サムライクリスチャン高山右近3

室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)の命により、「高槻城」(たかつきじょう:現在の大阪府高槻市)に和田惟政が派遣されると、高山友照・高山右近親子は、和田家に仕えることになります。

ところが1571年(元亀2年)に、「白井河原の戦い」(しらいかわらのたたかい)で、和田惟政が池田家の重臣「荒木村重」(あらきむらしげ)に討たれると、状況が一変。嫡男の「和田惟長」(わだこれなが)が跡を継ぎますが、家中で人望を集めていた高山親子を危険視するようになり、暗殺計画を立て始めたのです。

これを知った高山友照は、池田家を乗っ取り、摂津国随一の勢力を持つようになった荒木村重に相談。すると荒木村重は、「殺される前に殺すべきである。兵の援助は惜しまない」と言い、高山家に対して20,000石の所領を保障。これにより、高山親子は返り討ちを決行します。

高槻城での会議の席上で、主君・和田惟長を襲撃して致命傷を負わせ、高槻城から追い出したのです。このような経緯を経て高槻城は、事実上高山家の居城となりました。

なお、この襲撃時、高山右近も乱戦の中で負傷。一説では、首を半分切断されるほど深い傷だったとか。高山右近は、約2ヵ月間生死の境をさまよった末、奇跡的に回復を遂げます。そしてこの臨死体験が、高山右近に深い信仰心を植え付けたと言われているのです。以降高山右近は、精力的に領内でのキリスト教の布教に励むようになりました。

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