ブエノスアイレス11日目 2006/2/20(月)
ブエノスアイレス滞在11日目に書いていた日記である。10泊した安宿をチェックアウト。夕方にレティーロのバスターミナルから次の目的地、パラグアイ・アスンシオン行きの長距離バスに乗車してブエノスアイレスを後にした。
8時半に起床。眠すぎる。出発準備していたらソンが来た。もうお別れだねと言われて握手すると、握手が優しすぎると突っ込まれた。9時50分、部屋を出た。アメリカ人のおじさんがいたので少し話す。ボカの話や旅の話、この後はブラジルに行き、4月にアメリカに戻るらしい。そしてソンと最後のお別れ。ニュージーランドの日本語アクセントの発音、忘れないからと言われる。そしてさよなら、切ないな。色んな思い出の詰まったビクトリアホテル、もはや家だったな。本当に楽しかった。
10時にチェックアウト。この歩き慣れた街も今日でお別れかと思うと辛い。更に寝不足で少し具合が悪い。12時40分、5月広場から今はサブウェイにいる。さっき路上でオレンジジュースを買ったらおじさんがサービスしてコップ一杯に入れてくれた。ムーチャグラシアとお礼を言う。お礼だけでなく簡単な言葉なら意識せず自然に出てくるようになった。おじさんだけでなくブエノスアイレスの街にも感謝の気持ちを伝えたくなる。
その後は買い物、まずはラバーシェのTシャツ屋でヒデさんの持っているシンプソンズのディエゴ・マラドーナ神の手ゴールTシャツを買う。ついでにティアドロップのサングラスも購入。バンドのライブで使えそうだ。次はMUSIMUNDOでラテンアメリカの看板や標識の写真集を買った。55ペソ(2000円弱)もしたけど気にしない。ここで勢いで高価な買い物をしたことで、この後苦労することになる。次はディエゴのDVDを39ペソで買った。サンダルは6.9ペソのものを買うつもりだったけれども残りのアルゼンチンペソがなくて断念。ブラジルで買えば良いかと考え直した。
そしてペルー通りのネット屋へ。一昨日ヒデさんに教えてもらってようやく来られた。久々に日本語が書けるネットカフェだ。1時間半も過ごしてしまい、時間がない中でサンテルモのスーパーekiに行ってマテ茶を購入。2.1ペソ(0.7USドル)。そして公園の露店でマテ容器が売られているのを見つけたので購入。これがオススメという品を買った。ストローと合わせて20ペソと言われたものの、15ペソでよろしくと言ってどうにか交渉成立。しかし12ペソしか持っていないので1USドル紙幣を足して支払った。このマテ容器を作ったという若者によると、果物を切って作るらしい。どこから来た?と言われたのでハポンと言うと、ニッポンかと言ってきた。ニッポンというワード知っているんだな。チャオアミーゴと言われて別れる。
急いで宿へ戻る。この時17時、トイレに行こうと階段を上っていると、自分の名前を呼ぶ声がする。ソンだ。色々買っちゃったよと話しつつ、上に登る。これで本当にお別れだねと言って握手。そして林さんもいたので今日発ちますと挨拶。そしたら10分くらい話すことに。林さんは荷物をこっちの友達の家に置いて日本に帰るらしい。そして日本でタンゴの教室を始めると。こちらでは月4万円くらいで生活できると言っていた。ただしこっちの人は冷たかった、友達もあまりできなかったと言っていた。そして1日4時間のスペイン語学校に2週間通うだけで言葉の習得が全然違うらしい。そんな感じで17時15分になったので急いで宿を出発。フロントの初めて見る男がブエン・ビアへ(良い旅を!)と声を掛けてくれた。本当に楽しい思い出の詰まった良い宿だったな。
そして感傷に浸る間もなく、モレノ駅から地下鉄に乗ってレティーロへ。バスターミナルに到着。そういえば昨日の試合が載っているole!を買っていなかったなと思って買おうとしたけど、残りのアルゼンチンペソが0.3ペソくらいしか無いので、USドルで1ドル出して1.5ペソお釣りをもらった。普通の店でドルが通用するのはありがたい。18時35分、アスンシオン行きのバスが到着。2階建てだ。
18時55分、出発。遂にブエノスアイレスを離れる。しかしバスに乗って安心したからか具合が悪くなり、思い出を振り返るどころではなかった。リーベルのスタジアムを左手に眺めた後は寝て、起きたら日が暮れていた。21時からは車内のテレビで映画の上映がスタート。日本語が聞こえて何事かと思ったらタイトルはSAYURIだった。ここで見られるとは思っていなかったので驚いた。画面は荷物棚に半分隠れていたけどどうにか見た。なんとかストーリーはつかめた。ケン・ワタナベや役所広司が出て来た時は笑ってしまった。なぜアルゼンチンのバスで英語を話している日本人を見ているのかと思うと面白かった。桃井かおりの話す英語はよく分からなかった。あとは米兵が日本語でコンニチハと言ってチャン・ツィイーが英語で返答するのは謎だった。23時過ぎに映画終了。途中食事が出た。チーズご飯にパサパサのチキン、パン、コーラ。メンドーサ-ブエノスアイレス間のバスの食事の方が良かった。23時過ぎ消灯。座席は結構倒れるので無事に寝ることが出来た。
チェックアウト後は、荷物を宿に預けてセントロ(街の中心部)で買い物。写真でもある通り、キオスコ(街中にあるキオスクのような売店)にて、ボカに所属していた高原をテーマにしたマグネットが売られていた。「Aquí se utiliza el sistema de COBRO JAPONES:¡¡TIKI-TAKA!!」、「ここでは日本の支払システムを使っています:ティキ・タカ(高原の愛称タカとティキ・タカを掛けている)」のような意味だろうか。
この当時で2006年、高原がボカでプレーしていたのは2001年。コンサドーレ札幌で置き換えて考えてみると、タイ人のチャナティップが移籍して5年経っても、札幌の地下鉄のキオスクで彼のグッズが売られているようなものだろうか。高原のボカ在籍期間はたった半年間と思うと、ブエノスアイレスにおけるボカの人気ぶり、そしてクラブ初のアジア人選手、しかもボンボネーラで得点を決めるという、高原が与えたインパクトの大きさを感じることが出来る。その後2010年、2018年にアルゼンチンを訪れた際にも、現地の人と話すと高原が話題に上った。彼らにとっては日本=タカハラと言っても過言ではないのかもしれない。
他にボカのエンブレムを載せたタクシーの写真もある。セントロのキオスコではどこでもボカ、リーベル、サンロレンソ等のエンブレムのキーホルダーやマラドーナのポスターなど、サッカーグッズが売られている。ブエノスアイレスの街では常にサッカーが身近な存在として感じられた。
この当時、自分が訪れた街の中ではイスタンブールやローマで地元の人と話すと自然とサッカーの話になったことを覚えているが、それ以上にブエノスアイレスでは街を歩けば必ずサッカーに関する何かが目に飛び込んでくる。試合が無い日でもサッカーシャツを着て歩く人を見かけるのも新鮮だった。これ以降、モロッコのフェズやクアラルンプール、メキシコシティ等の街でもサッカーシャツを私服にする人を見かけるのだが、ブエノスアイレス初訪問当時の自分にとってそれは新鮮な光景だった。
アルゼンチンはロックバンドの人気が高い印象がある。訪問した時期はローリング・ストーンズやフランツ・フェルディナンドがブエノスアイレスでライブを行うらしく、CDショップや街中の広告で宣伝をよく見かけた。自分でも知っているようなイギリスのロックバンドが、遥々アルゼンチンでライブすると知って興味深く感じたことを覚えている。
そして買い物以外にインターネットカフェで過ごしていることも、今から振り返ると興味深い。今ならスマホを持参して現地でSIMカードを購入することが当たり前だが、2006年当時は長期の旅であればガイドブック以外に必要な情報(良い安宿やバスの情報、ガイドブックにない地図、サッカー観戦方法など)は日本で大量にプリントアウトして紙で持って行っていた。紙はかさばるので不要になったら随時捨てて身軽にしていた。そして定期的にインターネットカフェに赴き、日本とのメール等のやり取りであったり、旅に関する最新の情報収集を行っていた。更にはデジカメの写真をCD-Rに焼いてもらうという目的もあった。当時のメモリーカードは容量が小さかったので、1か月間の旅では何度かCD-Rに焼いてもらってメモリーを空にする必要があった。
インターネットカフェの店員はどことなくアンダーグラウンドな感じを漂わせる若者が多く、それはアルゼンチンであろうとシリアであろうと、世界中どこでも雰囲気が同じなのが面白かった。世界中からやってくる旅行者を相手にする彼らは、住む国を問わずどこか共通する何かがあるのだろうか。1990年代後半~2010年代前半にかけて世界中に存在していたバックパッカー向けのインターネットカフェが、なぜか世界中どこでも同じ雰囲気を漂わせていたことを記憶に留めておきたい。
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