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自分の内部を他者に見せること。(テーマ:「心を開く」)

みなさん初めまして!哲学カフェの運営メンバーに最近加入しました、ゆうかと申します!
初めてnoteを書かせていただくので、温かい目で見守っていただけたら嬉しいです✨

さて、今回のテーマは、「心を開く」です。
みなさんは他者に心を開いた経験はありますか?そもそも「心を開く」というのはどういう状態なのでしょうか?
私がこのテーマでnoteを書こうと思ったのは、笹川真生というSSWの「ためらいあいいたい」という楽曲がきっかけです。
今回のnoteでは私がこの曲を聴いて思ったことを書き連ねていこうと思います!
楽曲のリンクを貼っておくので、ぜひ皆さんの感想とも照らし合わせながら読んでいただければと思います。

では本題に移ります。
あくまで私個人の解釈にはなりますが、この曲は他者に心を開くことへの葛藤について歌っているのではないかなと考えています。

「心を開く」ということは、他者に自分の内部を見せることだと思います。
私たちの心の中を底まで覗いてみると、敏感であまり触れたくない箇所があることに気づきます。
例えるなら、転んで怪我した直後の患部のような所とでもいいましょうか。
そこには、自分なんて弱くてちっぽけだな、とぼやく卑屈な感情だったり。
認めて欲しい、とか、受け入れて欲しい、とかの、子供みたいに甘えた欲求だったり。
これが欲しいとか、こうなりたいとかのどうしようもない熱だったり。恥ずかしくて直視したくないようなものが沢山埋まっています。
こうしたものを他者に見せる行為が「心を開く」ということではないでしょうか。

さて、「心を開く」ことには、いつだってリスクが伴うはずです。
なぜなら、他者は自分とは異なる存在だからです。自分を受け入れる義務も、分かり合う義務も、期待通りに振る舞う義務もありません。
弱さを見せた時、幻滅する人や笑う人もいるかもしれません。勇気を出して誰かの手を掴もうとしても、振り払われることもあるかもしれません。自分にとっては心の奥深くにしまっていた重要な熱だとしても、他者にとっては取るに足らないことだってあるでしょう。
だから私たちは日ごろ、自分の弱い部分を無理やり隠してしまったり、何かに本気になることを恥ずかしがったり、相手や物事に感じた違和感を伝えずにやり過ごしたりすることも多いのかな、と思います。

それでも、もし自分の内部を誰かと分かち合うことができたなら。
傷ついてもいいから、この人にならもっと深い自分を知って欲しい、と思える誰かに巡り合えたとしたら。
もしくは、つい溢れてしまった自分の弱さや熱さから目をそらさず、受け止めてくれる人がいたとしたら。
繰り返しますが、他者は自分とは全く異なる存在です。自分の思うことすべてに同意したり、全く同じ感覚を味わってくれるなんてことはほぼないでしょう。
にも関わらず、「あなたはこうなんだね」と、素のままの自分を尊重してくれる他者がいたとしたら。
そこには大きな光が広がっているのではないでしょうか。

「心を開く」ことは、誰にとっても怖いことだと思います。
ただ、もっと深くつながりたい、いややっぱり怖い。とか躊躇いながら他者との交わり方を見つけていくこと。
その過程は、人間同士の関わりの中にしか存在しない、とても貴重で美しいものだと思います。
だから、素直な気持ちを表すことへの恥ずかしさも、葛藤しつつ伝えた本音が期待通りに受け入れられず傷つくことも、決して格好悪くはないはずです。
むしろ、自分や他者としっかり向き合える強さの証なのではないかと思います。

ちなみに私自身は、自分の深い部分を他者に見せることはあまりないです。ただ、他者との直接の交わりに限らず、作品づくりなどで自分を表現することも内部を見せることに含まれると考えているので、このnoteの執筆を通して読者の皆さんに「心を開いて」いるのかもしれません。
なので、この記事に共感できる部分があったり新たな発見があったりした方がもしいらっしゃったら、本当に幸せです。(*^^*)

今回のnoteの本編は以上となります。
拙い文章ではあったとは思いますが、お付き合いいただきありがとうございました!
(※2023.11.26 一部内容を修正いたしました)

P.S.
私が哲学カフェに入会した理由は以前にこちらのnoteを拝見したことがきっかけです。様々な方が日常の出来事や作品、哲学的なテーマまであらゆることについての考察を発信していらっしゃって、強く惹かれたことを覚えています。自分の考えを自由に発信できる空間はとても貴重で魅力的だと思います!
改めて、新参者の私にnote執筆という大役を任せて下さった先輩方、本当にありがとうございます!

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