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むずかしい本を、できるだけシンプルに本質的に要約してみる「悪循環と好循環」

私は、わからないことを知ることが面白いから、本を読む。
つまり、そもそも「わかってない」から本を読む。
読んでも9割ちんぷんかんぷんで、何を言ってるのかさっぱりわからない本もある。でも、そんな本でも私は不思議と最後まで読むことが多く「おもしろかった!」と思って終わることも多い。

全然読めていないにも関わらず、何かを知ることができる本が好き。
知りたい気持ちが勝つ。
そして、読めていないにもかかわらず、不思議と、何が書かれているのかはわかる。最後に「要するにこういうことなのね」と思えたら、私にとって最高で、わからなかったら「またいつか読もう」と思って本を閉じる。

でその、自分だけの「要するにこういうことなのね」を、生まれてはじめて、言葉で書いてみようと思った。ほら、自分がそう思ったとしても、作者からすると「解釈間違ってるじゃん」かもしれないので、そんな自分の言葉を外にさらしてはいけないと、これまではどこかで思い込んでいた。
でも昨日の夜、自分が心から好きなことって、突き詰めると読書と考えることしかないわ、と思い当たり、そのせいか、朝起きた時になぜか「要約してみよう」と思った。

子どもの頃から本が好きだったしそれなりに読んだけど、私の場合は「文字」が好きだったというべきか。
絵本のない家で、読み聞かせをしてもらった記憶はないし、カラフルな絵本にはそれほど馴染みがない。それよりも、無骨で無彩色の文字が並ぶ中に、どんな情報や世界が隠れているのか、ということの方に興味があった。
賢い子でもないので、たいして読めるわけでもないけれど「大草原の小さな家」はストーリーも好きだけど、あの本の厚みが何より好きだった。

ここからの話は、要約のため、ネタバレを含みます。

1、「悪循環と好循環」ここが難しい

「悪循環と好循環」は読むのがむずかしいと思う、そのひとつめの理由は

マルセルモースの「贈与論」と、レヴィ=ストロースの「野生の思考」という本があって、その2冊を知らないまま読むと、まず何を言ってるのかわからない事。

しかも「先にこの2冊読んできてね」なんてどこにも書いていない。いきなり「モースはこう論じていたが」のようなことが、さも当然の顔をして文中にガンガン出てくる。私はその2冊をたまたま読んでいたけど、こんな罠があるなんて聞いてない。あぶないあぶない。
しかもこの予習すべき2冊も、分野的には社会学、民俗学、文化人類学、みたいなところにある本なもんだから、興味がない人にとっては、まったくおもしろくないはず。

私は、知らないことを教えてくれるのが本だと思っているが、この本は「そこそこ知っている人に向けて書かれた本」という難しさがある。

そして、とにかく文章が難しい。

もし贈与の無償性、気前よさの中に、モースが示している「擬制、虚礼、社交的な戯言」しか認めないなら、原始的交換を取り巻いている儀礼的なものを、現代の礼儀にある「儀式性」の特に絵に描いたようなバージョンとみなす立場に導かれてしまう。(「悪循環と好循環」より引用)

日本語なのに、さっぱりわからない。

学者が書く文章は、基本的にむずかしい。
(それを翻訳する人もまた凄すぎて毎回驚く)
でも仕方がないのだ、むずかしいものは、むずかしいままで伝えないと、正しさが失われてしまうから。
学者とか研究者はやればやるほど中味が細かくなり、その細かさに忠実になる。本を書くときもそれは同じ。だからどうしても難しくなる。

もうひとつ。
わかってることと、本で説明することと、相手がわかるような表現で書くことは、別の技術なのだと思う。学者の多くは、相手がわかるように書くのは仕事じゃないから、むずかしい事を、むずかしいまま表現した言葉で書くから読み手には難しいのだ。たぶん。
だから、あまりにも長く続く複雑な文章が出現したり、一文の中で主語が2つ以上になったりして、迷子になりやすい本もある。
とうとう何を言っているか最後までわからない文章に出会った時は、仕方がないので飛ばす。

学生が勉強をする時、学校の先生よりユーチューバーの説明の方がわかりやすい事が多々あるのは、そういうことなんだろうなと思う。
教える側の、持っている役割が違うと思うんだ。

私もアホなので、本音はわかりやすく書いて欲しいに決まってる。
でもそれはそれで弱点もあって、わかりやすくするというのは庭を見て「あれらは植物です」って言っているのに近い。ほんとうは「あれは夏櫨(なつはぜ)で、こっちは檜葉(ヒバ)で、これは紫陽花(あじさい)だよ」だし、何が知りたいってやっぱりそっちが知りたいわけで。

結局、知りたいならそのまま読むしかない。それでもこんな本を私が読むのは「知りたい」が勝つからでもあり

私に関係ない話じゃなくて、人生において、とても大事な真実が書いてあるから、デス。実は、世の中にあるかんたんで手に取りやすい本にも同じようなことは書いてあるのだけど、むずかしい本じゃないといけない理由がそこにはあるのだ。

2、「悪循環と好循環」はこんな本

AさんがBさんを殺すとします。
そうするとBさんの身内Cさんが、Aさんに復讐します。
そうすると今度はAさんの身内DさんがCさんを殺します。

というように、例えば復讐は連鎖して、終わりがない。
これが「悪循環」

もうひとつ

誰かに何かしてもらったら、嬉しくて自分も誰かに何かしてあげたくなるという話がある。専門用語だと「返報性の法則」と呼ばれているもの。
これがどんどん連鎖していくのが「好循環」

世の中は、このどっちかの循環があちこちに存在しているし、小さな循環から大きな循環まで、たくさん複雑に絡み合っている。

で、悪循環と好循環があるなら、好循環を選ぶ方が全員幸せになるはずなのに、どうして人は悪循環を選んでしまうのか、なぜ社会は悪循環の方に進んでしまうのか?などの考察と

悪循環を好循環にするためには、秘訣があるぜ

というのが主な内容で、それがすごく難しく書いてある。
かんたんに言うと、そんな本。

3、好循環はこうやって生まれる

誰かに親切にしてもらったら、次に誰かに親切にしてあげたくなる、これが社会の好循環を生み出す小さなスタートになるのだけど、たとえば誰かがSNSで「かわいくて癒されるネコ」の投稿をしたら、それを見て癒された人が、今度は誰かを癒してあげたくなって、それを拡散する。
あっという間にネコが人気になって、癒される人が増えて、平和な世界ができる、のような感じ。

では、その最初の投稿をするのは誰だろう。

答えは「気前の良い人」である。
そんな人の無償の行動から好循環は始まる。
その人が持ってる知識とか、お金とか、時間とか、そういうものを見返りを期待せずにプレゼントすることで好循環は動き出し、受け取った人は他の誰かに優しくする。そんな人がたくさんいればいるだけ、世界は平和になっていくというメカニズムだ。

そしてこの著者は学者として、そういう事を深く研究して、その上で、正直者が馬鹿を見ることはないよ、ちゃんと報われるよ、と言っている。
これがとても信頼できる。

スピリチュアルの人が「愛と感謝を送れば自分に返ってきます」と言うことがあるが、言葉はたしかに同じことなんだけど「愛と感謝です」は「なんでそうなの?」という問いに、わかりやすく答えをくれた人がいないから、個人的には「そうなのか」くらいにしか思わない。
私はそれより、好循環の研究対象となった先住民が、部族を維持するためにしてきた「良いこと」がその好循環を生んで、何千年もその社会を維持している、という事実をもとにした学者の話の方が、やっぱりそうだよな、と身体ごと思う。

4、悪循環はこうやって生まれる

家事を分担している、一緒に住んでいるカップル。
「奇数の日の食器洗いは僕だ」「じゃあ明日は偶数の日ね」
公平なルールが決められる。
でもそれが守られない時もある。
「今日はあなたの番なのに、洗ってないじゃない」と、最初の指摘をすると「でも君だって先週は1日忘れていたじゃないか」と返ってきて「だってあの日は他のことで忙しかったから」とすかさず反論するも「僕だって忙しい日はある」そこで「そうかもしれないけどそもそもあなたは食器の洗い方が雑なのよ。この間も・・・」収拾がつかなくなっていく。

どちらかが最初にそのきっかけを作ったあと、
自分が正しいと主張したい、とか
わかってほしい、とかで
相手に何かを言いたくなる時は
つまり報いたくなるわけだけど、報いるというのは「相手が攻撃ならその攻撃に見合うだけ返す」ということだから、もちろん、受けた攻撃は攻撃で返すことになる。
そうすると向こうもまた、攻撃で返してくる。
お互いがお互いに反応している限り「攻撃で返す」をくり返す。

こんな風に、悪循環は生まれて継続する。

だから、これは、著者ではなく私の個人的な考えなのだけど、ほら、ルールって公平にするためについ決めるけど、どうしても守れない時もあるから。忘れてたとか体調が悪いとか、そんなつもりないのになぜかって時も。
で、そんなつもりがないのにその間違いを指摘されたら、やっぱり何か言ってやりたくなるのが人間だから、できるだけ、最初からルールなんて作らないのが良いんじゃないかなと思ってる。

しかし「食器洗いはやれる人がやればいい」だと、これまたどうしても、いつも同じ人がやる事になって結局不公平だみたいな話になる。
でも、そう、たぶんそれは不公平で良い。
不公平でいいやと思えるように、一緒にいるのがいい。

5、悪循環を好循環にするスイッチ

悪循環を好循環にチェンジするには、たとえばある部族同士の殺し合いの場合は、第三者が動物の生贄を持ってきて、それをその2つの部族の前で殺すことで、お互いに最後の復讐をしたということにして、手打ちにするのだそうだ。

復讐の代わりとなる儀式を通して、争いを終わらせるということ。

カップルの食器洗いの争いを終わらせるには、例えばこんな方法が本の中で提示されていた。どちらかが続けて2回、食器洗いをする。
見返りを期待することなく相手に与える、という、新しいスタートを、どちらかが切る。そうすると、受け取った方も心を開いて、自分にできる事をしようと思う。それが好循環の流れになる。

人間の行為がそのスイッチを持っているから、知恵を使うことで、関係をよくすることができる。ここに希望がある。

戦争も、経済格差の問題も、人間次第で、悪循環を好循環に変えられるはず。むずかしいけれど、可能性はゼロではないし、人間にしか解決できないと思う。

6、感想

200ページほどの本だけど、目で追うだけでは当然入ってこず、すべて音読しつつ、読めない漢字や意味のわからない語句を調べながらだったので、かなり時間をかけて読んだ。2週間くらいかかったかも。

淡々と書かれた考察の中で、たった一文だけ、著者による、きわめて人間的な言葉を見つけた。
結論でもなく、文中にいきなり現れた、生の言葉。
著者が世界の好循環を信じて「自分はこういうスタンスでいます」という純粋な気持ちと願いを知る事ができた。

感情を入れない客観的に書かれた本の中に、ほんの少しだけ、書き手の人間的な感情が見え隠れするのは、他に的確な表現がないからこう書くのだけど、実にエモかった。

ポルカてんちょ



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