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『ラッキーストライク』二号内容紹介


『ラッキーストライク』二号書影
『ラッキーストライク』二号目次


――ラッキーストライクというグループにおいて、批評は、その固有の方法である弁証法=弁論術ディアレクティックをもって、「現実」を発明=捏造インベントinventするために、たしかに存在する。

(「テーゼ・ラッキーストライク」)

 『ラッキーストライク』本誌、ブログ読者の皆様、イベント参加者の皆様、平素よりお世話になっております、ラッキーストライク運営に新しく就任した山西将矢です。私の名前になじみのない皆様も多いと思いますが、運営のひとりとして『ラッキーストライク』本誌第二号の紹介記事をお送り致します。

テーゼ・ラッキーストライク 袴田渥美feat.赤井浩太

 今年の四月にブログにて公開された記事をすでにお読みいただいたかもしれませんが、まずはラッキーストライクの暫定的な理念を宣言したテーゼから紹介していきたいと思います。

みずからの眼前で、鼓膜のうえで、鼻さきで、舌のうえで、指さきで、こざかしい形式的理性のなかで、必然的であり、無限定で超越的であるかのようにふるまい、もしくはそんなものはいかなる条件においても存在しないかのように振るまう「現実」もしくは非「現実」のような何かは、弁証法=弁論ディアレクティッのなかでこそ打ち砕かれなければならない。

(「テーゼ・ラッキーストライク」)

 フランスで一九三〇年代に行われたアレクサンドル・コジェーヴによるヘーゲル哲学講義は、その後に展開された現代思想の淵源となっています。しかしそこでコジェーヴが「主と奴の弁証法」の図式を持ち出して提起した世界観というものは、主観的な認識と欲望によってのみ構成されており、具体的かつ客観的な手触りのある「現実」は捨象されていると言ってよいでしょう。テーゼにおいて批判されるのはこのような、コジェーヴ講義以来維持されてきた「現実」なるもののステータスの欠如です。

われわれは自分たちの置かれている言説状況を、無数の「現実」の氾濫でも、唯一の「現実」の専制的な現前でも、その否認でもなく、「現実」の貧困として見さだめる。ここには具体的かつ客観的な「現実」などどこにもない。ただ観念的な、あまりにも観念的な「現実」という語の流行があるばかりである。

(「テーゼ・ラッキーストライク」)

 「現実」とは全ての人間に共通する絶対的なものでもなく、個々人によって異なる相対的なものでもないと考えることからこのテーゼは始まります。抽象と具体を行き来する「弁証法」、そして文体としての「弁論術」、その両者を等号で結んだ「弁証法=弁論術ディアレクティック」によってこそ「現実」はその都度「発明=捏造インベント」されるはずなのだと私たちは宣言したのでした。

「ラッキーストライク!」の瞬間と、袴田渥美と赤井浩太がこれまでに名指してきたものとは、この未知なる発明=捏造インベントinventの瞬間であったはずだ。

(「テーゼ・ラッキーストライク」)

端的に言おう。われわれは、探しものがあるのではなく、出会うものすべてを待っている。

(「テーゼ・ラッキーストライク」)

回転と転回――遠野遥試論 山西将矢

「批評」とは「闘争」である。「重力」を切り裂きそこに「小説ならざるもの」を介入させることであり、「小説」と「小説ならざるもの」の間で繰り広げられる不断のせめぎ合いのことである。

(「回転と転回――遠野遥試論」)

 山西将矢の論考は二〇二〇年に『破局』で芥川賞を受賞した小説家・遠野遥を対象としています。デビュー作の『改良』から最新作の「浮遊」に至るまでの作品を堅実に読解し、遠野遥の可能性の中心に迫ります。その際に焦点を当てられるのが作品間を越えて繰り返し現れるいくつかの描写や表現、反復されるシークエンスです。

遠野の「小説」においては、特定の出来事が何度か繰り返される。一度目は悲劇として二度目は喜劇として、というわけではないが、持ち前の生真面目さでさほど重要とも思えない文章や場面が反復される。

(「回転と転回――遠野遥試論」)

 社会から課されたマナーや規律、自らが定めたルールへと過剰に適応する主人公を「球」になぞらえ、かけがえのない他者との遭遇によって「球」に破れ目が生まれる瞬間を捉えます。

林光《原爆小景》に寄せて 西村紗知

どうして林は《原爆小景》を完成させるのに「ほぼ全生涯」を費やすことになったのか。「作風の変遷」「精神的内容」とはどんなものか。この疑問の答えを探すことがこの論考の目的だ。そして先に言ってしまうと、答えを探すうちにこの原稿は芸術創作と社会参加の分かち難さという広範な主題の上に成り立つものとなった。

(「林光《原爆小景》に寄せて」)

 西村紗知の論考は作曲家・林光が四十年以上の歳月をかけて完成させた、原民喜の詩を原作とする合唱組曲《原爆小景》をめぐる長編音楽批評となっています。戦後の民衆的政治、芸術運動である「うたごえ運動」、「国民音楽」へのコミットメント、間宮芳生、外山雄三との「山羊の会」結成など、林光の来歴を辿りながら彼の直面した「芸術創作と社会参加」の問題を浮き彫りにします。

歌う主体なしに(抒情することなしに)、歌の媒介となるところの言葉を浮き立たせる。浮遊する言葉が、これの発せられる元の肉体の限界状況をあらわす。作品内部の主観を抹消させるために、作曲家の主観と技巧が必要になる。

(「林光《原爆小景》に寄せて」)

 西村の筆はやがて林光の直面した「人称」の問題へと進みます。「芸術創作と社会参加」、その両者の間にデッドロックとして浮かび上がってきた「人称」と、林光はどのように対峙したのでしょうか。

パンチヴォイスは止まらない――Fuji Taito論 赤井浩太

パンチヴォイスが存在する。実際にそんな言葉があるかどうかは知らねえ。だが強烈な衝撃をリスナーの鼓膜に叩きつけ、とどまるところを知らず、なおも叩き続け、そうして圧倒的な印象を刻みつける声がある。歌が上手いかどうかは、美声かどうか、そんなことはどうでもいい。ただその声が誰のものであるかという刻印の鮮烈さだけが問題である。

(「パンチヴォイスは止まらない――Fuji Taito論」)

 赤井浩太はBRIZA YAVAISZ DAZEの中心的メンバーであるラッパー・フジタイトを論じます。彼は群馬県を地元とするブラジル人移民二世であり、ラッパー名「フジタイト」は十代の頃脱法ドラッグのビジネスに手を染め、その際亡くなった兄貴分の名前を組み換えてつくられたという由来を持っています。しかし赤井が注目するのはフジタイトの経歴ではなく、リスナーの心を揺さぶらずにはおかないその声です。

バカみたいなことを言うぜ。俺は「文字」と「声」という分析的知性の二元論を超えてえんだ。作品体験に関するおのれの感動の分析が、そのまま作品全体の強度を再構成することを夢見てはならないなどという理由が一体どこにある。批評家にあるまじきことを言っただろうか? しかし、俺は昨日までに書いた小賢しい一万字をさっき丸ごとデリートした。それぐらいでなきゃフジタイトを論じられねえと判断したからだ。

(「パンチヴォイスは止まらない――Fuji Taito論」)

 ラップとは、単に書かれた「文字」を「声」にして読み上げるだけではなく、音楽やリズム、そして身振りや映像とともにラッパーによって語られるものです。それにより二元論を超克した地点で捉えられる「オラリティ(口頭性)」が発揮されるのです。「オラリティ」を軸に、フジタイトの「パンチヴォイス」、そして広く日本語ラップを論じるための道を拓いてゆきます。

NAM総括以後――科学、贈与経済、山岸会、使い捨て時代を考える会 吉永剛志

理論が困難に突き当たった実践の場を再構成したい。そしてその困難を実践的に克服することを目指したい。この著はそういう意識のもとで書かれている。

(『NAM総括 運動の未来のために』、航思社)

『NAM総括』以降を書きたい。それは今の自分の前を切り拓くということだ。

(「NAM総括以後――科学、贈与経済、山岸会、使い捨て時代を考える会」)

 二〇二一年に『NAM総括』を刊行した吉永剛志が、槌田劭により一九七三年に設立された使い捨て時代を考える会を中心に据えたこの論考で扱っているのは運動体における組織論です。会設立以前の、父槌田龍太郎、槌田が依拠した農を軸に活動する共同体山岸会との関係から、社会運動と経済事業の二つを両立させた、会の成果としての安全農産供給センターの誕生までを遍歴し、運動における「理論」と「実践」の問題を追求します。

責任(レスポンシビリティ)とは、いうまでもなく他者への応答責任であり、特に未来および過去の他者への応答である。その中に、自己の正当化は存在しえない。

(「NAM総括以後――科学、贈与経済、山岸会、使い捨て時代を考える会」)

 『NAM総括』という書物が、端的にNAMの組織的変遷を総括したものであったとすれば、本論考はその先の未来を見据えたドキュメントとなっています。

言葉の義人たち 「アンチモダン」に関する試論 平坂純一

ある革命的な、人間存在の根幹を覆す事件があったとする。それがフランス大革命とその反動に類する世界史規模の事件であろうと、安倍晋三暗殺やウクライナ戦争であろうと、問題は検察官のような冷徹な事実認定と、神的視点における価値判断を要する。

(「言葉の義人たち 「アンチモダン」に関する試論」)

 平坂純一の論考は、フランスの批評家アントワーヌ・コンパニョンが「アンチモダン(反近代)」を特徴づけるものとして提示した、「反革命」「反啓蒙思想」「悲観主義」「原罪」「崇高」「罵詈雑言」という六つの概念をもとに「アンチモダン(反近代)」を概観するものとなっています。安倍晋三暗殺事件をフランス革命以来の、あるいは日本では「戦後」の名において特権化された「自由」と「民主」の「近代」の延長線上に置き、かつそれを相対化するために平坂は「アンチモダン(反近代)」を持ち出します。

このようなcontextual 、政治含めた薄汚い「現実」について、textの力を借りつつ対抗するのがある時代までの知識人の役割だった。この件について、ラキスト誌が不充分であることを一つ、老婆心として伝えておきたい。

(「言葉の義人たち 「アンチモダン」に関する試論」)

 創刊号に引き続きジョゼフ・ド・メーストルのtextを中心に据えて「現実」contextualに切り込む平坂の論考は、文学的、思想的な膂力によって社会へ切り込む視座を与えてくれます。

ゴダールについて しげのかいり

ゴダールについて語ろうとする人間は沢山いる。そしてゴダールについて語ろうとする言説も腐るほどある。しかしその中でゴダールの映画的豊かさそのものに全て賭けようとする人間がどれだけいるだろうか。

(「ゴダールについて」)

作品との幸福な出会いから、その出会いに基づいた他者への啓蒙とその実践、すなわちこれからゴダールを鑑賞する人々への手助けになる。これだけが批評の責任であるはずである。

(「ゴダールについて」)

 しげのかいりはこの論考でゴダールの映画作品『勝手にしやがれ』『女と男のいる舗道』『気狂いピエロ』『カルメンという名の女』の四作を、ゴダールが典拠とした映画の父G・W・グリフィスの作品にまで遡って論じます。今年の九月一三日に逝去したゴダールへの鎮魂歌としてしげのかいりの論考を読むことも可能でしょう。しかしそれは間違っても「映画」に対するものではありません。ゴダールの死に「映画の死」を重ねる言説へ釘を刺すことから始まるこの批評によって見出されるのは「ゴダールの保守性」です。それはゴダール作品の具体的な画面から映画の歴史を読み取り、「過去」と「現代」の間に架け橋をわたすことを意味しています。

私が今回ゴダールを取り上げたのは、私自身彼の仕事に魅せられたからというのが第一の理由だが、もう一つの理由として作品分析は過去と現在の架け橋にならなければならないと考えたからである。だからこそゴダールではないグリフィスの作品も同じ程度論じる対象として批評されているのである。

(「ゴダールについて」)

 ゴダールが映画の父グリフィスから多くの「画面」を学んだように、ゴダールから多くの「画面」を学ぶ監督がこれからも誕生するでしょう。そして私たちが立ち返るべき古典として、ゴダールの「画面」、ベルモンドの「顔」は何度でも回帰してくるはずであり、映画の歴史とはそのように紡がれてきたし、これからも紡がれていくのです。

薔薇の弁証法、あるいはグラディーヴァに出会うためのいくらか不可思議なある実験についてのレポート――ジグムント・フロイトとアンドレ・ブルトンにおいて現実的なものの発明とはなにか? 袴田渥美

ところで確かに現実的であるものとは何だったろう。私たちがいままさにとり交わしている言葉や愛のやりとりが、遥か遠く、触れられもしないどこかにかつてあった真に現実的なものへと因果連鎖を経て連れ戻されるものでないと確信することも、不可能であるように思えてならない……。

(「薔薇の弁証法」)

 袴田渥美の論考に登場するのは、ジグムント・フロイト、『夢判断』執筆中のフロイトと文通し彼に影響も与えたベルリンの耳鼻咽喉科医ヴィルヘルム・フリース、フロイトの愛した小説『グラディーヴァ』の作者ヴィルヘルム・イェンゼン、そしてフロイトの『グラディーヴァ』論「妄想と夢」によりイェンゼンを知ったシュルレアリスト、アンドレ・ブルトンです。
 袴田がフロイトの生涯を通観して見出した問い、「現実的なものとは何か」を軸に論考は進みます。

起源もしくは原因、あるいは根拠という語で言いあらわされるようなただひとつの現実的なものへと因果律を通過して連れ戻されかつ構造化されてしまうはずだったひとつらなりの言語活動が、予測もしていなかった遭遇によって、現在的でありかつ現実的な、かつ謎めいた対象と一挙に結びついてしまう、というこの事態にこそ、私たちはセッションにおいて、言い換えるのであれば誰かとの遭遇においてこそ発明される現在的でありかつ現実的なものの可能性を視ることができるのではないだろうか。

(「薔薇の弁証法」)

 フロイト、フリース、イェンゼン、ブルトン、この四人のそれぞれの出会いを辿る袴田の論考は、精神分析の黎明期からシュルレアリスムの運動にいたるまでのおよそ半世紀におよぶ時間を追跡し、他者との遭遇により果たされる現実の「発明」の瞬間を描き出します。

だから私たちラッキーストライクは、絶対に複数でなければならない。

(「薔薇の弁証法」)

バックドロップアゲイン 田中アハ太郎

校門を振り返って道路一本挟んでグラウンドへと続く橋と壁には母校の部活動の実績がでかでかと垂れ幕で張り出され、その年月日を示す元号は平成から令和へと変わっているのであった。良かった、俺の母校は時の流れの中で置いていかれなかったんだね。時間に取り残されたのは俺だけで済んだんだね。

(「バックドロップアゲイン」)

 創刊号でヤクルトスワローズをめぐるユニークなエッセイを綴った田中アハ太郎が、今号で試みたのは小説の執筆です。初めて書かれた小説とは思えないほど、読者を惹き付けてやまない魅力が湛えられています。一番の魅力は何と言っても先へ先へと読者を誘うユーモラスな文体です。町田康を思わせる自意識過剰な饒舌体と涼宮ハルヒシリーズのキョンのように冷めた巻き込まれ型主人公の間で揺れ動く田中の文体は、ともすれば単なるオマージュへと堕する危険をぎりぎりで免れ、他の作家には書きえない彼独自のものであることがわかるでしょう。

回る?思えば今日の俺の一日は上野近辺をグルグルと回っていただけなのかもしれない。

(「バックドロップアゲイン」)

 この小説は、上野公園で公園清掃のアルバイトをする二十五歳のフリーター「俺」が、高校時代の文芸部の後輩と母校の前で偶然出会い、かつての顧問で今は亡き「先生」の墓参りに行くという他愛なくも忘れがたい人生の一場面を切り取ったものです。

先生もまた、この霊園で眠る他の偉人達と同じように、とは行かないが、俺達の記憶の中から掬われて語られる存在になるに違いない。そこに寂しさはない。今まではそれも満足にできなかった。今日はこれで充分だ。

(「バックドロップアゲイン」)

 
 以上、『ラッキーストライク』二号の紹介記事をお送りいたしました。
 私たちの雑誌も二冊目となり、私も含め、新たな執筆者の加入により創刊号の倍近い頁数で本誌をお送りできたことを非常に嬉しく思います。

本当に信じて言えることはそれほどおおくない。しかし私は、ほかの誰でもないその人との遭遇の痕跡をいたるところに刻みこんだこの一冊の冊子が、私ではない誰かにとっても価値のあるものでありうることだけは信じて言うことができる。

(「編集後記、あるいは喫水部におけるラッキーストライクについて」)

 個人的なことを言えば、私とラッキーストライクとの「遭遇」は、大学の講義での袴田渥美という名を持った存在との偶然の出会いによるものでした。「ほかの誰でもないその人との遭遇」とは劇的なものではなく、このような、どこにでも転がっている、些細で偶発的なものに過ぎないのではないでしょうか。そして『ラッキーストライク』を手に取り、全てではなくともそのうちのいくつかの論考を読まれた皆さまと私たちは、すでに不可避的に出会ってしまっていると言えるでしょう。私たちの雑誌に何らかの「遭遇」を感じたのなら、遠慮なく応答してほしいと思います。
 ひとりでも多くの人が、ラッキーストライクのなかにあの瞬間を、つまり「ラッキーストライク!」と叫ばずにはいられないあの瞬間を見出していただければ幸いです。

                           文責―山西将矢

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