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Not music but music, so strange but pop

デリタは自身の絶筆となる著書”Apprendre à vivre enfin”で、救済も復活も贖罪も、もちろん自分のみならず他者に対しても、それらが無い可能性もあると静かに語っている。例えばその静寂は私を今この瞬間に受け入れるだろうか。そこに在る世界がそこに在るうちには叶わない、故に世界から飛び立つ可能性を示唆する思念。それは広義には寛容といって差し支えないように思う。

寛容、そして対話。デリダ的なものを聴覚を軸に探し求めるなら、例えば幾度にわたり再定義されて続けるうちに思念自体が削ぎ落とされ対象が音にフォーカスされつつあるニューエイジやアンビエントよりもむしろ自ら、そして他者に対してある種の可能性を求め続ける側面が残り続けたこの作品こそが相応しいのではないだろうかと思っている。バンドは対話を続ける。そして発せられるフレーズはそれ故そこから飛び立ってゆく。

同じことは、KV 626にも言えるのではないかと思っている。ジュースマイヤーは死者との対話による補筆をもって、総譜をヴァルゼックに引き渡すに至る。もちろん構成上のレクイエムはそこに在るが、まさしくデリタ同様、救済も復活も贖罪も、もちろん自分のみならず他者に対しても、それらが無い可能性の中で対話を続けたジュースマイヤーの姿が目に浮かぶようだ。その彼自身の絶筆となる歌劇は果たして彼を飛び立たせることが出来たのだろうか。

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「3月か、あまりに遠い」 — デリタ

“Mars… C’est loin… Mais je persévéreraient…” — Derrida