『ニュー・アソシエーショニスト宣言』書評 評者・吉永剛志

 刊行一年で40万部近くのベストセラーとなった斎藤幸平氏の『人新世の資本論』を読むと、マルクスが述べた「可能なるコミュニズム」という言葉や「アソシエーション」という言葉が強調されている。斎藤の本は気候変動の強調は新しい。が、結論的な部分の実践的な方策には――失礼な言い方だが――、特に蒙を啓かされるものはなかった。
 20年前、自由で平等な生産者の連合社会を理想とする「可能なるコミュニズム」や「アソシエーション」を運動として前面に打ち出し、実践しようとした団体があった。思想家の柄谷行人が提唱したNAM(New Associationist Movement)だ。このNAMについて、近年柄谷行人が本を書いた。『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(以下、『宣言』)という。今回はこの本を取り上げようと思う。
 『宣言』第一部は、その理論的背景、当時の状況認識、NAMの活動の開始から解散までの簡単な経緯が語られている。
 NAM結成直前の柄谷は、批評家としての名声は日本において絶頂に達していた。それは柄谷が敢行していた旧来の「知」の破壊・再構成の果てに、何か新しいものが到来すると当時若者に期待を持たせたからだ。そしてそのようないわば「予告編」ではなく、満を持して提示された「本編」がNAMだった。実に派手な動きだった。巻末に収録されている『NAM原理』は当時のベストセラーだ。
 しかし2年半でNAMはあっけなく解散した。そもそも柄谷は文学者であり、出版人であり大学人だ。活動家、オルガナイザーとしての経験は学生時代のごくわずかの期間を除き、ないに等しかった。アソシエーション、協同組合を顕揚しても、具体的にそれに参加したり運営したりしている人、さらにはそういう人たちが抱える課題は何なのか知らなかったはずだ。NAMの運営は困難を極めた。
 実は、私もNAMに参加していた。そして、偶然にもこの『宣言』と同時期、『NAM総括――運動の未来のために』(航思社)という本を私は出版した。『宣言』で簡単に述べられて終わっている活動経緯については、『NAM総括』のほうも参照して欲しい。
 私としては、『宣言』は、第二部のNAM解散以後の柄谷の20年の歩みの方が興味深かった。この20年で柄谷は「近代文学の終わり」をいい、批評をやめたと公言し、さらには具体的に協同組合関係者や素人の乱の松本哉といったデモ主催者とじわじわと結びついていったのだ。「近代文学が終わり、(文芸)批評家をやめた」のだから当然かもしれないが、このあたりのことは文芸雑誌などのメディアではとりあげられない。評価される場所がないところなのでここで強調しておきたい。NAM解散という「失敗」で、幻滅を感じたり冷笑を浴びせる人もいる。が、柄谷はNAMを解散したとしても、自分の言ったことを真面目に実行しているのは事実だ。ヘーゲルの『精神現象学』に間違いを恐れることこそが根本的な間違いなのだ、という言葉がある。カント主義者にありがちな、間違いを恐れて、(自己)吟味し続け、行動を常に先送りする態度を批判して言われた言葉だ。「リアル」の場は間違いを通じてこそ構成され、実現されていく。なぜ誤りや錯覚が「リアル」に内在し、なぜ「リアル」は思い違いから生じるのか。実践における柄谷はNAMの理論的な元となった著書、『トランスクリティーク』で強調したカントを踏み越え、ポスト・カント的な地平に向かおうとしているとも言える。
 『宣言』の第二部で柄谷は、「生活クラブ」連合会会長の加藤好一のインタビューに答えている(「協同組合とアソシエーション」)。その掲載雑誌は『社会運動』という生活クラブのシンクタンク、市民セクター政策機構の季刊誌だ。2014年から2015年、5号に渡って、NAM会員で太田出版の前代表取締役だった高瀬幸途が編集の中心を担った。この雑誌の高瀬編集時代は理論と実践を最前線で融合しようとしていて実に面白かった。他にも柄谷は生協の関西よつ葉連絡会に講演に行ったり、有機農業運動や脱原発運動を盛んにおこなっている京都の「使い捨て時代を考える会/安全農産供給センター」の創設者槌田劭と脱原発運動団体、たんぽぽ舎の東京の事務所で講演したりしている(2011年10月11日)。柄谷は、福島原発がメルトダウンしているということを、槌田(筆者吉永が間に入った)を通して知った。爆発した2011年3月12日の翌々日のことであった。
 原発事故後も、柄谷はじつにまじめにデモに行っていた。『宣言』には、2011年9月11日『9.11新宿・原発やめろ!!!デモ!』の新宿アルタ前「広場」、街宣車上での柄谷スピーチが収録されている。が、アルタ前に「広場」なんてものはない。主催者の松本哉をはじめとする「素人の乱」関係者が「はんげんぱつ広場」と名指して「解放区」を創り出した。街宣車の上で、1万人のデモ参加者(で最後まで残った人)と大量の警察官が投入された厳戒態勢(デモでは12人の大量逮捕)の中、「デモは主権者である国民にとっての権利です。(・・・)皆さん、ねばり強く戦いを続けましょう」とスピーチした柄谷は格好よかった。これは活字だけでは分からない。
 実は、私は、柄谷とよくデモに一緒に行っていた。高円寺の素人の乱は、逮捕者の救援対策をどうするかと政党政治とどう関係性を築くかという課題に直面した。脱原発の大規模デモは早々とやらなくなった。代わりに2012年から毎週金曜日の首相官邸前抗議が脱原発運動の「主流」となった。柄谷は首相官邸前抗議活動にも一人の頭数としてよく行っていた。野間易通が『金曜官邸前抗議』(河出書房新社、2012、p210)で書いているが、社会学者の小熊英二は2012年8月22日に首相官邸「内」で行われた首都圏反原発連合と野田首相(当時)の会談を実現させる調整をした。その小熊がデモの現場(2013年1013原発ゼロ統一行動)で柄谷に挨拶に来ていたのを覚えている。また安保法案反対デモでSEALDsの奥田愛基たちが国会前を先頭きって占拠して、12万人の人で国会前が埋め尽くされた2015年8月30日、9月19日も、柄谷たちと私は一緒に阻止線を突破した。
 デモの後は、新宿歌舞伎町の、実にいい感じの中華料理屋行って、これまた景観と真逆でめちゃくちゃ美味しい(しかも安い)料理を食べながら雑談するのも楽しみだった。柄谷が怒ったり笑ったりしていた、その体感を今でも思い出す。そういった行動の最中で、第二部の「アソシエーションとデモ」の文章は書かれている。
 なお、同時期、柄谷は、理論やメディア発信的には、2012年9月より2ヶ月ほど丸川哲史らの紹介で、北京精華大学他の研究機関で講演旅行を行なった。『世界史の構造』(岩波書店、2010)を内容としたものだった。2014年には『世界史の構造』英訳版をデューク大学より出版し、その年の4月にフレドリック・ジェイムソンをホストにデューク大学で『世界史の構造』を主題としたコンフェランスをもっている。また安保法制反対で国会前が決壊する2週間前の2015年8月15日、つまり第二次世界大戦終結70年の日に、岩波書店が朝日新聞に出した全面広告において、「戦後70年 憲法9条を本当に実行する」という表題のインタビューを岡本厚岩波書店社長から柄谷は受けた。
 2015年、安保法制関連法案が強引に通った。憲法学者のほとんどが違憲と言う状況下だった。それにより日本は集団的自衛権の行使が事実上可能となった。昨今の台湾と中国との緊張の高まりを見るにつれ、これはアメリカとの対中国共同戦略の一環だったのだろうとわかる。『宣言』には、2014年、台湾の立法院占拠の「ひまわり革命」後、台湾で行った講演も収録されている。柄谷の著書は台湾でも学生たちに読まれている。また、北京精華大学の汪暉(ワンフィ)から柄谷が直接聞いたこととして、「台湾のひまわり運動の黒幕は柄谷だと自分のところの学生が喜んでいる」という逸話が『宣言』第一部「NAM再考」でさらっと書かれている。これには私は極めて驚いた。汪暉は、公式には台湾独立に反対な立場なはずだ。汪暉は、習近平の「ブレーン」とも囁かれている。昨年翻訳が出た許紀霖『普遍的な価値を求める 中国現代思想の新潮流』(法政大学出版局、2020)によると汪暉は、2010年ごろから「脱政治化の政治」に対する批判から大転換し「党国が普遍的利益を代表する」という論を提唱するようになった。要は、世界的に蔓延する「脱政治化の政治」(汪暉)、つまり「政治」を冷笑する「脱政治化された」意識こそが、一番たちの悪い政治なんだという批判的立場より、中国共産党が未だ綱領・理念として保持する「プロレタリア独裁」(「人民民主独裁」)のほうがまだましだという意識となったのだろう。詳しく分からないが、意外と、レーニンを称揚し、違う形のレーニンの反復を待望するジジェク(『迫り来る革命レーニンを繰り返す』岩波書店、2005)らと同時代性を感じさせる思想的出来事なのかもしれない。
 実際、汪暉は、台湾ナショナリズムを自著で批判している(「琉球」、『世界史の中の中国』、青土社、2011)。一方、台湾で、柄谷はひまわり学連とともに台湾立法院を占拠した呉叡人と二人並んだ講演を、学生に請われて行っている。呉の『台湾、あるいは孤立無援の思想』(みすず書房、2021)は今年翻訳が出た。呉は、「私は台湾ナショナリズムと批判される、しかし、中国が攻めてきたときどう尊厳ある死を迎えるかということから考えているのだ、「ナショナリズム」とか抽象的に言われても困る」と今年言っていた。ちなみに呉は、ベネディクト・アンダーソンの弟子でもある。アンダーソンの著書『想像の共同体』の中国語訳もしている。アンダーソンは『想像の共同体』で、そのために死ぬことができるとされる「ナショナリズム」の謎に挑んだ。きっかけは、1977年、「インターナショナル」なはずの社会主義国家、中国・カンボジア・ベトナムの間で、どこからどう見ても「ナショナル」でしかない大義名分で戦争が引き起こされたからだ。「国民国家」は国ごとに特徴はあるが、基本形式的には互換可能な過去200年の歴史的形成物であり、そこからそれぞれの「国民」(nation)の歴史が、遡行的にいわば「フィクショナル」に形成される。ではしかし何が、「死ぬこと」までをも「ナショナリズム」に付与するのか? 単なる相対主義では解けない。呉の中国語訳『想像の共同体』は、中国本土では、呉の解説と、第9章の中国・ベトナム・カンボジアの1977-78年の戦争を具体的に扱った部分は、検閲・削除されて2003年出版された。
 日本・中国・台湾。柄谷は矛盾した対応をしているとも言える。日本においては、柄谷は加藤好一のインタビュー(「協同組合とアソシエーション」、『宣言』)にあるように、柳田国男の農政学を宇沢弘文の社会的共通資本(コモンズ)の先駆的なものと評価していた。同時期に書かれたそれぞれの柳田論では、「柳田の農政論は、国家に依存しない「協同自助」による農村の自立を説くもの」(柳田國男『「小さきもの」の思想』、解題p36、文藝春秋ライブラリー、2014)であり、「彼が提案したのは、小農たちが協同組合によって連合し、農村を商工業ふくむ総合的な産業空間にする政策」(『遊動論 柳田国男と山人』p20、文藝春秋、2014)であるとも書いている。しかし柳田は、宮内官僚の経験をもち、宮中にも強いつながりを持つまったき尊皇の人でもあった。柳田の皇室に対する尊崇の強さは厚い。昭和天皇即位の時は、敬愛と期待の感情をストレートに朝日新聞社説に表出している(柳田國男研究会編著/後藤総一郎監修『柳田国男伝』、三・一書房、1988)。柳田論の出版の直後、柄谷は、「リベラル」な平成天皇(当時)に、あたかも柳田のごとく、「ご進講」したという噂が飛び交った。私は直接面と向かって事の真偽を柄谷に聞いたが、言下に否定された。もっとも「李下に冠を正さず」的なことが、ごくごく軽い形ではあったようだ。
 問題は根が深い。言えるのは、資本・国家・ネーションに回収されない要素を社会のさまざまな文脈に見いだし称揚することを超えて、その要素を主体的にどう創り出すか、という問題に関わっていると言えるだろう。それはもはや柄谷を超えて我々自身の課題だ。資本・国家・ネーションに回収されない要素は実は社会生活のいたるところに存在する。しかし、それは生活の中での「余白」みたいな扱いになってしまっているために、相互に切り結ばない。その「余白」と「余白」のあいだをつなぎながら、地と図を反転せるように「余白」の部分こそがむしろ生活の本体であるとしていく必要がある。そのためには、いわば「業務」としてこれを担う人も必要でもあろう。だが、その「業務」は「資本」からも「国家」からも評価されない。だから、かならずもめ事がおこる(拙著『NAM総括』参照)。しかも、「資本」と「国家」の上にあぐらをかいた既成政党との交渉も必要となる。いま大切なことは、こうした「業務」を担う「仕事人」へのリスペクトと適切な報酬かもしれない。
 斎藤幸平の本に、実践の部分では目新しいものはないといささか辛辣なことを冒頭で書いたのは、以上のようなヒリヒリするところに踏み込んだ部分を感じなかったからだ。「アソシエーション」というが、人が約束したり協力したりするというのはまじめにやりだすと至難の業だ。結局は国家による法的強制・罰則がないし、資本主義的「契約」でもないからだ。しかし私としてはそこから先こそが仕事でしょ!あるいは「業務」でしょ!と強く思う。そしてその「至難の業」を試行錯誤したり言語化したり一般化したりする作業こそが必要だと私は思っている。みなさん一緒にやりませんか。

※季報『唯物論研究』に掲載予定の書評だが、長さが収まりきらなかったのでこちらにも掲載する。

                           文責ー吉永剛志

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