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Not music but music, so strange but pop

フーゴ・バルが1916年に発表した”Karawane”は最初の音響詩と言われる。彼はその作品の発表に先立ち「言語を一切放棄、言葉の最深部の錬金術に引きこもれ、言葉を見放して、文学の神聖な領域を守れ」と発表の意図を自ら示している。そして音響詩がはじまる。言葉に潜む音と意味を分離させ各々元の居場所に置き直すその試み。それは今もって未完である。

ところで、the future is certain, the past is unpredictable、生きる上での一つの知恵とも言えるこの考えを私は支持したい。すなわち「今」、だ。今をもってしてこの先は確かなものとなり、今をもってしてこれまでの軌跡は再構築される。では「今」とは何か。正直なところ、その答えを私は持たない。しかし「今」とは音と意味が密接不可分な瞬間ではないかと思うことがある。

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フーゴ・バルはそうした「今」という状態から未来へ、同時に過去への脱却を試みたのではないか。ある種のアナーキズムを生み出したその当時の現代というものからの脱却。あるべき場所へ、あるべき時へ、一つづつ解体し組み替えていく。連綿と続く圧倒的に孤独な作業としての音響詩。未来の、同時に過去の、人へ。残された音があり、紙の上の文字がある。だけ。しかし今、この瞬間のみ唯一それらは密接不可分にここに存在する。嗚呼、愛すべき今よ!

“Whisper words of wisdom, let it be” - Lennon & McCartney