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弓道がくれたもの

自分の人格形成を振り返ってみよう。
急にどうしたという感じだが、大学に来るとやっと自分が「周りと一緒」ではないことに気付いた。自分が特別だとかそんなのではなくて、画一的な環境にいた蛙さんこと私が大海原のきらめきを見たということ。え?

ともかく、色んな人がいるということである。
自分を相対化して見つめてみるとデカい存在に思い当たる。それが弓道。
私は中高6年間弓道部にいた。以下に活動内容を軽く紹介する。完全に忘備録というかノスタルジックの産物なので適当に流してほしい。

1.着替え 中学生はジャージ、高校生は袴に。袴は手慣れるとものすごいスピードで着られるようになる。今考えるとすごい。自主練の日とかはジャンバースカートに胸当てとかで平気で弓引いてたな…。
2.掃除 自主練では区別がないけど、普段は男子は安土上げ、女子は掃除っていう分担。中1の頃は熱狂的掃除人間ですべての雑巾は私の手中にあった。
3.神前礼拝 全員で道場を縁取りして、主将に倣って神前に向かって二礼二拍一礼。人数多い時期はなんかめっちゃ重なっていた。前との距離が15cmとかで手も叩けないの懐かしいな。
4.準備 弓に弦を張り、ぎゅうぎゅうの控えで弽を着ける。ぎり粉とふで粉を付けたら、弓を持って、矢をぎゅうぎゅうの矢箱から抜き取って射場に並ぶ。
5.練習 ひとつ手前になったら執弓の姿勢になるはずなのだが、なにせ人が多いので何となくそれっぽい仕草をする。前の人が出るや否や進入して弓を引く。退場。矢を取って並ぶ。以下ループ。延々と。たまに巻き藁に入って色々確認したり、人にビデオ撮ってもらったり教えてもらったり。教えたり。
6.おしまい 時間になったら片づけて礼拝しておしまい(雑)。立ちとか審査練とかもあったけど今回は省略。練習後も引いてる人たちもたくさんいた。着替えてさよなら。夜の新グラはえもくて帰り道はさわやか。

突然だが、弓道には明確な「敵」がいない。大昔はむしろ敵ありきだったが、形式のみが残り、その果ては禅的なものになった。つまり、自らの精神と向き合い、究極的には悟りを目指すみたいな方向性。どこまでも自分を掘る行為なのである。

射は進退周還しゅうせん必ず礼にあたり、内志正うちこころざしただしく、外体直そとたいなおくして、然る後に弓矢をること審固なり。弓矢を持ること審固にして、然る後に以って中ると言うべし。これ以って徳行を観るべし。
射は仁の道なり。射は正しきを己に求む。己正しくして而して後発す。発して中らざるときは、則ち己に勝つ者を怨みず。反ってこれを己に求むるのみ。

礼記ー射義-

弓を引く前には、まず初めの儀式が行なわれる。それはきまった歩数だけ進んで、射手が次第に的と相対する位置に来るのであるが、途中で立ちどまっては深く呼吸をする。それから射手が弓を引く構えをすれば、その時すでに、完全な沈思に成功する程度まで精神が統一されている。一旦弓を引き絞れば、沈思の状態は決定的となり、引き絞っていればいるほど沈思は深められ、その後の一切は意識の彼方で行われる。射手は矢が放たれた瞬間に初めて、ふたたび、しかも漸次ではなく不意に、かえる。忽然として、見慣れた周囲が、世界が、ふたたびそこに在る。自分が抜け出していた世界へ、ふたたび投げ返された自分を見る。自分のからだを貫き、飛んで行く矢の中に移ってはたらきつづけるある力によって、投げ返されたのである。このようにして射手にとっては、無と有とは、内面的にはどんなに異なっていても、きわめて緊密に結びつけられるのみならず、両者はたがいに頼りあっている。有から無に入る道は、かならず有に復って来る。それは射手が復ろうとするからではなく、投げ返されるからである。

オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』pp.58-59

私のことを幾許か知る人物であれば判ると思うが、私はこういう文章を読むのが大好きである。じんかぶんるいがくとですし。
それはさておき。言わずもがな、ここまでの境地に部活動で辿り着くことは難しい。ずっと憧れてはいても、自分は早気(引き絞った状態で時間をかけて伸び合うことができずすぐに放してしまう)にはなるわ、中て気(とにかく的に中てようとすること)に走るわで散々だった。
それでも、こういう考え方に触れ続けることで、徐々に今の自分の大きな部分が作られてきた。

最たるものが、「敵」を「怨みず」という態度である。自分のことにひたすら集中して自分を向上させれば、結果はついてくる。少なくとも競技柄、そう思うことができた。
もちろん、試合で負けたとき、負け惜しみに「(相手チームの)あの人があそこで外していれば…」などと全く思わないということはない。けれどどこかで「私の努力が足りなかった」が大きくて、「反ってこれを己に求むるのみ」は確かに自分の中に息づかせることができていたように思う。

もう少し細かいニュアンスにまで触れたい。「敵」をどう捉えるかということについて。
冒頭に長々と書いた練習模様にも関係してくる。弓引きは的中数を競い合いながら練習するということはあまりない。戯れにやる人もいるが、基本的には自らのフォーム(「射形しゃけい」)を改善する試みの連続である。
他の対人スポーツとの違いを一応明確にしておく。他のスポーツでもフォームは存在する。しかし、「こういう球のレシーブは」とか、「こういう攻撃に対して」とか、「このプレーヤーの対策は」みたいなことが弓道では一切ない。的は動かない。理論上、ずっと同じ射形で言い続けられれば中り続けるのだ。もちろん色んなファクターが絡むから射形も日々変わる必要があるけれども。
そうすると、「うまい人」に対する考え方はこの比較の中で大きな違いを見せる。対人スポーツでは、うまい人やチームと対戦を重ねることで経験値が上がり、自らも強くなれる。弓道では、うまい人と同じ射場で立ちをしても本質的に強くはなれない。
弓道には「見取り稽古」というものがある。師範などが弓を引く様子を見て学ぶのだ。つまり、徒弟制のようなもので、うまい人に対しては「まねる」のが一番なのである。どのような手の内をすればこんなに冴えるのか、どのような打ち起こしをしているか、どのような引き分けの軌道か、どのような離れをしているか、どのような呼吸をしているのか。

私が徹底的に尊敬する相手を真似ようとする性格はほぼ間違いなくここから来ている。それは生活習慣であったり、ふるまい方であったり、勉強方法であったりする。新しい人に出会い、その人を知るたびに、私の生は豊かになる。

いいことばっかりではないので私の弱点も上げておく。
他人にモチベーションを置きすぎるので自分ひとりで頑張る方法を確立できていないかもしれない。もちろん、様々な要素が集まってできた他でもない私の生き方ではあるけれども、もう少し自分の足で立てたらいいな、と思う。
それから徹底的な個人プレーで生きてきた弊害もある。自分の力の範疇で達成できそうなことを他人の協力をもらいながらやり遂げたことはあるが、純粋なチームプレーで成功した体験はない。サークルの活動もなんだかうまく回らないし、どう負担を分け合ってどう力を合わせるかを学ぶのはこれからかもしれない。

あまりにも自分語りでここまで読んでくれた人には申し訳ない気持ちでいっぱいだが、これを書いておくことは自分にとっては必要なことだったのでご勘弁願いたい。
海のきらめきを見て、世の中にはいろいろな努力の仕方があって、いろいろな美点を持つ人がいることが分かった。本当にみんなすごいし、自分も自分で捨てたものではないと思う。
こういう自分を形作ってくれた弓道にはお礼を言いたいし、まあこれからもそれなりにがんばっていこうかなと思う。

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