なぜ人は生きるのか
「なぜ人は生きるのか」という問いについて少し考えたので書きます。
問いの分析
なぜ生きるのかという問いには生きる理由、意義、目的は何かという三つの問いが内包されていると考えられます。
観点
生物学、心理学、宗教的思想、社会における役割、人間関係、幸福などの考察観点、アプローチが考えられます。
方針
意義と目的は面倒なのでひとまず生きる理由について考えます。
生きる理由の生物学的(?)アプローチ
なぜ人は生きるのかという問いはなぜ人は死なないのかという問いに換言できます。おそらく特別な理由などありません。人は理由なく死ぬような生態を持っていないというだけのことです。もし人が理由なく死ぬような生態を持っているなら人という種は今残っていないでしょう。
死なないことに特別な理由はない、なら生きることにも特別な理由はありません。しいて言うなら、特に理由がないなら生きるという生態を上回るほどの死にたいという欲求がないから人は生きるのです。(そしてその生態を上回るほどの希死の念を抱いたときに人は自ら死にうるのです)
論理構造的には
人は理由なく死ぬような生態を持っていない
(論証:そのような生態を持っていると仮定すると人という種は存在していないことになる(∵自然淘汰)。これは人が存在しているという事実に反する。よってそのような生態は持っていない(背理法))
よって人は理由がなければ死なない
よって人は理由がなければ生きる
となっています。
意義と目的、生きる理由のほかのアプローチについてはまだ考えていません。
また気が向いたら考えようかと思います。
個人的には上記の思考から「じゃあせいぜい気楽に生きよう」という心理状態がもたらされました。生きているうちに何かを成し遂げなければならないという強迫観念の中和剤として役に立ったので満足です。
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