四国八十八箇所巡り逆うちとは

## 衛門三郎の伝説

天長年間(824~834年)、現在の愛媛県松山市を治めていた河野家の一族に衛門三郎という豪農がいました。彼は財力と権力を持ちながらも、強欲で冷酷な性格ゆえに人望を失っていました。

ある日、みすぼらしい僧侶が三郎の家の門前に現れ托鉢を求めました。三郎は下男に命じて僧侶を追い返させましたが、僧侶は何日も続けて現れました。8日目、ついに三郎の怒りが爆発し、僧侶の鉢を竹のほうきで叩き落とし、鉢を割ってしまいました。それ以降、僧侶は現れなくなりました。

その後、三郎の家には不幸が続き、8人の子供たちが毎年1人ずつ亡くなり、最終的に全員が亡くなってしまいました。打ちひしがれた三郎の夢枕に僧侶が現れ、その正体が弘法大師(空海)であることに気付きました。過去の行いが自分の不幸を招いたことを悟った三郎は深く後悔し、全財産を人々に譲り渡し、お詫びのために四国巡礼の旅に出発しました。

20回の巡礼を重ねても弘法大師には会えず、最後の手段として逆の順番で巡礼を行う「逆打ち」を試みました。しかし、徳島県の焼山寺(12番札所)の近くで病に倒れてしまいました。

死を目前にした三郎の前に弘法大師が現れ、三郎は過去の過ちを詫びました。弘法大師が彼の望みを尋ねると、三郎は「来世では河野家に生まれ、人々の役に立ちたい」と言い残して息を引き取りました。弘法大師は路傍の石に「衛門三郎再来」と書き、三郎の手に握らせました。

翌年、河野家に左手を握りしめた男の子が生まれました。両親が寺に連れて行き祈祷してもらうと、手から「衛門三郎再来」と書かれた石が現れました。その石は現在もお寺に大切に祀られています。

## 順打ち・逆打ち

この伝説が四国遍路の起源とされています。弘法大師に出会うために「逆打ち」が生まれました。逆打ちを行うと必ずどこかで弘法大師に出会えると言われ、順打ちの3倍のご利益があると信じられています。この信仰は、衛門三郎の体験に基づいているのかもしれません。

## 衛門三郎ゆかりの場所

伝説の石が納められているのは愛媛県松山市の51番札所石手寺です。現在も大切に祀られています。また、松山市恵原町には衛門三郎の八人の子供たちを祀った「八塚(やつづか、または八ツ塚)」が点在しています。これらの場所は巡礼者や歴史愛好家にとって興味深い訪問地となっています。

## 800年代の世界の出来事と衛門三郎

800年代は世界的にも大きな変革が起きた時代でした。この時代、日本では弘法大師が真言宗を広め、文化や信仰の新しい流れが生まれました。一方、西洋では800年にカール大帝がローマ皇帝として戴冠され、西ヨーロッパの歴史において重要な転機を迎えました。また、イスラム世界ではアッバース朝が最盛期を迎え、バグダッドが文化と学問の中心地として栄えました。

これらの国際的な動向は、日本国内の信仰や文化にも間接的に影響を与え、四国遍路のような巡礼文化の形成にも影響を及ぼしたと考えられます。衛門三郎の伝説もまた、こうした時代背景の中で生まれたものです。

衛門三郎の伝説は四国遍路の基盤となり、その深い歴史と信仰を物語っています。

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