過熱。【セクシー田中さん『事故』にみる原作者論】

まずは、原作者の先生のご冥福をお祈りいたします。
正直、この件について記事を書くことには逡巡がありましたが、言葉として形にしておくことといたしました。
というのも、SNSで散見される「論調」に違和感をどうしても覚えてしまうからです。

最も多い論調は
「テレビ屋が原作をリスペクトせず原作者が苦労して作った創作を蔑ろにした」
というものですが、果たしてこの批判は正確だったのでしょうか。
我々はまた正義という棍棒を握りしめて暴れている可能性があるのではないでしょうか。

事故から二週間が過ぎ、何も解決も解明もせず、熱だけが冷えていった今、あえてお話させていただこうと思います。


◆そもそも「原作クラッシュ」だったのか

小説や漫画の映像化にあたり、原作から内容が大幅に変更され、評価も大きく変わる(概ね低下する)ことを、
俗に「原作クラッシュ」と呼ばれています。

この「原作クラッシュ」、世界的に有名な例として「シャイニング」があります。
スティーブン・キング原作、スタンリー・キューブリック監督の、傑作ホラー映画ですね。

実は僕、自宅の本棚にいちばん多く置かれているのは、キング先生の本だったりします。
日本で刊行された作品は概ね全て読んでいる?はずです。(多作で有名な先生なので断言するのは怖い)
ホラー映画も大好きで、とうぜん映画「シャイニング」も何度も観ました。

しかしこの映画版について、キング先生は全く納得いってないんですね。
何度も公の場でキューブリック監督を批判し、裁判沙汰にまでなっています。
結果として映画に関する批判を止めることに同意しましたが、監督没後はまた批判を繰り返しています。

原作「シャイニング」の主人公は、アルコール依存症に苛まれており、葛藤の中で「ホテルの幽霊」に唆され、
アルコールを摂取してしまい、幽霊と酒が見せる幻覚と、再び口にしてしまった劣等感と敗北感の中で、
狂気に取り込まれ妻子を襲ってしまうという筋書きです。

アルコール依存症は、キング先生自身が罹患している病気であり、父視点で語られる息子との対話などからも分かる通り、
主人公は先生自身の分身に近い存在だったようです。
心理描写も濃厚で、800ページ超の原稿の半分以上を、主人公が狂気に取り込まれるまでの経緯の描写に割いています。

この心理描写が、映画版ではばっさりと切り落とされていて、かわりに、
キューブリック監督の映像美とジャック・ニコルソンの迫真の演技で、「狂気」を表現していました。

映画は言うまでもなく名作なのですが、キング先生自身がこだわりぬいて形とした「経緯」が斬り落とされ、
代わりに別の形で表現されていたことが、どうしても納得いかなかったのでしょう。
言わば魂を抜き取られ、外側だけ流用されたようなものですから、お気持ちは察するところがあります。
原作も映画も好きな自分にとっては、心苦しい事件です。

まあ、この件は映像化された作品が高い評価を得ていたり、作者のスタンスの激しさなど、
俗にいう原作クラッシュとは多少違うかもしれません。

では、「セクシー田中さん」のドラマは「原作クラッシュ」だったのでしょうか。

◆壊されたのなら存在しないはずの「経緯」

まず、当該ドラマで起きた「事故」としては、
「漫画に忠実という約束で映像化をオーケーしたが、脚本に大幅改変が見られ、作者が重視していた点すら改変されていたため、
作者自身が加筆修正を行い、最後数話に関しては作者自身が執筆することになった」
というものです。

最初の批判のうち、「原作をリスペクトせず」という点については、合致しています。
先生自身がポストでおっしゃられていた内容も拝見しましたが、
原作を尊重するスタンスであれば、手を加得ないであろう箇所が変更されていたようです。
連載の締め切りがある中で推敲も繰り返せなかった点も後悔されており、「原作者の意向が全て反映された」とは言い切れません。

ただ、注意すべき点は「原作者が希望した改変に応じている」という点です。

そもそも、日本テレビ側は「漫画に忠実に」という当初の約束を反故にしているわけで、責任がないはずもありませんが、
少なくとも「原作者が変更を不服としたため、指摘を受け入れて脚本改変を受け入れる」というフローは存在しました。

「当初の約束は守られなかった」ものの、「限られた時間の中で原作者の意向も保護された」という案件でした。

つまり、SNSで叫ばれている
「適当に人気作の名前借りてきてドラマをこさえたれというスタンスの日テレ」
というのも、事実とは多少角度が違うわけです。

明言しておきますが「日本テレビに何の非もない」ということではありません。
しかし
「原作を原案程度の間隔で引っこ抜いて来て二束三文で叩き売るテレビ屋」
というのも、事実には反します。

  • 1.「原作どおり」という作者の意向には同意した

  • 2.しかし「原作どおり」にしたがらない脚本家をアサインした

  • 3.実際に脚本家から出力されたものは「原作どおり」ではなかった

  • 4.「原作どおりにしてほしい」という作者の意向を受け入れ、修正も認めた

  • 5.脚本家にも申し入れをした

  • 6.それでもやはり作者の意向とは大幅にずれがあったため、作者自身が脚本を書く結果となった

というのが(大まかではありますが)ことの経緯かと思います。
このうち、原作者の意向を全く無視していたのであれば、上記「4.」以降の経緯は存在しえなかったはずです。
経緯の約半分は、「原作者の意向を尊重する」という流れによって生まれたものでした。

作者ご自身のポストでも、末筆がドラマスタッフやキャストへの感謝の言葉で締められていたのは、
映像作品そのものを否定する意向ではなかったためでしょう。

そして「2.」や「3.」のような状況を起きた理由については、外野からは憶測しかできません。
現在のところ「日本テレビ」や「小学館」はあまり効果的でない声明を発表しただけにとどまっています。

しかし本来必要なのは、「原因究明」です。

 プロデューサーの調整力不足だったのか?
 現場で脚本家が暴走したためか?
 小学館から作者への申し伝えに疎漏があったのか?
 企画のスケジューリングに問題はなかったのか?
 連載を持った状態で脚本を書く作者へのメンタルケアは十分だったか? 

こういった点を論じるべきなのですが、現状はそのような流れになっていません。

言わば本件は、
「原因究明と再発防止が必要な『事故』であるにもかかわらず、必要な対策が講じられていない状況」
というのが正しいのではないでしょうか。
僕が本件を「事故」と呼んでいるのも、このためです。

本来問題視すべきは、この点のはずですが、現状は「脚本家の糾弾大会」に陥っています。
これは、作者ご自身も全く望んでいない結果でしょう。

◆守られなかった、脚本家という「クリエイター」


SNSではたびたび、
「テレビ屋に利用され、脚本家に搾取されるクリエイターたち」
という論調が見られました。

僕としては、この考えにも多少疑問があります。

まずもって、「脚本家」もクリエイターです。この大前提が抜けてはいけません。

「いや、原作者には会いたくないとか、名前だけ貸せとかいう連中が脚本家なんだよ」
とおっしゃる方もいるでしょうし、実際こういう脚本家もいるでしょう。
削除されてしまいましたが、日本シナリオ作家協会が公開した動画の内容は、
(言われている内容が正しいのだとすれば)不快に思われる方が殆どであり、僕もその一人です。

ただこれは、「不快なことを口にするクリエイター」というだけであり、
「こんなことを口にするこいつらはクリエイターじゃない」という話にはなりません。

言わば、
「漫画家はSNSとか控えてほしいなあ」
「SNSでむちゃくちゃなこと言ったとしても、作品に罪はないよね」
という話と本来的には同義なのですが、脚本家に対してこういった論調の方は少なく、むしろ、
「あんなこと言う連中なんだから、ぶっ叩いてやるのが丁度いいぜ!」
という方が大半だったりします。

そういう方が、別のポストでは「クリエイターさんを守れ!」なんて呟いているのを見ると、
一体どうやって持論の整合性を保っているのか疑問を感じざるを得ません。

「いや、あいつらはゼロから新しいものを生み出してたわけじゃない、原作を流用してるに過ぎないからクリエイターじゃない」
とおっしゃる方も少なくないようです。

しかし、何をもってゼロから新しいものを生み出しているか、などや、何がパクリで何がパクリじゃないかという判断は、
非常にプリミティブな主観に基づく部分であり、明確に定義と呼べるものがあるわけではありません。
何にも影響を受けずに新しいものが作られるということは、まずありません。

紙媒体で広まったものを映像媒体にしていく過程に、クリエイティブな要素が無いと考えている方は
(さすがにいないと思いますが)少し考え直した方がいいでしょう。

もちろんドラマを担当された脚本家の方の力量や手癖が、本件に全く無関係だったとは思いませんが、
そもそもアサインする側にもその責任はあったわけです。
インスタグラムに投稿した文章が炎上した点についても、数カ月にわたって自分が担当した作品について、
最後の最後で降板させられれば、恨み言のひとつも言いたくなって当然でしょう。
行儀が良い仕草ではありませんが、それは「悪」と呼べるほどのことではないはずです。

しかし何故か、「クリエイターを守る」という標語を掲げた人が、
「クリエイターである脚本家を炎上させる」という事態に陥ってしまっています。

まあ、脚本家に不義理を働かれた小説家・漫画家先生が恨み節を吐露する気持ちはよく分かりますが、
第三者である視聴者が何故か脚本家に代理戦争を起こしている姿には、首を傾げるほかありません。

◆「守る」べきはなんだったのか

そもそも、視聴者は本当に「原作者の味方」なのでしょうか。

というのも、この件を語る方の中に、
「つまんねえから問題なんだよ、面白けりゃ問題になんねえんだよ」
という暴論を唱える方がいました。

しかしまあ、そんなことはないわけです。
最初に例に出した「シャイニング」の事件のとおり、
世界的に評価されたとしても作者本人は気にくわない、なんていうことは往々にしてあるわけです。

そしてそのような場合、何故か作者は守られることはなく、嘲笑すらされるのです。

「あいつ映像化の出来に嫉妬してんだろ」

自分が大事にしている核の部分を容易く変更されたことへの、生みの親としての不快という構図は同じはずですが、
視聴者側が不満を抱いていないと、原作者の方が異常者として見做されるのです。

つまりは、「クリエイターを守れ!」「原作クラッシュしやがって!」という声明も、
結局はクリエイターを守るためではなく、自分が好きな作品(とそのお気持ち)のために発せられているものなわけです。

「パルワールドにパクリと言えるのは権利者である任天堂だけ」
ということと同じで、
「原作改変に怒るべきは原作者だけ」
なわけです。

もちろん、「日本テレビ(組織) 対 原作者(個人)」という力の弱さはパルワの件と同じではありません。
ただ、漫画家の権利を守るために必要なのは「組織(編集部)」と「明文化された契約」です。

そして同じことが繰り返されないために必要なのは、「原因究明」と「再発防止策」です。

いずれにも、SNSの怒りの声は必要ありません。

原作者さんが最後に残した言葉は
「攻撃したかったわけじゃなくて」
です。
その言葉を胸に、心安らかに今一度冥福を祈るばかりです。

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