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ミニマリズムは好きだが、必要な無駄は捨てられない


この記事は、約11000文字です。
ミニマリストやその世界観、考え方は好きだけど、とてもそのまま真似はできない、基本断捨離体質の私が考える、物質とは違う、人生に大事なミニマムな生き方とか、その辺の話。断捨離徒然。

こんにちは。
52歳、商売好き、独り身の熟女です。

私は普段、ミニマリストの、真っ白で、なーんにもない部屋と必要最小限の物で暮らす人の動画を見るのが好き。

ミニマリストの多くはこう考えているかもしれない。
必要なものはいつでも手軽に手に入るから、自分が所有するべきものなんて、そんなに多くはない。
物が少ない部屋は脳も整理されて新しいアイデアが入ってくる。
管理も楽で、経済的にも精神的にも良い。
そして人は自由に生きる権利があって、誰にも迷惑かけないなら何しても良いではないか。すっきりとして清潔も保ちやすく、見た目も心も気持ち良い部屋のどこにデメリットがあるのだろう。

ミニマリストでなくても、そう考える人も多いと思う。
特に今の若い人は、全体の傾向としては、一人に一つずつ物を与えられた世代で、夕飯のおかずを奪い合うとか、隣の席の子に借りる、という経験が少なくて、物やお金に対して執着が少ない傾向にあると思う。

私は、といえば、基本的には無駄が嫌いで、割とすぐに断捨離してしまう。昔から、嫌なことがあるとすぐに部屋の整理をして物を減らす癖があった。
もともと「必要でないものは、たとえ無害でも、残しておくのが嫌」という性分で、全く無害でなんの落ち度もない夫と離婚した理由も、突き詰めるとこれだった。

余談だけど、だから私は浮気ができないし、してこなかったし、何があってもしようとも思わない。A君とB君がいても、異性として必要なのは1人。
好きになったらその1人に全集中。その人がダメなら、そこをまず清算してから次に行く。
ちなみに浮気する人、不倫する人達については、特になんとも思わない。
そういう「複数、物事を抱えられる人」はそれはその人の特性だ。
終戦生まれの私の母はとにかく男性にモテたせいか、自由な性格のせいか、若い頃は7人と同時につき合い、私が学生の頃は、奥さんのいる人、それも2人と同時進行で付き合って、さらに他にも彼氏がいたりもした人で、もちろん娘としては大いに呆れた。なにその散らかし方。
親子だけど全然違う。

戻します。

そんなわけで、私は少ないもので工夫しながら、管理できる範囲内で暮らすのがデフォルトで、洋裁(道具や材料など、常にスタンバイしておかなくてはいけないものが多く場所を取る)を仕事にしていなければ、そしてもっと若ければ、究極のミニマリストを目指していたのではないかと思う。

でも今の私は、いくつかの、質量を伴う、私にとって削れないものがそれなりにあるから、ミニマリストとして突き抜けるのは難しい気がする。
そして、あまりにも極端なミニマリズムは、私の中では正しくないと思ってもいる。

ちなみに、アドバンテージを取れる洋裁の仕事とそれに付随するもの、全ての工業用ミシン、レアで価値のある大量の生地、二度と手に入らない副資材、こだわりの洋裁道具、完全に必要がなくなった日には、あっさり誰かに譲ってしまえると思う。
私は、洋裁にはお世話になっているけれど、執着はない。

1、料理のミニマリズム

私は基本的には、ミニマリストの世界が好き。
特に独身男性のミニマリストに見られる、極限までそぎ落とされたスタイルの生活を見るのは好きで、動画などを視聴する事が多い。一貫している世界は気持ち良い。

まず部屋には色が少ない。真っ白の人も多い。
大型家具が少なく、テレビがないことが多い。
でも洗濯乾燥機はある。衣類は大抵、真っ黒か真っ白の無地で、10枚以下の少ない枚数を洗濯しながら使うのが合理的。
冷蔵庫もないか、あってもごく小さいもの。
小さめデスクと椅子。ノートパソコン。
都心のシンプルなホテルっぽい感じの部屋が多い。
カーテンの代わりに目隠しシートを窓ガラスに貼り、壁にはプロジェクター投影。お洒落。

で、料理をしない人が多い。

料理かーーー。これ、これは削れないわ、私。
料理には道具も材料も保存する冷蔵庫も必要だから、ミニマムとは言えなさそうだけど、私からするとむしろ逆である。
自炊は最高のミニマムだと思うし、そのために多少の質量は経費の範疇だと思っているのです。
ちなみに私は料理好きでもないし、料理上手でもない。もちろんどうせ食べるなら普通に美味しく作るけれど、私のパートナーは、私に料理を求めない。
「まずいもの食べさせたことないのになぜ?」と聞くと「その通りなんですが、なんというかですね、姿勢、ですかね。」と返ってきた。

そんなこと、初めて言われたわ。

まあそんなわけで、決して料理に積極的でも前向きでもワクワクでもないものの、料理をしないミニマムよりも自炊の方がなぜミニマムか、書いてみようと思う。

まずは当然、コンビニや外食よりも経済的である。(出費に無駄がない)
そして必要な栄養を、計算して摂る事ができる。(栄養に無駄がない)
私のように50歳を超えるとですね、まず、食べる量がものすごく減るので、できたものを買ったり外食すると、適切な量と栄養に出会えない。

私、骨格ストレートで体の厚みが結構あり、要するにぽっちゃり体型ですが、もともと食べる量は少ない。見た目のせいで誰に言っても信じてもらえませんが、食べる量は少ないのです。(2度言う)
そして年齢とともに、さらに食が細くなってるんですよ。
(ええ、見た目は変わっていません)

で、その少ない量の中で効率良く栄養を摂るためには、余計なものを摂取するだけの、キャパの余裕がない。
良質なアミノ酸につながるタンパク質と、ミネラルと、ビタミン。
これが自炊なら効率良く摂取できるわけです。
量も調整できる。少しまとまった量を作って小分けに食べれば、次の料理をしなくても良いという、時間の節約にも繋がる。これがひとつめ。

ふたつめ、毎回買い物に行かなくて良い。
家から出るのが苦手で、近所のコンビニに行くのも億劫になる私は、とにかく買い物の頻度を下げたい。自炊はそれを可能にしてくれる。
作る時間があるかもしれないけれど、ご飯と一品、かんたんな副菜なら、30分もあればできるので、コンビニ往復するのと変わらない。

そしてみっつめ。
これは、私ではなく息子の話になるのですが。

私は、めんどくさがりなので、息子に料理を一切教えなかった。
でも高校3年生の後半、進路も決まり授業も少なくなり、時間に余裕のある彼は急に1人で料理をし始めた。理由を聞くと「誰かに何かしてもらった時に、お金がなくてもお礼をできるようになっておきたい。それで料理。」と言う。
たいして子どもに何かを教えた記憶がない私の子育ての中で、向こうからこんな言葉が出る時、親は心底びっくりする。
どこでこんなことを覚えたんだろう。親は時々、我が子のそんな態度に遭遇するし、子育ての不思議を体感する。子どもって親が育ててるんじゃないよな、といつも思う。
世間様、ありがとう。

彼は高校を卒業して、専門学校進学のため大阪に。一人暮らしでさらに料理を覚えて、同級生などにたくさん振る舞ったそうだ。
お金がない時には節約料理を頑張ったりもして、料理は、生活レベルの調整にも役立つことを彼は知った。
友人とのキャンプなどでも、料理ができれば役に立てる。
料理は合理的で、活用範囲が広い。

決して料理でなくても良いけれど、お金じゃないお礼ができるとか、何かの役に立てるというのは便利で使えるし、自分がその場に安心していられるという強みにもなる。そして料理で友達が増えたらお得じゃないか。
何かができる人を敵に回す人も少ないしね。

洋裁にも似たような側面はあって、何か作ってと頼まれることがあるとそれは煩わしい場合もあるけれど、自分に「買う」以外の贈り物の手段を持たせてくれる。縫い物をする人が減ったこともあり、洋裁ができると一目置かれることが多い。
ちょっとしたお礼にポーチ、もっときちんとしたお礼にバッグ、リクエストや好みに合わせて作ることもできる。お直しなどもできて重宝がられる。
人付き合いに便利で、減らないし、出し惜しみすることなく一生使えるもんだと思ってる。お得すぎる。

料理にはもうひとつ、時々、私ですら、釣りたての魚をおすそ分けしてもらうとか、近所の人に筍をもらうとか、あるわけです。
(私、見た目だけは料理好きに見えるらしいので)
まぁもらっても料理しないという選択もあるけれど、そこは無理がないならやれた方が経験としても楽しいわけで、くれた相手も気分が良いだろうとも思う。
いくら素敵なミニマリストでも、人との関わりを極端に削ったら、豊かな生活は遠ざかる可能性がある。自分の頭で考えたルールや価値観を厳守する生活は、自分の頭で考えた生活以上の経験が入ってこないのと同義になる。
それは、ちょっと、もったいないのではないかと。
他人を拒否しないための、冷蔵庫の所有と、料理。習慣にしなくても、いつでもできるくらいのスタンスとしての「無駄」はやっぱり個人的には削れないな。

職場でも、近所でも、特別距離を縮めなくても良いけど、ちょっとした関わりを薄く持っておくくらいの関係性は結構大事だと思う。他人との関わりをやめていくと、それは生物としては孤立していくんだ。
自分が獲物を獲れない時、仲間がいたら分けてもらえるけど、1人なら自分が獲れない時点で飢える。そういう潜在的なリスクや不安を、見えないけど抱えることになるから、いざという時の、非常時の依存先はあった方がいい。

人は1人じゃ生きていけない。
ミニマリストでも、社会や人は削れない。
社会は、他人と一緒に幸せになるようにできているんだ、秀逸だと思う。

2、書籍や新聞のミニマリズム

ミニマリストにとって、電子書籍はマスト。
私も、紙の手触りの方が良いとか、デジタルは読んだ気がしないとか思いながらも、こんなにコンパクトになるならと、何度か挑戦したのが電子書籍。
結果的に、私にはそれほど合わなかった、というか、合う本と合わない本があるということがわかった。

電子書籍に向いている、または、問題ないと思うのが、個人的には漫画、物語、あとはビジネス書。特に漫画は続きものが多くて冊数が増えやすく、紙だとかさばるから、電子書籍はめちゃめちゃ圧縮できて良いと思う。
電車の中など、ちょっとした時間に読みやすいし。

ちなみにちょっと逸れるけれど我々のような老眼組には、文字を大きくできる電子書籍はありがたい。そして文字を読み上げてくれるオーディブルに移行していく中高年も多い。目が疲れるから。

けれども私が読む本は、後ろにやたら引用があるものが多いので、電子書籍ではいちいちその引用の該当ページを開きづらい。右手でページを押さえながら左手で引用ページを開きたいのにそれができない。
電子書籍化されていない、古い本を購入することも多い。
読んだら人に貸すこともあるので、どうしても紙の書籍が中心になる。
ちなみに購入した本は、ほとんど売らないので増える一方。
ミニマリストになるには不利ですわ。

本を読んだ方が良いのか?という話はよくあるけれど、別に読まなくても生きていけるし、読むのが偉いとも思わないし、実際どれだけ読んでも別に賢くなるわけでもない。(実証済み)
私はただ、人生の面倒や遠回りを回避して楽に生きていきたくて、本はその答えをくれる。だから読むし、それが私にとって無駄が減ってミニマムだと思うだけの話。

かんたんに言えば私は、仕事で嫌なことがあったとか、変な人に出会って面倒だったとか、イライラしたり不安になったり、そういう文句の多い人生をやるのが心の底から無駄だと思っていて、それを避ける生き方をするがために本を読んでいるし、また、そういう本を選んでいる。
別に高尚で優雅で、意識高いことをしようとしているわけじゃない。私はそんなに賢くない。人生チートに生きたいだけの、究極のめんどくさがりなだけ。

で、これを多くの人にメリットがある表現にすると、本を読むと、自分で自分を守れるようになる。自分のことを肯定できて、好きになれる。人生を人のせいにしなくなる。自分を好きなら隣人も好きになれる。
自分にとって心地よい環世界を作ることができるんだ。
仕事場でも家でもどこにいても誰といても、同じように幸せだと思える。

ほんとです。

誰に対しても、しなやかな強さを持って、違うことを違うと、根拠を持って言えるようになる。自尊心を守ることは、人生で最も大事なことのひとつだと思う。

世の中にはたくさんの、モラハラやパワハラを受けている人がいる。
経済的DVなどを受けているのに、離婚したくてもできない人もいる。
加害者が一番駄目には違いないのだけど、自分の自尊心を傷つける理不尽な人が目の前に現れた時、冷静に賢く自分を守れるかどうかは

その人が、背景にどれだけ知識を蓄えているにかかっていると思う。

肉体的に危害を加えられるならそれは全力で走って逃げるべきだけど、モラハラやパワハラなどで攻撃する人は、自分が言い負かせそうな、弱い人を狙って攻撃してくる。
ただしそういう人は頭の回転が速いだけで、内容は筋が通らず矛盾していることが多いから、こちらに知識があれば「あ、こいつ変だ。」とわかるし、冷静に対策を打てる。押し切られる前に、洗脳される前に、そこから自らの力で逃げられる。
スーパーで出会う失礼な人とか、職場で悪口を言う人、そんな日常も、華麗に冷静にスルーできて、脳のリソースを減らさなくて済む。

世の中のことがわかると、すごく安心する。
たとえ答えがわからなくても、答えの導き方がわかるから、人生で、悩むことが少なくなる。
争う必要のない人と争わなくて良いし、滑らかな交渉力がつくので騙されにくくなる、目に見えない「暮らしやすさ」が手に入る。
面倒が少なくなって、生き方がミニマムになる。

そしてそのための知識を得るなら、漫画や物語やビジネス書より、社会(経済、歴史、地理、文化、人文、自然科学)について書かれている本を読むと良いと思う。電子書籍にもあるし、自分の身についたらもう体から離れないからこの先いつだって自分の味方になってくれる。

ところで、私は新聞も購読しているのだけどこれはこれで良い。

世の中の進むスピードはとても速くて、時事系は書籍では追いつけない。
特に世界情勢の今がわかるのが良いと思う。ミニマリストが身軽で、どこでも仕事をできるというポテンシャルがあるなら、世界のことも随時知っておきたい。

それに今、普通の人を狙った詐欺が横行している。
オレオレ詐欺や闇バイトが有名でだけどそれですら一部と言いますか、本当に普通にその辺にゴロゴロ、普通の顔して転がってる詐欺がある。
しかも「詐欺と言えないかもしれない」くらい微妙で巧妙な、でもお金は吸い上げられて自分には返ってこないなんていうのも普通にある。
よくこんなこと、考えつくなぁ、と思う。
普通に主婦をしている善良な人なら騙されてもおかしくないし、実際、他人に言えなくなっちゃってるだけで、被害にあったという人は少なくない可能性がある。というか被害者、私、何人かすでに知ってる。

とても身近な話がそこにあります。

で、みんなそれなりに警戒して騙されないように生活していると思うんだけど、詐欺をする人は詐欺のプロだから、出会ってしまったら100%騙されると思っておいたほうが良いから。相手は賢い。
だから個人も賢くなる必要があって、それこそ「社会が今、どうなっているのか」をまずは知る。それは「どういう詐欺が流行っているのか」ではなく、その背景である社会というのはこういう構造で、今はこういう状況だから、騙したい人はこういう行動をとり、普通の人はこういう行動をとるだろう、だからこういう形の詐欺が流行るのではないか、そのためにできることはこうだろうという類推が必要。

メルカリでも偽物、めちゃめちゃ販売されているし、普通の顔した普通の人が、普通に偽物を売ってるし。性善説がちょっと崩壊中かな。
よくもこんな世界になったもんだ。

そのあたりも、新聞と本を読んでいると、自ずと俯瞰で見えてくる。
私は専門学校卒業だけど、普通の勉強は高校までだし、全然勉強しなくていつも赤点との境界線にいて、600人強もいる学年でなんと後ろから6番目でしたが(ほほほ)そんな私でも、社会のことを知るのはそう難しくない。
社会っていうのは構造があって、パターンがある。
歴史は繰り返すと言うけれど、それも同じ。
第二次世界大戦のドイツと、今のアメリカと、少し前の大阪は、似たような構造を作っているし、原料が高騰すれば中古品が売れる、とかセオリーがあるから、慣れると社会が実によく見えるようになるよ。
ここが社会の面白いところで、この面白さ、私は大人になってから知ったんだけど、社会=暗記じゃない、生活に直結しているから実に興味深い。
そして自分の身を守る。

だから、新聞や本を断捨離しないようにしたいと思うのです。

3、洋服のミニマリズム

洋服は、失礼さえなければ、どこに何を着ていっても良い時代になったといえる。黒や白で色を絞った綺麗めカジュアルなんかを数着持ち、洗いながら着回していくというスタイルならそれこそどこにでも行けて、最もミニマムであることも理解できる。

私の子どもの頃は、親戚が集まる時には服を新調したり、百貨店に行くときは衿のついた洋服を着たり、バブルの頃はクラブやバーでドレスコードが普通にあったけれど(今もある?テレビで、韓国かどこかのクラブでドレスコード引っかかって断られてたのあったけど日本も?)

今は、人に迷惑をかけないなら基本的に何を着ても自由だ。
ただ私、洋服関係の仕事のせいか、育ってきた昭和のせいか、TPOがかなり大事だと思っている。

例えば私のパートナーは、基本的にお洒落に興味がない。物持ちが良いので長く着る分、流行にも無頓着だし疎い。
でも洋服の意味はとても大事にするので、ちょっとしたお祝いにはプライベートでもジャケットを必ず羽織るし、職場内では、シーンに合わせてオーダーメイドのスーツとユニクロのスーツを状況に合わせて着分けている。
仕事の場では、何の仕事をする人なのか、ということが、着ているものを見れば他人からもわかるようにしている。
良いスーツに合うコート、バッグ、靴、小物があり、カジュアルなスーツに合うコート、バッグ、靴、小物がある。
白と黒の着回しのきく服を10着以内、というわけにはとてもいかないし、する気もないと思う。
育って着た環境や、年齢的なものはあると思う。

で、かたやミニマリストの方々が、いつも同じものを着ているということで生じるデメリットはあるのだろうかと考えてみるが、特に問題はないんよね。
うん、ないなって思う。
服は基本的に、その人の趣味嗜好によるものだから。人それぞれ。好きなものを着るということは、むしろ良いことであり「自由に生きる」という今の価値観に合致した振る舞いじゃないか。
ダメなことなんて、何もない。

マイナスなんてない。
でも、マイナスがないだけだ、とも思う。

私、型紙屋の延長で生地屋をやっていたことがある。
仕入れた生地の、グレーと黒を延々と裁断し続けていると、気持ちが重くなってくるということがよくあった。その時は、明るい色の生地に一旦チェンジすると、良い気分転換になった。
そのうち、暗い色の生地が大量に届くだけで「今からこれを切るのか」と、気持ちが沈むようになったし、色がダイレクトにメンタルに作用する貴重な体験でした。

色が人の心理に影響を与えるというのはあると思う。
そして洋服というのは、着てしまえば自分では基本見えなくなるけれど、相手はずっとそれを見ることになる。今日は新鮮な色を着ているな、とか、暑いから涼しげな色は見ているだけで気持ちいいな、とか、または、んーなんか地味だな、とかね。まあそれだけといえばそれだけなんですが

洋服は社会的な側面を持つ。
「相手のために着る」という役割が、間接的に存在する。

でも、真っ黒のミニマリストさんを私は普通にフォローするし、好きで読んでいるメルマガの書き手の人もいつも同じ服装をしている。
だからこれは本当に、それが良いとかダメだとかじゃなくて、全く別の、単純に人がそれぞれ何を「最優先」にしているかというだけの話。

私にとって、動画の向こうのミニマリストたちはある意味でファンタジーで、統一された世界観の、私に都合の良い部分だけを切り取って受け取っているに近い。
そう、別に自分の現実と、同じにしなくてもいいわけ。

なんというか、やっぱり若い人と我々が同じことできるわけないし、むしろやっちゃいけないとも思うんです。
熟女が真っ白の空っぽの家の真ん中で、真っ黒の服を着てミニマリズムだ!って言っても、見た目がすごーく素敵なお洒落な人でない限り、絵面的に全然正解じゃない気がする。
(個人的には、年配女性が発信している、ほっこりおひとりさま暮らしのアレも懐疑的なんですけどね。)

可能性を残した私のクローゼットは、適度に色があり、適度に枚数がある。
そして、着用回数は少ないけど出番の可能性がある「無駄」な服もいくつかスタンバイしているし、さらに必要だと思うものはその都度作る。
そうそう、なんせ特殊体型なもんで。
作ることを断捨離もできないっていう!!!

で、そのために最低限の生地、副資材はストックしておくという、これまた「無駄」が生じるというスパイラル。

4、ある程度の無駄は仕方ない生活

そぎ落とされたミニマリストの人は、花瓶を持っていない人が多いと思う。
お花をもらった時は、どうしているんだろう。

人からのプレゼントや、思い出のアルバムや、卒業証書、卒業アルバム、他人からはくだらないように見えるかもしれないが捨てられない、自分の心をドキドキさせるもの、は

捨てたのだろうか。
それとも実家か倉庫にでも保管してあるのだろうか。聞いてみたい。

私の家にはこの手のものが、比較的少ないとは思うけれど、50年も生きていますから、なんだかんだ少なくとも衣装ケース3つ分くらいはある。息子が小さい頃着ていた服も、数枚は取ってある。昔、服飾関係のコンテストで貰ったトロフィーは、重いし大きいけれど主だったものは捨てにくい。

よく「写真に残してから処分」と言うが、私は思い出に関しても「ある程度の質量は必要なのではないか」と思う。つまり手ざわり感が大事。
全部写真って、どうなの?

ま、私の子どもの頃なんて、工作とか写真にすらほとんど残っていないけども。それ考えたら全部写真の方が全然ありなのか、そーですか。

世の中のものは、すべて、エントロピーの法則で動いているわけですが、つまり、ほっといても物が増えたり動かされたりして部屋は散らかる方向にはいくけど、何もしなければ、勝手に片付いていくことは決してない。
一方向の運動なわけです。

物を増やさずミニマムに暮らすというのは、この自然法則であるエントロピーに逆らい、散らかるのを抑制する暮らしだと言える。

常に意識を向け、自分に厳しくないと維持は難しいかもしれないとともに、
やれば最高の達成感も得られるかもしれない。それは快感になり、一度沼ると、やめられなくなる心理作用も働くかもしれない。

中途半端なミニマリストの私は、それなりの量を所有しつつも、定期的に自分の持ち物を見直してはその都度

1、おそらく一生涯、変わることない気持ちで残したいと思える物だから理屈抜きで残す。
2、これは普遍的に良いものだから、いつか誰かの役に立つものとなるし役立てようと思う、資源として消すに忍びない、だから残す。
3、今の自分には必要がないし、心が動かされるものでもないが、捨てるにはもったいないし、できるだけ捨てたくない。それは今、適切だと思える人に譲る、もしくは売る。

この3つに分けるようにしている。
1は、理屈ではない思い出の物や人から貰ったものなど
2は、自分の好き嫌いじゃなくて、人との関わりの可能性を考えて残すと決めるもの。貴重な化石とか、レアな写真集とか、画材、道具類など。

先日も、広告デザイン論の本は若い美大の学生さんに譲り、1990年代に集めたファッション写真の膨大な資料も、若い服飾デザイナーさんに譲った。
ミシンで糸を通すなどに使っていた手術用のドイツ製ピンセットも、細かい仕事をする職人さんと、小さな虫を扱う理科系の人に譲った。

特に見返りを求めるわけでもないけれど、結果的にそういう人達は、そういう人達だから、私にも、お金に換えられない豊かな返礼をしてくれる。
自分じゃ得られない想像を超えた豊かさをくれる体験は、それなりの人を通してやってくるので、そこに提供できるものを、私もいつも持っておきたいと思う。
私がある程度の「無駄」を受け入れるのは、大きくはこれが理由だと思う。

極端なミニマムライフは「最小単位の自分で生きる」に近い暮らし方だから、自分以上の経験をする機会が、損失しやすいのではないかと、余計なお世話だけど、ちょっと危惧しているところはある、かも。

物じゃなくても何か、技術とか、言葉とか、人に与えることができるものを持っておくと、人生は確実におもしろくなると思う。
先ほどの料理と同じ話だ。

私は独自の骨格診断ができるので、それを通して普段出会えない、知らない人と出会う機会もあって、それはほんとに楽しい。
お金になるとかならないとか、あんまり関係ない。
人と出会うのって、お金で買えないから、求められて縁があった時点で、めちゃめちゃ棚ぼたラッキーではないですか。

5、無駄を減らしすぎて失敗したこと

洋服の型紙屋を商売にした20年前、最初は紙に印刷したものを商品にして、倉庫を借りて結構な在庫を持っていた。
そのうち、型紙をPDFデータで販売するようになったので倉庫は必要がなくなったけれど、型紙に合わせた長さのファスナーをサイズごとに、など、細かい副資材などを販売していたので、今度は家の中が在庫だらけになっていった。

それが地味にストレスで、一度、副資材販売をやめて、販売する商品を型紙だけにしてしまったことがある。
当然といえば当然だけど、お客様は、型紙を買った後に、それに合うファスナーをどこかで調達しなくてはならないから、めんどくさくて型紙すら買わなくなるという状況に。買ったらすぐに作業できるからこそ、むしろその利便性を買っていたのであり、型紙はその延長線上にあるものとして買ってくれていただけ。

自分が買う立場ならこんなことわかりきってるだろーーーーー
気がつかなかった私も大馬鹿者でしたが、心の底からなるほど、削って良い無駄、削ってはいけない無駄を知る機会になった出来事でした。
そしてすぐにまたファスナーを売り出した。

それ以来、ただでさえ断捨離体質の私は、意識して「必要な無駄」について考えることとなったわけです。

特に商売をすると、必要な無駄が多いなと思う。
経験から全部売り切れるのは割と危険で、在庫は持つべきだし、材料などもきっちりではなく潤沢であるべきだと思う。

ところで私は今は、商売をしないことにしてる。
商売(小売)をしないという商売をしている。
なぜなら、商品を作るのにコストがめちゃかかるから。
型紙を作って販売する、それもデータなんだからコストかからないでしょと思うかもしれないけど、データを作るためのイラストレータはサブスクで値段が上がっているし、プリンターのインクも、用紙も、布地も、全ての値段が高いのですよ。払えないわけじゃなくても、今、そこに突っ込んで勝負するのは最適ではない。しんどいだけです。

だから、今は今の時代にぴったりと合った、お金の作り方を模索中です。

ポルカてんちょ


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