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火あぶりにされたサンタクロース

キリストの降誕祭なのに全然関係ないアドベントカレンダーなんてやってて、キリストに申し訳ないと思わないんですか!?!?!?


 こんにちは。統合ではお世話になっております。トラックと申します。noteで記事を書くのは初めてなので、少し手間取りそうです(そして、そもそも文を書くのが下手)。

 今回はひとつの論文を紹介します。その論文はレヴィ=ストロース(1952)の「火あぶりにされたサンタクロース」。クリスマスにピッタリの論文ですね。ワクワクしてきた。

 レヴィ=ストロースといえば、構造主義の総本山として名高く、『悲しき熱帯』や『野生の思考』といった著書でも有名です。有名な研究として、「インセスト・タブー」(意味はご自身でお調べください)の事例研究を通して、「結婚は女性を「贈与」する」ものだという成果を残しています。交叉イトコの事例研究に関しては数理的な手法を用いた分析があり、人文科学という外見の割に、その実、理論武装したハリネズミのようなものになっています。しかしながら、近年ではレヴィ=ストロースの「社会構造に焦点を当てよう」という手法は、特に人類学なんかでは批判対象になっているようです(今回は詳しく踏み込みませんが)。

 先程、「贈与」という言葉が出てきました。人類学においては「贈与」は重要な概念です。我々が普段行う一般的な「贈り物」にさえ、人文科学では特別な意味を見出します。

 社会学者ピエール・ブルデューは「商品」と「贈り物」の差異は「時間的距離」だと述べました。例えば、誕生日の友人に何かプレゼントを渡したときに、その友人からすぐに代金を払われたら違和感がありますよね? 人によってはバトルに発展する可能性さえあります。「お返し」をするにしても、時間をおいたり、あるいは代金ではないもので渡すはずです。つまり、我々は「時間的距離」あるいは「外面的装い」によって「贈り物」を「贈り物」だと認識している、ブルデューはそう分析します。バレンタインデーのお返しをするホワイトデーというイベントが巷では行われているようです(筆者は伝聞でしか存じません)。ホワイトデーがバレンタインデーより幾分か時間をおいた日に来るのは、「贈り物」だということを示す「記号」になるからだと分析できそうです。仮に「贈り物」が既存の「商品」だとしても、「贈り物」として機能するのも、こういったメカニズムがあるからだと考えられるわけですね。

 人類学の文脈において、「贈与」が注目されるようになったきっかけは、M・モースによる『贈与論』です。モースはメラネシアやポリネシアをフィールドワークし、そこでの「贈与」に分析を加えました。モースによると、メラネシアやポリネシアの人々は、熱帯域の珊瑚礁、そして荒波という困難の中、島々を渡り他の部族に「贈り物」を送り合っていたようです(しかも「贈り物」自体には実用性がないことが多いらしい)。なぜ彼らは死の危険を犯してまで、「贈り物」を交換しているのか。モースによると、彼らは「贈り物」には霊が宿ると考えているようです。そして、その霊は「贈り物」を贈った元の持ち主の所へ戻ろうとする。なので、「贈り物」を贈られた部族は、その霊を返礼品という別の形の「贈与」として返す必要がある。ここに「返礼の義務」が生じます。だから、彼らは死の危険を犯してまで「贈り物」を贈り合っている。

 「贈り物」に霊が宿るという「彼ら」の発想は、近代科学に根ざした我々にとっては荒唐無稽に思えるかもしれません。しかしながら、「彼ら」の発想は我々の生活にも共通したものがあります。我々はなにか物を貰うとき、あるいは何かしてもらったとき、何かを返さないと「気持ち悪い」あるいは「気がすまない」と思うことがあります。つまり、一方的にもらいっぱなしだと、逆に不快になることがある。それ故、見返りを求めない善意に対して、多かれ少なかれ我々は警戒心を抱くわけです。この「気持ち悪さ」は、(心理学的には説明できるかもしれませんが)理性的に引き出されるわけではなく、感情的なものとして現れています。ポリネシアやメラネシアの人々にとって、この「気持ち悪さ」が「贈り物に宿る霊」という表象そのものだとすると、まったく不合理な未開部族の荒唐無稽な神話だとは言えなくなります。どうやら「彼ら」と我々との間には、共有の「何か」がありそうです。

 「彼ら」は命がけの「贈与」により、他の部族と交流します。そして、「贈与」に込めた霊が返礼されることによって、メラネシアやポリネシアの人々はお互いに社会的関係を築くわけです。先程、我々にも共有したものがある、と述べましたが、実際我々も「贈与」により他者との関係に入っていくことを日常的に行っています。バレンタイン、誕生日、卒業祝いなどなど……。そして、それは「彼ら」と類似したメカニズムで、つまり「時間的近接性」や「返礼の義務」といったものを伴う「贈り物」によって、特別な関係性が出来上がるわけです。

 さて、ここで「贈与」が関係しながら、以上のような伝統的人文科学での「贈与論」では説明がしきれないように思われる事例があります。それは「サンタクロース」です。ここまでの議論を前提とすることで、なぜサンタクロースが火あぶりにされたか、レヴィ=ストロースの議論が理解できます。長い前置きを読んで頂きありがとうございます。以下からもっと長い本文が始まります。

火あぶりにされたサンタクロース

 レヴィ=ストロースの「火あぶりにされたサンタクロース」は以下の衝撃的な新聞記事の引用から始まります。

サンタクロース火刑に処せらる
       教区若者組の子供たちの見守るなか
       ディジョン大聖堂前の広場において
      ディジョン、十二月二十四日(フランス・ソワール現地支局)

 サンタクロースが、昨日午後、ディジョン大聖堂の鉄格子に吊るされたあと、大聖堂前の広場において人々の見守るなか火刑に処せられた。この派手な処刑は、教区若者組に所属する多数の子供たちの面前でおこなわれたのである。
……
 刑の執行がすむと、ひとつのコミュニケが読み上げられた。
 概要は次のとおり。『虚偽と闘うことを望む、教区内のすべてのクリスチャン家庭を代表して、二五〇名の子供たちがディジョン大聖堂の正門前に集まり、サンタクロースを火あぶりにした』
 ここでおこなわれたことは、単なる見世物ではない。これは立派な象徴的示威行為なのである。サンタクロースは、ホロコーストの犠牲者となったのだ。たしかに、虚偽が子供の心に宗教的な感情を目覚めさせることなどありえない。ましてや、いかなる意味においてもそれを教育に用いてはならない。しかし多くの人々が書き、また語っているように、人々がサンタクロースに望んでいるのは、この人物が悪い子供にお仕置きをするためにあらわれたという、あのただ怖いだけの『鞭打ちじいさん』の向こうを張って子供のための優しく気前のいい教育者としてふるまってほしい、ということなのである。

(『火あぶりにされたサンタクロース』13-15頁より筆者一部改変)

 引用箇所中にある『鞭打ちじいさん』というのは、世界中を渡り歩き、母親の言うことを聞かない子供のお尻を叩くという聖職者の伝承のことです。

 このサンタクロース火刑事件に対しては、大きく2つの反応があったようです。1つは教会に対する非難。もう1つは、同業者からの否定的ではない反応。ここで強調されるのは、「サンタクロース」という迷信を擁護しているのが合理主義者で、むしろ迷信を退けようとしているのがキリスト教を信奉する教会側だ、ということです。

 レヴィ=ストロースによると、戦前のフランスでは現在のような形でクリスマスは行われていなかったようです。つまり、そもそも「伝統的クリスマス」というものが、(ボブズボウムが言うところの)「創られた伝統」である可能性が高いと指摘しています。例えば、レヴィ=ストロースの分析では、「クリスマスツリー」というものは、18世紀になってイギリスに伝わり、フランスに伝わってきたのは、19世紀になってやっとのことだそうです。さらに、レヴィ=ストロースによると、戦前は現在の形での「クリスマス」は、そもそも大衆には忌避される傾向にさえあったとされています。

 では、なぜ「クリスマス」が戦後のフランス人口に膾炙したのか。その理由として、資本主義経済の影響が挙げられています(同時にそれだけでは説明しきれないとも言っていますが)。どういうことか。戦後、アメリカの資本がフランスに流入し、その中には「クリスマス」を象徴するようなものがいくつか紛れていました。例えば、「クリスマスプレゼント」といったものです。「クリスマスプレゼント」という概念がフランスに流入した結果、包装屋は「売れそう」という経済的理由から、「クリスマスプレゼント」の包装を始めます。これは「クリスマスプレゼント」に限りません。「クリスマス」の装いをしたものが、経済的理由から売られ、市場に出される。そうすると市場には、外見上の「クリスマス」が生まれるわけです。「クリスマス」は、あくまで「触媒」として機能する。これは人類学者クローバーの「刺激伝播」というフレームワークにより説明されます。このようにして、外見上の「クリスマス」を介して、人々の間にあくまで経済活動にのって広まり、次第に「クリスマス」の中身が時間差で同化されていくわけです。

 しかし、レヴィ=ストロースは「クリスマス」がまるっきり近代の産物ではあるとは言いません。現在の「クリスマス」の形式は、いくつかの伝承を組み合わせたものでもあるのだと指摘します。例えば「クリスマスツリー」がそうです。「クリスマスツリー」が成立する背景には、前歴史時代からの複数の伝承があるのだとレヴィ=ストロースは指摘します。一晩中火を絶やさないよう太い幹をもった木、という意味のブッシュ・ド・ノエル。ローマ時代サトゥルヌス祭の小枝による装飾。円卓の騎士物語に出てくる、光で覆われた神秘の樹木。これらの「大きな木」「枝の飾り」「明るい光」といったバラバラだった伝承の象徴が、「シンクレティズム的解決」として「クリスマスツリー」にまとめられたと説明されます。つまり、「クリスマス」の形態は元々あったいくつかの伝承が元となり、それらの近代的複合によって成立してきたのだと説明されます。

 しかしながら、いくつかの伝承を組み合わせながら、それでいてまるっきり「創作」である存在がいるとレヴィ=ストロースは言います。それが「サンタクロース」です。しかも、「サンタクロース」は実は分類がとても難しい存在です。神に類する存在でありながら、神話があるわけでもなく、伝説上の人物という装いでもない、その上、聖職者というわけでもありません。では、我々はなぜこのような存在に好意的にせよ、批判的にせよ感情が沸き立つのでしょうか。

「サンタクロース」の機能

 「サンタクロース」の特筆すべき特徴は「子供は神秘を信じているが、大人は存在しないことを知っている」という構図です。大人はこの構図を用いることによって、「サンタクロース」に実在性もたせることができます。レヴィ=ストロースは、この構図が「差異の原理」として作用していると分析します。「差異の原理」とは何か。それは、「サンタクロース」の存在が、イニシエーションや、通過儀礼などに類するものだということです。日本だと「成人式」などがわかりやすい例になりますが、我々は通過儀礼によって子供から「中間形態」を経て、割礼を受けた大人になります(詳しくはターナーの『儀礼の過程』をご覧下さい)。

 つまり、「サンタクロース」を信じさせることで大人と子供は分離されます。そして、いずれ時が来た時に「サンタクロース」の秘密が子供に教えられるという「通過儀礼」があり、これにより晴れて子供は一歩大人入りできるわけです。なぜ「サンタクロース」が必要なのか。それは「通過儀礼」としての「サンタクロース」があることで、子供たちを「子供」という枠の中で管理し、秩序をつくることができるからだとレヴィ=ストロースは言います。つまり、「サンタクロース」には大人と子供を分離することによって、「子供」という枠を生み出す社会的役割があるのだと言えます。

 ところで、そもそもなぜ「クリスマス」に我々は子供に「贈与」をするのでしょうか。冒頭で確認したように、「贈与」には「返礼の義務」が生じます。しかし、一見すると「クリスマス」における「贈与」にはそのようなものは見受けられません。しかも、「贈与」によって関係性に入っていくということも考えがたい。これはどういうことか。レヴィ=ストロースは、ここで「クリスマス」の歴史的背景に迫ることで、これを分析していきます。

「クリスマス」はなぜ生まれた?

 ローマ時代、サトゥルヌス祭というものが行われていました。数日間だけ、奴隷が自由にしても許されるという古代ローマの特別な行事です。この記録自体はセネカやホラティウスなどの著作に見られますが、このサトゥルヌス祭には大きく2つの特徴がありました。ひとつは「連帯の強化」。若者集団の中から、「狂気の司祭」なる存在があらわれ、若者は若者同士で強く結びつくようになります。ちなみに、ルネサンス期までこの若者集団は過激な狼藉を働いていたらしく、強盗、強姦から、はてには殺人まで犯していたとレヴィ=ストロースは指摘しています。若者組の「連帯の強化」により、社会集団は若者と大人とに分かれることになります。これが2つ目の特徴、「敵対の激化」です。サトゥルヌス祭においては、「連帯の強化」と「敵対の激化」という緊張関係の中で、若者は役割を担っていたわけです。

 中世においては、聖ニコラウスという聖人にあやかった寄進集めが行われるようになります。サトゥルヌス祭と同様に、子供と大人という二分法の中、子供は「死者」の世界から来た悪霊に扮し、大人からお金を寄進してもらうということをしていたようです。ここにも「連帯の強化」と「敵対の激化」というメカニズムは残っています。ちなみに、察しの良い方は気がついたかもしれませんが、この悪霊に扮して寄進集めをするという行事は、後にアングロ・サクソンの国々では寄進を巻き上げるイベントに変貌し、現代では「ハロウィン」として残っています(聖ニコラウスがサンタクロースの元ネタだという話もありますが、今回は触れません)。

 ここまでの話を整理すると、「クリスマス」以前は子供はただプレゼントを待つだけの存在ではなく、主体的な役割(「狂気の司祭」、悪霊の仮装)をもっており、そして社会は子供と大人に二分割されていた。また、聖ニコラウスの寄進集めにおいては、「敵対の激化」は子供が悪霊に扮すことによって「死者」と「生者」という表象を伴って現れています。ここに「贈与」による説明ができます。秋から冬にかけ、子供たちは「死者」として大人を脅かす。そして、大人は「死者」に「贈与」することによって「死者の世界」に帰ってもらう。これにより来秋までの安寧を得ることができるというわけです。暖かくなるころには「イースター」として「生者」の祝いがあることからも、対比的に冬に「死者」の行事があることが納得できるかと思います。

 このような歴史的背景を考えれば、「クリスマス」の時期に「贈与」をする必然性が見えてきます。「死者」の世界から悪霊の来る冬至の時期、子供たちは「死者」の表象を背負って、社会内で役割を果たす。これに対し、「死者」に(冒頭の例で出したような)霊のこもった「贈与」をすることで、「死者」に帰ってもらう。なぜ「死者」が帰るのか。それは「返礼の義務」があるからです。「生者」から「贈与」をされ、悪霊は「死者」の世界へ帰っていく。これが「クリスマス」を生み出した土台だったわけです。

現代で何がおきたのか

 レヴィ=ストロースは、「クリスマス」という時期には歴史的に子供が力を持ちすぎるのだということを指摘します。サトゥルヌス祭における「狂気の司祭」を始めとして、聖ニコラウスの寄進集めでも子供は主体的な役割を担っていました。「クリスマス」という形をとっても、大人たちは子供の要望通りにプレゼントを送る必要があり、子供の権力が強くなるという構造は変わっていません。そこで大人が開発したものが「サンタクロース」です。冒頭の引用箇所で「鞭打ちじいさん」の話が出てきました。「良い子にしていないとプレゼントがもらえない」。この話が実体性をもつことで、大人と子供のパワーバランスは拮抗します。

 では、なぜ「サンタクロース」は「狂気の司祭」や「鞭打ちじいさん」とは対照的に「優しい好々爺」として表象されるのでしょうか。レヴィ=ストロースによれば、それは我々が現代において「死」にある程度のイニシアティブをとれるようになったから、つまりある程度「死」の管理ができるようになったからだと言います。ミシェル・フーコーによると、近代国家権力は「生」を管理するように発達してきたと言います。このような西洋近代の権力の発達に伴い、人々の「死」への「贈与」は象徴だけのものと化します。「クリスマス」における「贈与」の文化は、「死者」という存在が捨象され、もはやシンボルだけの存在となったわけです。

 そして、「サンタクロース」を代表として、「クリスマス」は歴史的に異教のものを多く取り込むことで成立してきたとレヴィ=ストロースは指摘します。冒頭で「クリスマスツリー」の例を出しましたが、キリスト教はこのように異教を取り込む戦略をとることで、布教の大成功と、そして異教の侵入の両方を許しています。ディジョン大聖堂での火刑事件は、そんな異教の侵入への危惧として現れているのでしょう。なぜならば、以上のような経緯をもつ「サンタクロース」は、教会にしてみれば異教の存在だからです。

結び

 中沢新一の分析では、もう少し踏み込んだ分析がされています。「死者」が社会の内部に取り込まれ、そこでは「死」と「生」との「境界」が見えなくなるようになる。「境界」が見えなくなるようになるのは西洋近代の特徴でもあります。「社会」の外側にいたはずの「死者」(子供)が、社会の内部に落とし込まれ、そして近代を経て「贈り物」をただ貰う存在へと変貌してしまったということです。しかし、一方では「死者」が社会に内部化され、「サンタクロース」という存在により、大人は「贈り物」をしています。もしかすると、クリスマスにおける「贈与」で安心感を得ているのは大人の方なのかもしれません。

 そして、「死者」というものは最も身近な「他者」でしょう。「他者性」の体現が社会内部に落とし込まれる現代。「クリスマス」はどんな様子になっているでしょうか。

 今年ぐらいは「クリスマス」を意識して、「クリスマス」を過ごしても良いんじゃないでしょうか。メリークリスマス。

オチ

 ディジョン大聖堂は、「サンタクロース」を異教の存在として火刑に処しましたが、はたして処刑は成功したのでしょうか。「クリスマス」の歴史的背景としてサトゥルヌス祭というものがあると上で述べました。サトゥルヌス祭においては、祭の最後で「狂気の司祭」は生贄となり「死」を演じることになります。これにより来秋の復活が保証される。つまり、「死」によりサトゥルヌス祭は完成するわけです。このサトゥルヌス祭を取り込んだ「サンタクロース」はどうでしょうか。実は、サトゥルヌス祭のこの性質が、冒頭の事件において大きな意味をもつのです。

 そう、冒頭で引用した「サンタクロース」火刑事件は、皮肉にも教会側が「サンタクロース」に「死」を演じさせることにより、かえって異教の存在である「サンタクロース」の永遠性を示すことになってしまったわけです。かつて、キリストが磔刑にかけられ、復活したことでその永遠性が証明されたように。

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