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The Global Villageとイデアについてのメモランダム

このテキストは「ないよ(nai-yo)」(以下、n-y)に関するシマニテさんの構想を起点にしつつ自身のメモランダムを残す趣旨で書いた。

n-yが示唆する国家についてここではあくまでデリダ的あるいは禅問答的イデアのメタファーとして取り扱う。そのため、国家というフレーム自体とその定義がこれまでに繰り返した歴史については語らない。一方、仮にメタファーであっても国家的なるものを俯瞰する場合、統治や権力構造については触れざるを得ない場合があろう。その場合でもここでの記述は必要最低限に留める。その上で、n-yのフレームを私たちはどう見るかという視点に立脚した第一印象についての記述を試みる。


Potluck Federal State: 空想世界のポットラックパーティー

まずn-yというイデアを国家の枠組みからとらえた場合の私なりのイメージを具体的にいうならそれはFederal State(以下、FS)だ。国家や社会的システムに依らない例えがあるとするならポットラック(以下、PL)(FSとPLを総称して、FSPL)だ。FSは再定義と拡張が繰り返された言葉だが、例えば近年の「オープンソース」や「分散型」といった自律を軸にした概念との親和性を踏まえてまず思い浮かべるイメージはこれだ。PLはイメージされる定義のおおらかさからn-yとの親和性を感じる。すなわち、n-yはFSという形をもって成立する。PLのおおらかさをもって成立する。この場合、成立の要件はFS、PL両観点いずれも統治の留保とゲーテッドの心地よさかもしれない。この点は後述の三重構造における「経験(experience)」に関わるポイントだ。そしてもし私たちがFSPLの中にあるという見立てが可能なら、それはn-yのある部分を形成するState/Guestという佇まいになろう。FSならState、PLならGuestだ。

一方フレームを通して各State/Guestがどう見えるか。ゲーテッドの心地よさのウェイトが高い場合は(Gated=すなわち塀あるいは砦が高いということになる訳で)、フレームを通しても何も見えないということになる。守られてはいるが何も見えないし、見ることができない。もちろんそれであっても各State/Guestやその集合体としてのFSPLは成立はするだろう。しかし各State/Guestの自律性や多様性は下がる。ただしフレームを通しても通さなくても各State/Guest自体がそこにあるという点は何も変わらない。これまで通りだ。すなわちn-yにおけるFSPLとは実は自律や多様性と心地よさのバランスの中にかろうじて成立する世界になる可能性がある。かろうじて成立する世界におけるゲートとはすなわち波打ち際の砦のようでもある。好きなものや気になる物語を持ち寄り、いつの間にか集まり、いつのまにか離散するPLの気軽さと心地よさのようでもある。n-yの「在る(ない)」世界のアフターアワーズはすなわち無常観にも近いのかもしれない。


Centers everywhere margins nowhere: 全ては中心であり、周縁はない

さてここで起点に立ってn-yを構想視点から振り返りたい。ところが、n-yを代表するあるいはホストであるアライさんはこの点について何ら表明を行っていない。生成りは「ありのまま」という意味だとされているがこれも伝聞だ。そのことから見えてくるのはn-yの枠組みを作るのはState/Guestすなわち周縁ではないかという仮説。n-yが最もストレートに連想される「無い」という概念。アライさん。そこから中心と周縁の関係を想わざるを得ない。この点は後述の三重構造における「クラスター(cluster)」に関わるポイントだ。

「Centers everywhere margins nowhere(あらゆる場所が中心であり、周縁はどこにもない)」とはマクルーハンの言葉だが、そのマクルーハンは「The Global Village」という概念に調和(fusion)を見出す場ではなく、分裂的(fission)な場を見出したとされる。具体的には均一性よりも多様性を志向するのが「The Global Village」であり、多様性とはすなわち分裂だとあらためて著書『Hot and Cool』にて見解を示している。極めて繊細な領域であり解釈を強いる趣旨ではないが、この点はクラスターともn-yとも共鳴するように感じる。

わたしにはこのThe Global VillageがまさしくFSPLに見えるし、n-yから連想する世界にも思える。アライさんはもちろんその点について何も語らない。アライさんにとって中心も周縁もない。マクルーハンの線上にありながら飄々と歩みを進めるアライさんは生成りの帆布が風にたなびく景色をどう受け止めているのだろうか。そこを天国と呼ぶのはアライさんではない。人々であり市民だ。そのようなイメージがState/Guestのありようではないかというイメージが頭をよぎる。「在る(ない)」ものの無常観とは分裂的なものではないか。それであればあらかじめ自律したFSPLはあらかじめ解放されたState/Guestという捉え方が可能だ。


The Nowhere State, The Nowhere Party: どこに建つか、どこに座るか

FSPLとしての各State/Guestは元から在る場所に、あるいは好きなところに好きな方法で建つあるいは座る。そしてそこが中心になる。その集合体がFSPLであり、それがn-yを形作っている。すなわちアライさんが形作っているのではなく、State/Guestたる人々が形作っている。そして徐々に集合体の形を成す。はじまりにおいてある種の判断の大きな乖離は徐々に誤差になり、さらに誤差は次第に距離を縮めていく。終わりにおいてはその逆だ。PLにおけるホストの不在、あるいはゲスト全員が各々にホストを担っている状態はまさにはじまりにおける誤差を縮めていく様、終わりにおける誤差の広がる様とも言える。それらの動きは外側からは集合体の形を成して見えるし、内側からは各々が中心に建つあるいは座る構図が見える。はじまりと終わりについてはさらに循環のイメージと結びつくがその点は後述する。

さて、機械学習の分類モデルにおけるエラーを、またはパフォーマンスを数値化したものを交差エントロピー(Cross-entropy)というそうだ。ある二つの存在が近しいなら交差エントロピー誤差は小さく、そうでないなら交差エントロピー誤差は大きい。誤差はすなわちエラーでありロスであるとされるがそれが小さければパフォーマンスは高い、すなわち機械学習の前進ということかもしれない。FSPLにおける交叉はその繰り返しかもしれない。自らがディープラーニングを繰り返すイメージだ。そうであるなら、私なりのState/Guestの在り方またはPLに持ち寄るものが見えてくる。それは音としてのState/Guestだ。

Plain Feels 016.5_026_016.6は2つの出自の2世代目の交差になる。この時点ではまだ整然とした要素が残っている。State/Guestの見えないバランスを可視化するにはどうしてもある種の言語力が必要だ。そしてわたしには中々困難な課題だ。もちろん、可視化することの必要性については議論の余地がある。しかし音にすることでもしかしたら何らか語る事ができるかもしれない。言葉も辿れば音の要素を持つだろう。State/Guestは音として建つあるいは座るということもあるのではないか。それであれば他の要素においても成立する余地はある。PLにおいて何を持ち寄るかは持ち込みたい物語によって決まるのと同様だ。


Plain Feels: それはStateたり得るか、Guestにとって物語になるか

これは問いかけではなく、Plain FeelsはFSPLにおけるState/Guestであるという一つの命題だ。真偽の判断の対象ととらえても構わない。仮にそれが真であっても偽であっても、アライさんがそのState/Guestを排除することはないだろう。ただそこに在るものを、「ありのまま」であるものを、それでいて「ないよ」とするn-yの在り方は極めてデリダ的あるいは禅問答的だと言えるかもしれない。そうであるなら交差は少なくともわたしにとっては自律や多様性と心地よさのバランスの中に、あるいはリラックスした呼吸の中にほのかに成立する世界だと感じる。Plain FeelsはFSPLのState/Guestである。留保条件は無数にある。しかし持ち込みたい物語は見えてきた。

さて、「ありのまま」であるものを、それでいて「ないよ」とするという感覚には循環のイメージが伴う。リラックスした呼吸の中にほのかに成立する世界は、ゆっくり、深く、静かな世界だ。それは例えば土に還るというような循環も含まれるだろう。私たちは日常生活において自身というものについて通常は「在る」ことを前提にしている。もしくは起点にしている。しかし循環においてそれは必ずしも前提でも起点でもない可能性がある。「在る(ない)」という可能性だ。そこに建つ、あるいは座る、というのはどういうことなのか。

Plain Feelsから見えてくるのは交差と誕生だ。誕生は循環の「在る」側を、交差はその水面化の動きを示しているように思う。交差しなければ「(ない)」ものが交差によって誕生する。循環の中に物語が姿を現す。あるいは物語が「在る(ない)」。State/Guestは多元宇宙(multiverse)的世界において循環次元のuniverseにはすでに取り込まれているとも言えるかもしれない。あるいはその点がState/Guestの限界なのかもしれない。


The three-storied pagoda: 三重のパゴダ、構造とドグマ

三重のパゴダとはあくまで比喩であり、n-y構想の起点としての3つのポイントを指す。クラスター(cluster)、経験(experience)、n-yというイデア(idea)の3つだ。以下に各々について記す。これらはここまでの記述のあらゆるポイントを集約したキーワードと言える。ここから見えてくるのは実存と存在へのあらためての問いかけだ。

Pagoda temple line art logo buddhist architecture

クラスターは市民のよって形作られる。n-yという一定のカテゴリの中に市民が在るというイメージだ。ただし市民は移動を伴って集合した訳ではない。これまでと何も変わらない。その意味では離散も集合もしない。そこに在るという事をもって形作られている。

経験はあらゆる主体が各々に形作る。それらは各々に抱えているドグマを形成している。FSPLとして各々が成立しているのはこのドグマの在り方に拠るところが大きいのではないかと推測する。すなわち、市民は意識するとしないとに関わらず何らかの経験を持ち、経験を踏まえたドグマを有し、そのドグマがゲーテッドなFSPLを作り、各State/Guestは自律した状態を保つ事ができる。

クラスターと経験が在ることによってn-yのフレーミングが形成されていく。すなわちイデアとしてそこに「在る(ない)」n-yだ。n-yが示唆する概念についてはメタファーとして扱うと冒頭に記した根拠はここにある。それは統治や権力構造ではない。一方でFSPLの観点からは相互承認や規律についての課題はあろう。あくまでもイデアとしてそこに「在る(ない)」のがn-yだが、一方で相互承認や規律はn-yを必須とはしない。多元宇宙が相互に認識し得ないとされる点と似ているかもしれない。この点は後日整理が必要だと感じるが、FSPLの在り方から多元宇宙を保留にした上で、まず一歩進めてみるというのは可能ではないかと思う。