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旅行するということ

"To travel is to live."   -Hans Christian Andersen

 大学生になって、素敵なご縁があり、長い休暇には必ず旅行に行くというライフスタイルがはじまった。遠くは九州北部、北陸、山陰。関東もあちこち。故郷の高知も、はじめて旅行という目線で歩いた。

 同行者は旅行を「非日常」と位置付ける。同じような毎日のぐるぐるからの解放としての旅行。10時間近く電車に揺られたり、時間を忘れて温泉に浸かったり、知らない街を気ままに散歩したり。このためにがんばっているんだぁーーーという感じがして、とてもすばらしい。日頃の疲れのなにもかもが吹き飛ぶし、この得難い体験によって、ひと旅ごとに大人になれるような気がする。

 そんな旅行満喫ライフを送るある日、コース同期のお誘いで『「人生の面白がり方」を聞く ~宇宙×アドレスホッパー~』なるイベントに参加した。人生を楽しむおとなたちの話を伺った後、自分にとって面白いことはなにか、と聞かれた。そして、それのどこが面白いか。はて、なんだろう。自分のあたまで考えたことはなかった。

 問いかけに応えてふんわりと幸せに満ちた旅行の思い出を紐解いてみると、ひとつのエピソードが浮かんできた。五箇山の合掌集落で「ささら編み」という体験をしたときのこと。同行者と、私と、工房のおばちゃんの3人だった。きれいに整えられた畳の部屋で72枚の小さな木の板を紐で組みながら、おばちゃんはいろんな話をしてくれた。
 この地域に古くから伝わるお祭りでこの楽器が使われること。われわれが昼食をいただいたお店のご主人もその踊り手であったこと。いまも保全活動を続けていて子どもたちも多く参加していること。木材の仕入れのこと。自分が家に嫁いできたときのこと。お子さんや旦那さんのこと。歴史の話、たとえば地理的特徴のために地域一帯が加賀藩の流刑地であったこと…。その地で暮らすひとびとの様子がうかんできた。 

 ところで私は、他人の学校ツアーがとても好きだ。「この学校に〇年間通ったのか…こんな教室…こういう寄り道をしていたのか……そうやって君は今の君になったのね」なんていうことを思う。

 自分の学校生活を思い浮かべるときに一番最初に出てくるのは玄関数歩前の空だ。高校2~3年のころ、私は毎朝7時10分ごろに登校して自習室で勉強をするというルーティーンを持っていた。少しねむねむしながらも朝の気持ちよくつめたい空気を吸い込んで「今日もがんばる…ぞぉ」と思いながら、グラウンドと周辺の住宅のかけらを映した空を見ていた。

 私はだからつまり、そういう空を見つけては喜ぶのだと思う。日々の凝縮としての風景。

 冒頭のかっこつけた引用に戻るが、これは一般的な解釈とは少しずらした意味で取り上げた。私にとっての旅することの喜びは、だれか他の人の生、それが刻まれた"place" (地理学かなんかで、"space"の反対に置かれるもの。ただの地理的な一地点に対し、意味合いや名前が付加されたもの) を見つけて感じることにあるのではないかと思う。

 はじめてのnote、けっこう楽しく書けた気がする。延滞ごめんなさい。
 これを考えるに至った契機はまちがいなく前述のイベントであるので、某同期にはほんとうに感謝申し上げたい。それからいつも同行して旅行をさらにかけがえのないものにしてくれているそこのあなたも本当にありがとう。それから他の皆さんも、ぜひ一緒にこんど旅行に行きましょう。こんなこと書いていながら、いざ旅行先につくと地元の美味しいごはんと地酒にきゃいきゃい言っているだけかもしれませんが、悪しからず。

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