つ1つを経験という言葉は指す事、多め。
アインシュタインならここを、説明出来る様にするんは責任自分に引き受けた。
伝わらない様な差と決して言わなかった。
上下に関係性壊すのをしなかった。
経験から世代間の格差をより多くつくっては、経験はうらめにしか出ていない。平易な言葉に出来たか。もやもやとした問いにそれとなく解にふさわしい合点は行ったか。素朴に伝わったか。それとも愚図るのか??

相互援助そのものは、大切と、思います。有償のことをする余裕を持って、無償の活動を敢えてする系のスタイルを、とってます。 プライスレスに、人生を再始動したい人には情報を提供出来るかなとおもいます。OK??? 企画倒れは充分警戒したいし、格闘技なら階級低め、組織ならNPOは、穴場。