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『龍の遺産』  No.11

第二章 『龍が覚醒(めざめ)る』


「そんな訳で、爺ちゃん! 何か知っていることない? 全体が見えないと私たち、この人数(圓●を含め3人)では、今後、何もできないよ。昔のようにはいかないよ。今は物事が早く動き、変化していくのも早いし、それから俺たち経験も少ないし・・・・・・」
自宅に戻った圓●、居間に一人居る爺様に、今日の神宮寺先生たちとの話し合いを説明した。
圓●を溺愛している祖父、爺ちゃんが・・・・・
「そうだな、圓●、かれこれ150年も経っているのを後生大事に守ることは大変なのは分かる。それも少ない人数で、有るかどうか分からないものを守るんだからな・・・・・・」
「爺ちゃんが昔聞いた話をしよう。本当かどうか分からないが、仲間の中で話されていた話でいいか?当時、爺ちゃんが命を受けていた地域では無かったので、聞き伝えだよ。それでもいいな圓●」
少し考えて思い出しながら話し始めた。
「昔、今の相模原市、厚木市、愛川町、清川村に囲まれた地域に「宮ケ瀬の九龍」と呼ばれる言い伝えの話があった。その龍たちがお互いに協力し合って、その地域を守っていたそうだ。私が知っているのは飯山の白龍、清川村の青龍、愛川町ハ菅山の龍と塩川瀧の龍だ。これだけだと四龍だよね。ここからが興味がある面白い話になる。昔とは言っても幕末時だがこの地域の
言い伝えの中に、この龍の中に江ノ島に繋がっている洞窟を知っていて地下水脈を通って、時々江の島まで行っていた龍がいたそうだ。また、江の島からも弁天様もこの地に来て休んでいたそうだ」

「この話で思い出してごらん。江ノ島には五頭龍伝説があるを・・・・・・最初は弁天様は悪いことばかりする五頭龍は嫌いだったけど、その五頭龍が弁天様と結婚したいがため、色々と村人を助けたりして心を入れ替えたので結婚をして幸せに暮らしたと言う話? 知ってるか?」
「話は聞いたことがあるけど、江の島と愛川町が繋がっているなんて初めて聞いた。本当の話?」
「そうだ、時々、弁天様と五頭龍がこの地下洞か地下水脈を通って愛川町へ来ていたそうだ。ここでここの四つの龍と江の島の五頭龍を足して、九つの龍の完成だ。
あくまでも一つの昔話だが、これを当時の幕府がこの話を信じて利用したとは考えられないか? 面白い話だろう」
「圓●、また、こんな話を知っているか? 源頼朝が平家との戦に敗れて
安房の国(千葉県)に逃げる際にその逃避行を助けたのが箱根権現の修験者だったという。そして安房から鎌倉入りする時も安房の修験者の協力を得たとのこと。この話とは別にこんな話もある、頼朝が山伝いに逃げ、中津川、相模川を経て海へ出て、安房へ逃げたと言う伝説があるんだ。実際、頼朝の逃避行を助けたのが関東の修験者の集団だったことは分かっている。

その修験者集団が大山の修験者、愛川町の八菅山の山伏だったそうだ。これに関係があるのが、愛川町の半原地区には「海底」(おぞこ)と呼ばれる地区があり、そこの人々は頼朝の旗挙げに協力した末裔だとも言われている。海の底と書いて「おぞこ」と読む、この地区が海と繋がっていたと言う話となるんだ。今も川の対岸にはハ菅神社、ハ菅山があり修験者の修行の場でもあるんだ」
圓●の爺ちゃんは少し間を置いて・・・・・・
「話には聞いたと思うが、徳川家康も源頼朝が鎌倉に幕府を置く際にこれを参考にして江戸を作ったとされている。頼朝を尊敬していたようだ。その
頼朝に協力した関東一円修験者集団および伊豆の修験者たちを家康は厚く優遇していて幕末まで続いていた」

「これで別々に思えていたことが繋がると思わないか?」
「この地区に何かがあると思わないか?」
爺ちゃんは、話を変えて・・・・・・
「それから圓●、私たちにも多少縁のある地域だ、この辺りは。爺ちゃんは直接会ったことはないが、爺ちゃんのの親父の代までお互いの行き来があった。年に数回、いや一回程度かな?
この地区の長(おさ)、修験者の頭(かしら)と我々「龍の防人」との情報交換だな。近年になってからは懇談会、近況報告会みたいになって来たと、親父が話してた。」
「この地区の長は、明治から大正時代はかなりの数の修験者で村が構成されていて、そのハ菅山や日向薬師、大山から箱根まで修行に出かけていたそうだ。それから江の島方面も出かけたようだ」
「別の話として、江の島の洞窟と富士山の風穴が繋がっている話もまことしやかに今まで伝わっているを圓●、知っている?。
今までこの伝説が絶えないで伝えられているということは、そこに何かあるのかの知れないよ。圓●、例えばこの修験者の集団に関係が有るかも知れない。山の中を一日10里以上走り廻って移動すると云われている連中だから、江の島なんか半日かからず行ける」
「言い伝えの中には、必ず何かを後の世の人に伝えるキーワードが含まれている。それを紐解くことも必要だね」
圓●が眼を輝かせて
「本当に面白い話ね。引き込まれる。爺ちゃん、その関係の資料ある?」
「確かあったはずだよ。それほど詳しくは載ってないが。探しておくよ」
「ところで爺ちゃん、神奈川県にある宮ケ瀬ダムを作る時、宮ケ瀬湖に沈んだ神社、熊野神社について何か知ってる ?」
「何だその宮ケ瀬の熊野神社?知らないな~~、さっき言ったけど、爺ちゃんたちの祖先は、そこら辺の地域の担当では無かったので、分からないな。父さんも知らないと思うよ、我々「龍の防人」は少し遠い、小田原、伊豆、箱根を中心に活動したんだ。わしも修行のため何回も出かけたな。今はどうなっているのか・・・・・・」
昔を思い出したように、懐かしんでいた。これが出ると話が長くなるので立ちあがって・・・・・・
「爺ちゃん、ちょっと出かけてる。資料、探しておいてね」
 
              ≪龍≫ 
 
そろそろ梅雨を迎える6月中旬になるのだが、まだそれほど感じない。やはり今年は雨が少ないようだ。本厚木の小野田興業、相変わらずの昼下がり。やることがなくいつものように足を机に投げ出して、週刊誌を読んでいる所に、部下の北島が戻って来た。カバンを自分の机の上に置くなり、小野田の所へやってきた。小野田は週刊誌から目を離さず
「お疲れさん!! 何処をまわってきたの?」
「小野田さん、今日は約束が取れて、あの例の話で、神奈川中央新聞をよく知っている人と一緒に、伊勢原の本社を訪ねてきました」
投げ出していた足を下に降ろし、肘を机につき、前のめりになり、興味を露わにした。
「で・・・・・・なんか掴んできたの?」
「例の土曜日の特集号に興味を持っている愛読者として、訪ねて行き、話を聞いてきました。紹介してくれた本厚木の商店街の会長さんと一緒に・・・」
「先方も広告掲載をしてくれる商店街の会長さんですから、広告部の課長が出てきました。今分かっている内容を教えてくれましてね、また、今後の
内容が分かり次第、知らせてくれることになってます」

「まずは、次回の掲載予定は、3週間後あたりで、やはりここら辺、厚木・伊勢原が中心となるようです。そして、宮ケ瀬湖周辺の地域にもスポットを当てるようです」
小野田がかなり真剣に・・・・・・
「と言うことは、まだ例の宝さがしは続いていて、まだどっかにあると言うことだな」念押しのように北島に問い返した。
北島が続けて

「神奈川中央新聞もそれの専属のスタッフを充てて、対応しているそうです。前回の記事が好評で、反応がすごくあったためだそうです」
「次回の詳細はまだ分からないのか? さわりだけでも?」
「まだ調査段階でどのような内容になるのかが未定だそうですが、何か?
宮ケ瀬の行政関係も絡んでいるそうです。DMOとか?で」

「なんだそのDMOって言うのは? YMOなら知っているぞ」
「ディストナーション・マネージメント・オーガナイゼーション、略してDMOです」
「だからさ~ そのDMOってやつは何なんだ!」
小野田は、少し馬鹿にされたと思い、声が大きくなった。北島はいつものことだと思い、慌てずに・・・・・・
「平たく言うと、地域起こしを市町村の垣根を取っ払ってみんなでやろう!!と言う
組織のようです。観光事業、特産物の開発など・・・・・・県が音頭を取っているようです」
「これ自体も、上手く潜り込めば面白いですよ。小野田興業の名前ではNGですが」
小野田が少しイラついて
「とにかく、そのDMOと例の軍資金との関係は何なんだ? 早く要点を云え!」
「その宮ケ瀬湖周辺の資源開発や観光事業の企画に神奈川中央新聞も協力するそうで、そう言うことは、例の御用金探しを調査している団体も一緒に取り組むと言うことです」
「ちょっと話が見えないな? どういうことなんだ?俺、 頭が良くてよく分からん!」
「もっと簡単に説明しますと、宮ケ瀬湖周辺をその団体が調査します・・・・・・その時、古いお寺や神社も調べます・・・・・・昔の資料を集めます・・・・・・その調べた資料を基に新しい企画を作ります・・・・・・、例えば・・・・・・
「宮ケ瀬周辺の寺社めぐり・御朱印集め」「昭和レトロの愛川の町並みを歩こう!」「周辺地区の温泉と協力して観光開発、とかが新しい観光の一環になるかも・・・・・・」
「以前は、龍の宮彫りを調べている団体が、偶然に幕末の御用金の話を拾い、それば自分たちのやっている調査と重なった訳ですよ。それをここら辺でもやろう!!となったわけですよ」
小野田、上を向いて唸り、つぶやく。
「だんだん分かってきた。新聞屋も行政もうまく立ち回れば全員がウィンウィンとなる訳だ。行政の金を使って・・・・・・ NPOのような欲のない団体を使ってだな」
「そこに俺たちが入って、漁夫の利を得る訳だ。俺たちだけがウィンになる訳だ」
「その通り!! ちょっとだけ漏らしてくれまして、今年、宮ケ瀬湖の水位がこの干ばつで下がって、湖に沈んでいた村が見えるようになったそうです。その中に村の鎮守の神社が顔を出したそうです。そこにはなんか言い伝えがあり、まだ詳しくは分かりませんが、その神社に秘密があるようなことを言ってました」
小野田が少し顔を北島に向けて
「北島、お前、本当に使い物になるな。感心したよ。この短い間によく情報を集めたな。感心、感心、その調子で頼む、人手は足りているか? 誰かをつけようか?」
北島が慌てて訂正した。

「いや、大丈夫です。本格的に動き始めたらその時はお願いします。」
「小野田さん、宮ケ瀬湖の周辺の村の長老たちをご存知ですよね。親父さんはご存じなんじゃないですかね?そこら辺からその沈んだ神社の情報など、探れないでしょうか?」
小野田は少し考えて、「確かにそうだな、例祭で顔つなぎは出来ているし、よし、聞いてみる。」
「よろしくお願いします」
周辺の寺社の祭りを仕切っていた先代の話を聞いて、ちょっと村の長老に顔出しをしようと考えた。
              ≪龍≫
 
それから2~3週間後から、恵みの雨が降り始めた。干上がっていた湖も徐々に水嵩を増してきた。しかしまだ普段より少ないが、湖面に少し顔が出ていた赤い鳥居が水面下になった。梅雨入りにはまだ少し早いその合間を利用して、神宮寺たちは、その時期に調査を開始した。
早めに動くのは、圓●が持ってきた資料内容を実際に調査し、確認し、その後の計画に反映させる必要があったからだ。圓●の祖父が探し出してくれた昔の資料には、数多くの手掛かりが残されていた。その手がかりの謎解きには、実際にその場を調査しなければと全員の一致した意見だった。

その二週間前・・・・・・
圓●たちから連絡が入り、打ち合わせをすることになった。今回は神奈川中央新聞の青木さんも参加した。
圓●の祖父からの資料を皆に配り、そして圓●祖父の思い出した説明があった。参加したみんなが圓の話に耳を傾けた。
静かに資料を読み始め、会話が少しの間途絶えた。最初に声を発したのは
神宮寺先生。

「まずは整理しましょうか。多分風人くんからの補足説明があると思いますが、やはり今までの私たちの調査から導き出した情報と条件をここの地区に当てはめる必要があります。
それに加えて圓●さんが持って来ていただいた資料(宮ケ瀬の九龍)を加味して考える
要があると思います。「言い伝え」ですが、おろそかにすることは出来ません。まずは復習になりますが・・・・・・、
風人くんが整理した内容を皆さんの中で共有し、そして、新しい情報をそれに加えてから、これからの調査方針を決めましょう」
風人が今までの調査した内容、場所、条件を説明した。そして前回、宮ケ瀬に行った際に、風人なりに感じたことを伝えた。神宮寺も前回宮ケ瀬に行った時の印象を話した。
「とにかく大変興味深い解釈と言うのか推理というのか、圓●さんのおじいさんの意見?
推理?を一つの基に、一つづつ整理しながら、意見交換をしましょう。まずは厚木市「飯山(いいやま)の白(はく)龍(りゅう)伝説(でんせつ)」ですが、私も何回か調査に行きました。飯山観音(いいやまかんのん)/長谷寺(ちょうこくじ)の裏にある白山の頂上には龍が棲むという白山池がありまして、日照りが続いた時、村人がこの池の水を龍を呼び出すために掻い出し、龍が慌てて姿を現し、そのお蔭で三日三晩雨が降り注ぎ、
その年は豊作だったとのことです。今でも決して涸れることのない池だそうです。この龍を祀ったのが相模川の支流の小鮎川沿いの龍蔵神社(りゅうぞうじゃ)です。この話は飯山の七不思議として、今も語り継がれています。条件的には、龍、神社、その神社には龍の彫り物がある。川のそばにある。
唯一、龍の彫り物に銘がないのといつの時代の作品だか分からない。まずこれが一つ。
次に「清川村(きよかわむら)の青龍せいりゅうりゅう)伝説」。これも雨乞いの言い伝えですが、中津川の支流の湯出川(谷太郎川とも言う)の天王前の渕に龍が棲んでおり、雨乞いの時に呼び出されたと言われています。ここも川があり、龍の彫り物は川のそばに正住寺に彫物があります。彫り物はありますが昭和の作品で彫り師は高橋練の作品です。この彫り師はまだ詳しくは調査してみなければわかりません。次に愛川町にある「塩川(しおかわ)の瀧伝説」ですが、ここの滝の上流にある穴?淵(水脈)、江の島ケ淵と呼ばれとおり、江の島と繋がっており、江の島の弁天様と龍(五頭龍)が現れると言われています。龍、水、近くに塩川神社があります。しかし、まだ未調査です。
次に愛川町の「ハ菅山(はすげやま)のハ菅神社の龍伝説」です。ここハ菅山は山の形が龍に似ていると言われ「蛇形山」とも呼ばれていて、神仏混交の信仰の地で、修験者の山として知られております。ここのハ菅神社には龍にまつわる場所が存在します。龍神の眼を司る「右眼池」「左眼池」、それと龍の「鼻池」「口池」「舌畑」などの名前が残っています。この山の中腹にある覚養院の洞窟も江の島の洞窟に繋がっていると言われています。ここも未調査です。最後に皆さんがご存じだと思います「江の島の五頭龍(ごづりゅう)伝説」です。昔から鎌倉に五つの頭を持った龍がいたそうで、悪さばかりして村人を苦しめていました。ある時突然に海が隆起して江の島が出来、天から天女が舞い降りてきた話が江の島誕生の話です。その五頭龍が天女に恋をしましたが、素行の悪いため断わられた。そこで改心し善行を繰り返し、天女が結婚を許し、幸せになったという伝説です。かなり省略し飛ばしましたが・・・・・・たしかこんな話だったと思います。」
「江の島にはご存じのように江島神社があり、辺津宮に龍の彫り物があります。川ではありませんが、海があります また洞窟があり、龍神が祀られています」
「圓●さんのおじいさんの推理だと、江の島の五頭龍+愛川町・清川村・厚木市の龍を加えると「宮ケ瀬九龍」となるということです。それが何らかの形で幕府の御用金を隠した場所を暗示しているかも知れない?と言うことですね」
青木さんが「と言うことはかなり離れた江の島の龍(五頭龍)を含めて九龍ということですね。新しい解釈と推理ですね。それを繋ぐのは水脈と洞窟ですか・・・・・・」「本当に面白い!!」「じつに面白い」
青木は何回もうなずいて、自分自身が納得している。
神宮寺の話は続いた。
「半原のこの地区が海に繋がっている証拠として、地名で残っているそうです。それが半原の海の底書いて海底(おぞこ)と読む地区です。昔、ここが海だったと言われています」
「そのほか、愛川町には弁天社と弁天淵があり、そこも江の島の洞窟と繋がっていると云われています」

「それからこの海底地区では、源頼朝の旗挙げの際に協力した人々の末裔がこのハ菅山修験者と言われており、その理由で鎌倉との縁が深かったようです。」
先生は少し間を置き、話始めた。
「ここに一つ重要な要素が加わります。今お話ししましたハ菅山修験者です。頼朝が戦に敗れ、その逃避行を助けたのが箱根権現の修験者、北条政子を匿って守ったのが伊豆山権現の修験者、頼朝旗挙げを手伝ったのが安房(千葉)の修験者です。別の説では、頼朝は山伝いに逃れて、半原に逃げ込み、中津川・相模川を経て、海から安房へ逃れたと言う伝説が残っています。これは関東修験者の強い絆に依るものだそうです。頼朝は幕府成立後、これらの修験者集団と関わりが深い寺社を手厚く扱いその功績に報いたそうです」
「箱根神社、大山不動、日向薬師、ハ菅山のハ菅神社などがそうです」
「家康が頼朝を尊敬していたことはよく御存じだと思います。江戸に幕府を置く時も頼朝の鎌倉幕府を参考にしたほどです」
「私が思うには、半原大工だけではこの計画は実現出来なかったのではないかと思います。このハ菅山修験者をはじめとして、大山不動、日向薬師、箱根権現の山岳信仰の修験者うぃ含む関東一円の山伏(修験者)の協力があってはじめて実行出来たのではないかと想像しています」
 
「ハ菅山の修験者が絡んで来て、頼朝まで出てくるとは・・・・・・」
青木さんは、一人で勝手に唸っている。
「これからどう推理を膨らませるかで、これはかなりの内容になりますよ」
青木は、すでに新聞の記事の構成まで考えている
風人が先生に・・・・・・
「先生! 今話をしていました未調査の箇所をまずは調査ということですね?」神宮寺は、手元の資料を確認しながら、
「そう、まずは今回の推理といいますか、解釈で調査をして、机上に並べて、整理して次へ移りましょう」
「圓●さん、今後もおじい様の助言が欲しいので、次回の調査後、資料をまとめますので、お渡ししていただけますか? 今手元にある資料以外に私の中で疑問となっているのは湖に沈んでいる熊野神社の存在意義とまだ何か
不足している気がしています。」

「私たちは宮ケ瀬を囲んでいる太平洋側しか考慮していません、甲州街道の走る宮ケ瀬湖の北側はどうでしょうか? 数々のの疑問が残っています。
まあ、これから少しづつでも調査して分かればいいのですが・・・・・・」

神宮寺の考えの中には、新しい解釈が芽生え始めている。
 
             ≪龍≫
 
小野田、厚木の飯山地区にいる長老を訪ねる。
「中村さん、大変ご無沙汰しております。厚木の小野田です。おくつろぎのところ申し訳ありません」
自宅の縁側に足を出して、お茶を飲んでいる中村氏に挨拶する。
「おう、小野田さん、もう例祭の打ち合わせ ?」
「いえいえ、今日はお知恵をお借りしに来ました。ちょっといいですか ?」
「毎日暇だよ、お茶でも飲んでいって」と言って奥に声をかける。
「秋の例祭の件は、またお邪魔しますので、その時はよろしくお願いします」
「今日お邪魔したのは別件で、今、宮ケ瀬湖に沈んでいる熊野神社の件です」
中村は突然の質問内容ににも慌てることも無く・・・・・・

「あれは建て直して、湖畔に新しくなっているよな~~2000年ごろだったかな~」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「当たり前だよ。どこに建てるかで揉めてね。厚木市か清川村、愛川町かで・・・・まあ、金は国か県が出すので金銭的な問題ではないが、その後の行事などをどこが仕切るかで揉めたのをよう覚えているよ。で、その沈んでいる熊野神社が、どうしたんだ?」
「ちょっと小耳に挟んだ話がありまして、今、調べているところなんです。確か・・・・・・
何も壊さずにそのまま湖に沈めたんですよね? そうお聞きしました」
「私もそう聞いているよ。直接関係していたわけではないんだが。あれは今、鳥屋(とや)地区、相模原市の青山神社の宮司さんが兼務してたんじゃないかな?そこの惣代あたりに聞けばもっと詳しいことが分かると思うよ。
今の惣代はだれだか知らないが、宮司に聞けば分かるよ」

中村さんは立ち上がって少し奥に入って、手帳を取り出し、住所を調べる。手帳を見ながら上目使いで・・・・・
「小野田さん、何かよからぬことを企んでいるんじゃないの ?」
「中村さん、そんなことはありませんよ。もっと文化的な事業の件で調べているんですよ」
「小野田さんにはその文化的と言う言葉が一番似合わないな~~いちばん・一番」
「よしてくださいよ。冗談は」 頭を掻く小野田。
中村さんに青山神社の惣代を教えてもらい、お礼を言って、その足で、津久井湖の中野神社へ向かった。
小野田は車を運転しながら車内で独り言・・・・・・
「相変わらず食えねえ爺さんだ。俺も読まれているようじゃだめだな。まあ普段の行いを見てたら誰もがそう云うよな」
相模原の青山神社も津久井の中野(※)神社が兼務しており、不在となっている。宮司がいない神社が多くなり、3つや4つの兼務は当たり前になっているのが今日だ。携帯で連絡を入れてあるので在宅は確認してあるが、その先の惣代まで今日、たどり着けるかどうか・・・・・・
「中野神社の宮司は若いから知らないだろうし、旧熊野神社の資料は持ってなさそうだ。
やはり爺様連中に聞かないと分からないか」
中野神社で惣代の住所は分かったが、電話をかけても通じない。
仕方なく今日は、惣代の家の場所を確認して本厚木に戻った。
小野田はその日訪れた神社、青山神社、中野神社が甲州街道側の守りには
大切な要所だとはまだ気づいていない。その後訪れることとなる宮ケ瀬湖近くの鳥屋(とや)の諏訪神社、ここも重要な意味を持つ場所となることを誰もまだ知らない。

 
梅雨入り前の貴重な晴れ間を利用して、神宮寺先生たちは神奈川中央新聞の車で宮ケ瀬湖周辺の調査に出かけた。神奈川中央新聞がマイクロバズを手配してくれたお蔭で車内で打ち合わせが出来る。地図と今日調査をするルートを見ながら・・・・・・神宮寺が
「まずは厚木市からですので、飯山の龍蔵寺(りゅうぞうじ)と白山へ、その先にハ菅山のハ菅神社(はすげじんじゃ)がありますので、そこに立ち寄ります。そのあと清川村煤ヶ谷へ向かい、その後愛川町の半原大工の寺社の建物の調査へ行きたいと思っております。龍福寺(りゅうふくじ)、勝楽寺(しょうらくじ)、半原神社(はんばらじんじゃ)などです。
愛川町に入りましたら「塩川の瀧」へと、もう一つ追加で愛川町の角田(すみだ)八幡宮にも寄りたいと思っています。後からの情報で、この角田(すみだ)八幡宮の裏手の洞窟も江の島に繋がっているとの言い伝えがあるそうです。今日、全部回るのはちょっと無理かもしれませんが、
出来るだけ頑張りましょう!!」
「何回か調査した寺社もありますが、視点を変えればいままで見えなかったことや物のがあると信じて・・・・・・
言い伝えの場所が数か所あるのが、今まで全く調査していないので、少し期待がある。
今日、調査すれば違った角度からの解釈が見えるような気がする。期待しよう。
~歴史に今の自分たちの努力が試されているような気がしている~
~の謎を解いて見ろと・・・・・・

もし、この中に江戸幕府が密かに隠した軍備、軍資金などがあるとしたなら、それはそれでその時代の背景を考えると、とてつもないことに挑戦しているように思えてきた。
決してそれを暴こうとする訳ではないが、歴史に埋もれていた真実を少しだけ垣間見たいと思っただけだ。この山里、宮ケ瀬周辺に歴史を動かすようなものが今でもあるのか・・・・・・静かに後の世の人に引き継いだ方が・・・・・・しかし、それは無理なようだ。
これに気付いたのは、私たちだけではないような気がする。せめて自分たちが解明して、静かにそのままにして後世に託したいと考えた。
 
宮ケ瀬周辺の調査はやはり一日では終わらず、もう一日費やすこととなった。一か所の調べがかなり時間がかかり、特に飯山観音/長谷寺裏の白山に
登るのに時間を費やした。また、言い伝えの場所が見つからず、右往左往して挙句の果てに、それまであった道が草木に阻まれて見つからず行けなかった。とにかく調査は終了し、帰りの車の中で、その調査を踏まえて、次回の打ち合わせは神奈川中央新聞の会議室でと決まった。

 
 
神宮寺先生、この二~三週間、風人にも連絡を取らず、先日調査した宮ケ瀬周辺の撮った写真を眺めたり、集めた資料を掘り返し、地図を見ながら過ごした。そんな様子を感じている仲間たちは、静かに見守っている。
この歳になって真剣に悩んでは、手直し、また資料を掘り返しを繰り返し葛藤している自分、その自分を背中から応援している自分がいる。「頑張れよ!!」と。
まあいいじゃないか、この歳でもおもちゃを与えられた子供のように、それなりに楽しんでいるからと自分を納得させている。
何故、ここにしたのか? なぜここが良かったのか? その時代の流れを想像しながらの毎日。時々、一人で本厚木からバスに乗り、相模川沿いやその支流の中津川を歩き、その近辺の寺社を訪ねた。
疑問の「なぜここにしなければならなかったのか? の疑問の一部がこの里山歩きで閃いた。大山を中心として枝葉のように分かれてる矢倉沢往還、鎌倉街道など、その当時もあった街道・・・・・・矢倉沢往還の一つ、八王子街道は相模川に沿っているが、やはり、物資を運ぶのには水路が絶対に必要だったのだ。海側の防衛のためにも。
すこし視点を変えてみよう。今までは西の陸地からの攻めのための防衛線としてこの宮ケ瀬周辺を考えていたが、相模川を下ると相模湾、江の島は目の前だ。今までは江戸防衛線は三浦半島からだと考えていたのだが・・・・・江の島はどうか? ここでいち早く敵の襲来を気づくことが最善作と考えたかも知れない。江ノ島にすぐに軍備や物資を運び入れるための水路としての役割が相模川にあったのではないか? しかし、宮ケ瀬周辺から物資を運ぶのでは日数がかかりすぎるのではないか。どのくらいかかるものなのか?
少なくとも大山街道、理想的には東海道との追分(おいわけ)(分岐点)から相模湾までの間には拠点が欲しい。

それで半原大工集団の必要性が明確になる。
現在の茅ケ崎市、平塚市に半原大工の手がけた寺社ないかどうかを探した。
あった!!!
平塚市の八雲神社(やくもじんじゃ)、茅ケ崎市の第六天神社(だいろくてんじんしゃ)、八王子神社(はちおうじじんじゃ)など多くの寺社を半原宮大工の矢内家が手がけている。探せばもっと出てくるはずだ。
鎌倉時代以前からお寺や寺社は、有事の際の砦として重要な役目を帯びて作られている。軍備、食料などを蓄えて備えている拠点としての役割だ。
ならなぜ? 「宮ケ瀬の九龍」と言う言い伝えが残ったのか? 疑問が湧いてくる。
数多くの龍にまつわる言い伝え、昔話、伝説が今でも残っているのだろう?
地下水脈が江の島まで繋がっている? 洞窟が江の島の洞窟まで続いている?など、前回訪ねた「塩川瀧の渕」「湯出川(谷太郎川)の淵」「角田八幡宮の洞窟」「ハ菅山の洞窟」はそれなりに伝説化した意味があったが、
それぞれが「宮ケ瀬の九龍」の幕府の備蓄に結びつくとは考えにくい。

神宮寺は神奈川県の地図を壁に貼り、全体を眺めた。
もし自分が江戸幕府の軍師、参謀?だったらどう守るかを考えた。軍備の継続的補給、迅速な物資補給・・・・・・これらは江の島が防衛の拠点だと考えた時だ。推測だが、多分そうだ。江の島自体は、それほど大きくなく、
軍備を蓄えて置く場所も無いし、人を多く派遣出来ない。やはり継続出来る補給路と備蓄場所が必要だ。一人で考えるのは限界だ。皆の知恵を借りよう。

時間は沢山ある。焦らず頭を冷やし、整理して、また考えようと一旦区切りをつけ、長くいた事務所を出た。
 
伊勢原市の神奈川中央新聞での打ち合わせの日が来た。
今日は、望月さんも参加。圓●たちの三人も都合を合わせて参加、神奈川中央新聞からは、青木さんとデスク、連絡担当の田中さんも参加してくれた。総勢9名。
事前にデスクには概略だけ伝えてあるので、神奈川中央新聞としての協力体制は出来上がっている。青木が口火を切り
「神宮寺先生、前回の調査からもっと膨らみましたね。読者の期待もあり、推理もあり、こんな一般的な言葉の面白いでは、表現できません。読者一人一人が歴史の目撃者、発見者になる可能性がある・・・・・・そんな展開になってきました」
「私としましたら、華々しく歴史に登場した人物や出来事とは異なり、その陰で活躍していた人物や事柄に陽を当てる、これこそ我々の仕事です」
と青木さんは開口一番熱く語った。

「地道にコツコツと調査し、掘り下げていくと歴史の重みを感じますね」
おもむろに神宮寺先生が、カバンから資料を取り出し・・・・・・
「時間的に皆さん全部に行きわたるコピーは取れませんでした。先ほどまでまとめていまして・・・・・・」
早速、田中さんがそれを受け取りコピーを取りに行った。
その合間に風人が・・・・・・・
「先生、だいぶ熱心に調べ物をしていましたね。声もかけづらかったですよ」
「風人くん、悪かったね。あまりにも資料が多かったので、私なりの意見がなかなかまとまりませんでした。宮ケ瀬の調査の資料はすでに皆で共有されていますよね」
「望月さんは仕事でしたので、理解できるようにしっかりと読んでください」
神宮寺は改まって皆を見渡し、話始めた。
「ここにいらっしゃる圓●さんのおじいさんから貴重な資料をお借りしたり、助言もいただきました。今回の発端は宮ケ瀬ダムに沈んでいた神社、旧熊野神社から始まります。まだ旧熊野神社、すでに新しく再建されておりますので、旧熊野神社と言っております。
その旧熊野神社にまつわる言い伝えにより、社殿もそうですがの、向拝の龍がそのまま湖の中に沈んでおり、先日来の干ばつで見るに至ったのです。この旧熊野神社が例の江戸幕府の軍備や資金に関係するのではないかとのことです。当時を知る方にお聞きしましたが、それ以上のことはお聞きすることが出来ませんでした。それに纏わる書き物とか資料とかは、発見出来ませんでした。
その宮ケ瀬周辺の調査の後、私なりに少しの間、色々な角度から調査し検討しました。
今日はそれに対する皆さんに意見を伺えればと思っています。私自身、単なる一介の一般人ですので、学者のような者でもありません。その点、気楽に聞いて、意見を言ってください。そこからまた新しい展開が見えて来るかも知れません」
「では、お話ししたいと思います。当初はこの宮ケ瀬周辺だけにその痕跡(江戸幕府の軍資金など)を探そうと努力していたと思います。それで寺社の宮彫りの龍を探し、その作者を手掛かりにと思っていました。また、宮ケ瀬周辺に残っている龍の言い伝えある場所とかも考えました。しかし、
もし、もしもここ宮ケ瀬だけに幕府の軍備、御用金を隠したとすると多少無理があることが分かりました。ここで「なぜ?」が出てきます。

ここ山里から有事の時、とっさに対応が出来ないと思います。輸送するとしたら矢倉沢往還も東海道にも運ぶのに時間がかかります。
私は事務所の壁に神奈川県の地図を貼って、眺めていました。
ただ単に街道を守るための軍備を備えていたのかどうか?と考えた時、ふと閃いたのは水路、相模川です。皆さんの手元の資料にも地図を添付してありますので、見ながら聞いてください。
相模川から上がると海老名市で七沢からの「玉川」と「恩曽川」に別れます。その少上流の厚木から「(※)小鮎川」と「(※)中津川」に、小鮎川のその先から分かれ「萩野川」となります。
主流の相模川に沿った中津川は宮ケ瀬湖に繋がる。小鮎川は清川村の煤ケ谷から「谷太郎川(湯出川)」に分かれる。その先に、「(※)法論堂川」と「(※)柿ノ木平川」となり、宮ケ瀬湖に繋がっています。中津川は半原で「塩川の滝」に繋がる「(※)南沢」から名前が変わる
「滝沢」をはじめ「(※)深沢」、「(※)番田沢」、「(※)宮沢川」、「(※)寺小沢」などが枝分かれして、宮ケ瀬湖へと続きます。
この宮ケ瀬湖から相模川沿いの「九つの川」、もしくは沢・淵・・・・・・
途中から七沢方面に別れる玉川と恩曾川と海老名から分かれる貫抜川、厚木から分かれる萩野川などは除くとすると・・・・・
そこに見えてくるのは・・・・・・川を龍に例えて、相模湾から相模川を遡上し宮ケ瀬に流れ込む川、沢、淵が、西からの攻めを迎え撃つ「九つの頭を持つ龍―九頭龍」に見える。これが一つの「宮ケ瀬九龍」の解釈なのかも知れないと思いました。
相模川の支流、沢、淵には龍にまつわる昔話、伝説が残っている。それも
江の島につながっているとされる洞窟や淵、風穴があるとされています。

私は、ここは相模川を利用し、単に街道から攻めに対しても守りだけでなく、相模湾、江の島への物資の補給路だと考えました。江ノ島は三浦半島から江戸湾に向かう船を見張る役目もあったと思います。しかし、いかに何でも宮ケ瀬から江の島まで距離があり、有事の時に間に合いません。そのための半原大工集団存在が浮かび上がります。
相模川沿いには今でも半原大工の建てた寺社が数多く存在します。ご存じの通り、昔からお寺、神社は戦の時の守りの砦としており、色々な物、軍備などを備蓄するためも兼ねていました。手元の資料にありますように、相模湾に近い相模川沿いの平塚市、茅ケ崎市に半原大工の矢内家が建てた寺社があります。
私は一日もかからずに江の島まで到着するにはと考えますと、宮ケ瀬方面への街道と東海道との追分(分かれ道)から相模湾までの神社仏閣がそれではないかと考えています。」
皆は手元の資料でそれらの寺社の名前を確認した。
一息で話したせいで喉が渇き、神宮寺はお茶を一気に半分ほど飲んだ。
圓●と目があった。
「先生、この話ですが、物資は少しづつ事前に宮ケ瀬から相模湾近くの寺社に持ち込まれたと言うことですね」
「多分、寺社の修繕、建立などの名目で、材料を運ぶ中に紛れさせて運んだのではないかと想像してみました。」
「また当時は大砲は鉄製ですが、その運搬、移動のための台車は木製です。そのような物を作るのは大工、宮大工にとって容易かったと思います。」
風人が「一番大切な話ですが、江戸幕府から依頼を受けた半原宮大工集団ですが、その御用金を一か所に隠したのですか? たとえば、湖に沈んでいる熊野神社にとか・・・・・・」
「まだ分かりません。まだそこまでの推理は出来ていませんが、私は危険回避もありますので、分けて隠したのではないかと思っています。例の昔話や言い伝えの場所に分散して」
「龍が出て来るので、怖くて近づかないなど、また、沢、淵はかなり奥まったところで普段はあまり人は近づかないなどの理由です」
「その分散した隠し場所を記した書き物が、旧熊野神社の向拝の龍に・・・・・・話が出来過ぎですね」神宮寺は自嘲気味にちょっと照れている。
神奈川中央新聞のデスクが、少し興奮気味に神宮寺に向かって・・・・・・
「話が壮大になってきましたね。読み物としたら大変面白いですし、ここ
神奈川の話ですので、宮ケ瀬の地元だけでなく神奈川全体を巻き込むことが出来る話ですね」

青木さんが、「当初、この幕末の御用金が隠されてると言う荒唐無稽な話でしたが、それだけでなく寺社の宮彫りの龍を訪ねる、龍の昔話の残っている場所を訪れるなどに大きく展開しそうですね。江の島まで洞窟が繋がっているなんて・・・・・・だれが考えたんですかね? 非常に面白い」
 望月さんが、富士山のふもとの風穴に行った時の話をした。
「昔からの話しで、富士山の風穴が江の島の岩屋の洞窟と繋がっていると、地元の人も観光客も信じているのか、ロマンを追いかけているのか分かりませんが、誰でも知っていて、楽しんでいるみたい! 愛川町、清川村?の洞窟、淵など、もっとPRすればいいのに」
「今回の宮ケ瀬の特集は新しい観光資源に発展しそうです。これは私の個人的な意見ですので聞いてください。 圓●さんたちが代々守ってきたものは、私はそれはそのまま触れないでいいと思っています。これの発見によっていろいろな醜いことが起きるかも知れませんし、歴史ロマンとして、富士山の風穴のように語り継がれてほしいです」
圓●と四■はお互いを見て、少し悩みながら・・・・・・
「私たちの代で、偶然にも世の中に出てきてしまい、戸惑っているのも事実です。本当にあるのか・・・・・・既に無くなっているのかも分からない。まだ何も考えられません」
「でも一つだけ言えます。私たちはこれを守るのは、自分たちのさだめだと思っています。多分、このままず~と、そっと見守りたいと思っています」
 菱◆は・・・・・・うなずいて
「とにかく俺も親父からずっと言われてきた。理屈じゃないんだなあ。これは」
彼らの心中は彼らしか分からない、親の代からそのまた前の代から受け継がれ、語り継がれ、守られてきたさだめ、静かに見守るしかない。
今までもそうだが、これからも決して彼らは陽の当たる場所での行動はない。人知れず静かに自分たちの仕事を全うするだけだ。
神宮寺先生は、デスクと青木さんにお願いする。
「私が今までデータを整理して出てきた一つの推理ですので、これからそれが正しいと言う裏付け調査と言うのか、この推論が間違っていたと言う結論に達するのかを、事実確認を積み重ねて行きたいと思います。第二弾として神奈川中央新聞さんはお考えだと思いますが、もうしばらく調査、特に相模川沿いの寺社の調査をやり、半原大工との関係を探りたいと考えています。最初は、江戸城に携わった名工の集団がここ宮ケ瀬の半原から出ていることを読者に知らせて欲しいです。なぜなら日本三大宮大工といわれている越後宮大工と飛騨宮大工はその地域の広い範囲での名称ですが、半原宮大工は
本当にその地域の一部のエリアを示しています。それだけでも珍しいことです」

「これから資料をもう一度見直しますが、名工の後藤利兵衛が江戸の後藤家に弟子入りし、江戸の技を地元千葉に持って帰りました。多分ここ宮ケ瀬でも同じように江戸で修業をし、こちらに戻り、寺社の彫刻にその技を残した彫り師がいたと思います。
すでに明治に入ってからですが、伊勢原の大山寺の建造に半原宮大工が携わった記録が残っていますが大棟梁は大山大工の手中明王太郎(てなかみょうおうたろう)、副棟梁に半原宮大工の矢内右兵衛高光(やうちうへいたかみつ)が加わっており、この地区の宮大工の技を結集し、一丸となっての事業となっています。その中に矢内家の一門であって、彫り師として「和田光親(光明)加わっております。また後藤流の流れをくむ「後藤敬信」や「東野冨田」も彫工として参加しています。ここまでの流れを特集したらいかがでしょうか?特に龍の彫り物を特集したらどうでしょうか?」
既に掲載予定を組んでいるので、延ばす訳にはいかないが、読者の知っている大山寺まで紹介すれば、江戸城→半原宮大工→大山寺まで繋げられると判断した。
その後、神宮寺たちは次回の調査、相模川の河口付近の平塚市、茅ケ崎市の寺社の調査をする日程を調整した。

                ≪龍≫

新宮ケ瀬熊野神社社殿内の龍

※冒頭の写真:新宮ケ瀬熊野神社社殿



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