見出し画像

マスイメージ傍論

自慰というのだって自責という深刻な意味を帯びている事がある。であるから文壇にそういう事をするべきではないのはマナーだ。偽悪というのは善が分かっていて、意味がある。自傷と同義なら複雑な取り扱い方があって、そう簡単な問題ではないのだ。
写真を性器をうつして送るとか、それは実際にする人の立場をさらっと聞いてみて至極、くだらなかった。
衝動に関する疾患なら相手は心配するだろう。
昇華というのはもっと深い段階を言う。
そういう事は挫折する条件が揃っていても機会はある話題の質で、ただ投げ出したというのと同義だ。
手前過ぎる卑近な状況で性的に満たされていたら必要性が減退し、深い気づきは起こらない。
フロイトも論に登場させよう。
村社会で愛されてると確信していたら、客体の事情もしくは大文字の他者との出会いは起こりえないであろう。
壁に対してミッションを持たないということだ。
狭い範囲を破ろうという気概も生ずる事無い。
それは俗悪なバブルと同格の土俵にも立たない、前の余裕だ。
それゆえに不味いのである。
人にとっての客観性は、不断と言えるほどにイメージに左右されている。
草彅剛のイメージが上昇すれば私たちの誰かにも恩恵があるかも知れないし、ハケンの品格が流行したことによってたちまわりをし易い人もまた居るであろう。
そんな感じの話題に、成って来る。

相互援助そのものは、大切と、思います。有償のことをする余裕を持って、無償の活動を敢えてする系のスタイルを、とってます。 プライスレスに、人生を再始動したい人には情報を提供出来るかなとおもいます。OK??? 企画倒れは充分警戒したいし、格闘技なら階級低め、組織ならNPOは、穴場。