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「スマホにしたよ。」

最近母親が
ガラケーからスマホに
やっとやっと機種変更した

本当に何年も前から
私はスマホを勧めてきたわけだが
なぜか頑なに変えなくて
その一歩二歩を踏み出す後押しになったであろう
冥王星水瓶座入りってすごいなぁ

星を全然知らないであろう
母親を見て感心する

ちなみにたぶん
第一次冥王星水瓶座入りの時に
スマホ機種変に1回トライしようとしてて
でも店員さんの態度対応が悪くて
心挫けて1回断念してるらしかった

娘の私からしたら
"やっと孫の写真をリアルタイムで送れる"
これに尽きる
(ガラケーが悪いとかスマホが良いとかじゃなく
本当にただただこちらとしては不便だった)



娘の立場からしたら
上記の感想だが
母親を1人の人間として見た時に
スマホのほうが良いだろうということは
明白であった


元々人との交流が大好きで快活な付き合いかたをする人
(今は夫(私の父)と引きこもりのような生活)
数年前
母親が同窓会に参加し
連絡先交換しようとお友達に言われた時
「私どうせガラケーだし」
と言って連絡先交換をしなかったらしい
(6○歳の同窓会、きっとほとんどの人がスマホだよね)


私たち家族とは遠くてなかなか会えない距離だけど
本当は孫の顔を1番見たい人
私が「スマホにすればリアルタイムで今の孫の写真とか送れるよ?(私もわざわざ現像&郵送みたいなことしなくていいし)」
って言っても
母「いいのよ、今撮った写真で充分」


相撲が趣味で相撲の時間は必ずTVの前へ座り
巡業中1回は観戦しにいくほどの人
ガラケーで撮った画像の荒い力士の写真を
私に見せてくれたこともある


なんか
もったいないな
と思っちゃってた

スマホに変えれば
本当はしたかったであろう友との連絡先交換も
孫の写真も
力士との思い出も
もっとクリアに気軽に遠慮せずにできたはずで

自分で勝手に壁作って
楽しむことを諦めてる感じがして
受け取ることを諦めてる感じがして
私が嫌だったのかも

ガラケーにしがみつくことで
現状維持でいようとすること

「私"どうせ"ガラケーだし」
の"どうせ"に全ての気持ちが包み込まれてる感じがして

私はその"どうせ"をぶち壊したくなるけれど
母は母の人生を母の価値観の上で歩んでるわけだし
そこは一線を引いて物理的にも精神的にも遠くから見守っていた


忘れていた頃
突然やってきたSMSメール
「スマホにしたよ。」

そこには絵文字も何もなかったが
ニヤついてる母の顔が浮かんだ


きっとハードルが高かったに違いない
スマホへの機種変更

スマホにして良かったって
思ってもらえるよう
こちらからも便利をいっぱい伝えて
孫の写真もいっぱい送りたいと思う



さて

私は何かにしがみついて
頑なに現状維持しようとしたり
していないだろうか?

勝手に壁作って
楽しんだり受け取ることを
諦めたりしていないだろうか?

母親の勇気ある行動を
自分の今を振り返る機会にして
私も人生をもっと楽しんでいきたい

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