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ノベルセラピーで作ったお話

音の紐解き いのち屋

作 櫻井 路  

初めての体感

樹は海に飛び込んだ
今日は30歳のバースデーだ

樹(たつき)は昨夜
何やら夢なのか妄想なのか
わからない感覚になった

初めての体験をせよ

そんな言葉だったように思った

バイクを走らせ
海岸線をなぞる

海に向かって切り立った丘の上の一本の木のところにバイクを停めた

海を見下ろすと
左手には蒼い海
右手には なんと真っ赤な紅い海が広がっていた

お気に入りのラジオ番組を聴きながら
眺めていた

ちょうど碧と紅の真ん中から
太陽が昇ろうとしていた

火柱のように
太陽は天をつかもうとし
そして
こちらに向かって海を染め上げた

樹はTシャツを脱ぎ、
そのど真ん中に飛び込んだ

碧い海と紅い海の間を縫うように
太陽に向かって泳いだ

風がどうぅっと吹き
樹は流されて
紅い海の中に入っていった

温かい
そして 何か生ぬるい

さらに潜っていける

不思議なことに
苦しくない

息もできる

見たことのない魚たち

小魚の群れ

どんどん深く潜っていった

人魚たちがガールズトーク中らしく
こちらを見ながら笑っている
こういうときはそっとしておくに限る

ブランクトン

クラゲ

いやな感覚はなく
むしろなんだか
心地よい

さらに深く深く

ちょうちんアンコウが
ナビゲーターになり
僕をどこかにいざなってくれる

どくん
どくん

まさか
ここは
母さんの子宮の中なのか?

まじかよ

てことは
この紅い海は羊水なのか?

おれ、
どうなっちゃった?

ちょうちんアンコウは
古代の桜貝でできた玉を
探しに行くところらしい

この紅い海のどこかに神殿があると

その玉は生命のかけらだ

生命のかけらを繋いで
生命の玉緒を繋いでいく

一緒についていこうとしたとき

樹は大切にしまっておいた
名前の書いてある
角笛のついたネックレスを
落としてしまった

そのネックレスは
海の渦の中に
消えた

途端 自分は名前を失い
誰なのか
どこからきたのかわからなくなった

探して

探して

碧い海との境目を越えて

泳いで
泳いで

碧い海の中には
街があり、森があり、山があった

そうして

紅い海と碧い海の境目に戻ってきたとき
大きな渦に飲み込まれた

気がつくとそこは神殿だった

ほの暗い回廊を通り抜けて

一つの部屋に灯りがともっていた

なくした名前のネックレスも見つけた
けれど名前は消えていた

貝がらの中に光る玉に照らされて
一人の女性が
機織りをしていた

静かな眼差しで

空間の横糸
時間の縦糸が
糸車からくるくると飛び出して

とんとん

とんとん


機織りをしていた

織りあげられるその美しい布は
今までみたことのない輝きを放っていた

「ここは名前を織り上げる 命の工房
身体をいただく新しい生命に
神様と約束した名前を刻印するところ

わたしはここで
機織りして
あなたをお待ちしておりました」
と告げた

二人は
恋に落ちた

というより

運命の糸を手繰り寄せた

そうして

やがて

二人は新しい暮らしをするために

この神殿をあとにした

外をのぞいてみると
ちょうちんアンコウが迎えに来ていた

二人は
紅い海と碧い海の真ん中に降り立った
あたりはもう夜で満天の星が瞬いている

「名前は?」

「はるひ。あなたの名前は樹ね」

「そっか
僕たち名前のある世界に来たんだね」

おめでとう

ありがとう

そうして

二人は

新しい神殿で
今日も
名前と命の生まれるところ【いのちや】

新しい世界に生まれる命と
どんな人生にするのか
どのように名前に刻印するのかを
ゆっくり対話して
決めていく
そして
はるひはその名前を縦糸と横糸とそして桜貝のかけらで織りあげていく

その名前を羽織って生きていく

人は
命の尊さと不思議さと源の智慧を思い出す術として
時々自分で名付けた名前を振り返る

人生の中で名前を何度呼ばれて
何度名前を自ら書くのだろう

今日も神殿の中で
樹とはるひは
角笛の音色と共に
機織りをしている

おしまい

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