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新年の抱負を哲学する

明けましておめでとうございます。
早稲田哲学カフェのはなです🌸 
今年も早稲田哲学カフェをよろしくお願いします。

新年のコラムの定番といえば、新年の抱負でしょう。

しかし!

わたしは2024年の抱負をもてぬまま、さめざめと年を越しました。

そこで、ここはひとつ、わたしの抱負を語るのではなく、抱負というのもの自体について語ってみましょう。

抱負というものは、いつ、顔を出しがちなのか?
それは、やはり節目に当たるときでしょう。
新年はその筆頭にあたります。

抱負は何で構成されているのか?
それは次の節目までの間に成し遂げたいことでしょう。
成し遂げるというほど明確でなくとも、次の節目までの間のテーマなども抱負として語られことがあるでしょう。
すなわち、抱負は人間の希望でできているのでしょう。

ここで、「誰が」抱負をもつのかという疑問は結論を先に延ばしましょう
(漠然と「みんなが」と思っていたなら、こちらとしてはしめたもの)

なぜなら、「誰が」は、さきに「何のために」を明らかにしたあとのほうが分かりやすいでしょうから。

抱負は、なにかを変えたい、こう生きたい、という希望を、人間の生きる節目と時間の区切りのなかで少し抽象、具体に差はあれど、明確化したものです。
それは未来を見据えることに安心を覚える人間の生きるための術でしょう。

ここで、わたしには、先に答えたはずの「いつ」に揺らぎが生じてきます。
なぜなら、わたしには抱負が持てなかったから。
わたしはなぜ抱負が持てなかったのだろうか。

実のところ、次の節目がいつなのか、ただ荒涼とした未来が広がっている者には、抱負など役に立たぬのです。

抱負とは、ある一定の生活リズム、人生計画が見えているからこそ生まれる、単調な日々に区切りをつけて前に進む面持ちなのだと言えるかもしれません。
(だから、ときに人は毎年同じ抱負を繰り返して、「今年こそは」と自分に言い聞かせるのでしょう)

新年ということは、次の節目は2025年にあたるというわけですが、無事に2025年がやってくるのか「みんなが」分かっているわけではありません。

「哲学」と「対話」を通して、小さな平和を広げていく、この哲学の実践活動を通して早稲田哲学カフェが皆さんのふとした疑問のたまり場になっていければと思います。

最後に、暗獏たる未来に向かう者にも、「次の節目」という安獏がやってくることを祈りましょう。


偉そうに書いておいて、お察しの方もいましょうが、わたしの未来は未知にあふれているためにこのような年始となったわけです。
哲学的に言ってみると、「四原因」で遊んでみただけですね(笑)
皆さんが今年も小さくとも大きくともなんらかの抱負、なんらかの希望を胸に抱いていることを祈ります。



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