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よるをあるくだけ

 書きたいのか書きたくないのかすらわからない、そんな夜更け。noteにもぞもぞやってきて、ともだちの文章を読んでしなびていたのが少しなおったような、もやしの気分。

 Instagramで新しい趣味を募集してたくさん送られてきた案のどれにも手をつける気になれないような、そんな気分。

 実は民族誌の手直しをため込んでいるし、教職の勉強もそろそろ始めた方がいい。フランス語の勉強を再開することもきっとすてきだろうし、たぶん英語もやったほうがいい。
 でもなんだか何をするにも心の中のミニ私ちゃんの足取りは鉛よりも重くて、本番が迫ったピアノの練習と、毎日のように入れたバイトのシフトを消化してくてんくてんって寝てしまう日々。やっている間の私は生き生きしているんだけれどね。

 引きのばされた袋小路。

 村上春樹を最近読み始めた。きっかけは奇妙にもTwitterだった。「村上春樹のつぶやきbot」というものがあるからよっぽど暇だったら読んでみてほしい。あほみたいに繰り続けるタイムラインにぽっぽと出現する100文字ちょっとのつぶやきがやけに心地よい。逆張りというのもちょっと違うにせよ、なんとなく彼を敬遠していた私だけれど、1万字くらい読んだところで決意が固まった。

 引きのばされた袋小路は今読んでいる本の38ページに出てくる文言で、153ページあたりを読んでいてもまだ私の心に残っている。これを書くためにわざわざページを繰った私を笑ってくれたらいんじゃないかと思う。
 そんな表現をされてしまうと、私の生活にもそんなものが存在するのかもしれないという不思議な気持ちになってしまう。名づけとは怖いものだ。

 そんなことを言う割に、袋小路のイメージは本を読む前から妙に鮮明だった。実はね。

歩容 浮揚 いかようにも
漂う記憶
迷い込んだ袋小路も
満ち疲れて少ししょげた月も
さよならのリズムを ふるわせていた

わたし(2022)

 お皿にこびりついたもやし程度の私のセンチメンタル。

 ちょっと寄り道したつもりが元の道に戻れなくなった。何を言おうとしていたかさっぱりじゃん。なにが袋小路だよう。

 一つ思うのは、私の考えは冒頭みたいな袋小路の堂々巡りをしていることが度々あるってことだ。結局この文章を書くことで春休みの怠慢を抜け出そうとしていたのかもしれない。思考の整理とかをして。
 何もしなくていい日常に自分が没していくのを見つめるのはたぶんこれが初めてなのだ。少なくともそういう風に(上にぽちぽちとかつけて強調したいくらいだ)認識するのは初めてだと思う。小学生の時分だって、児童クラブとか習い事とかあったからこんなにふうわりしていることはなかった。

 自分が全然前進していないことに焦りを覚えているわけではない。あるいは覚えているのかもしれないが、なんとなくどうでもいい。とにかく、これを書けたことで私は少しほっとしている。のかもしれない。

 そろそろおふとんが見えてきたのでよるのおさんぽを終わりにします。おやすみなさい。



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