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ミススト感想(7月24日マチネ)

あらすじ(ネタバレ)
 オーストリア中心部の閉鎖的な村に暮らすテオ。彼が思いを寄せるマーゲットは、叔父のピーター神父が教会に反抗した容疑で有罪になったために、宮廷楽団のオルガニストになる夢を閉ざされ、村の人々からも無視されていた。テオとマーゲットの元に、突然「サタン」と名乗る男が現れる。彼は2人の欲するものをどこからともなく取り出して与え、自分を天使だと言った。彼はマーゲットに猫を与え、その猫を飼っていれば毎日銀貨4枚が手に入ると告げる。しかし、仕事を失ったはずのマーゲットが毎日買い物に出かけていることを世間は怪しみ、魔女狩りで処刑されそうになる。
 サタンはテオに、マーゲットの処刑を防ぐにはピーター神父を訴えた司祭を殺すしかないと言った。司祭は教会の金を横領しており、それを咎めたピーター神父を無実の罪で訴えたのだ。しかし、テオは司祭を殺すことができなかった。殺されかけた司祭はテオに、マーゲットを宮廷楽団に推薦すること、また、ピーター神父の無実を証言することを約束する。約束が完全に果たされることはなく、マーゲットは宮廷楽団に推薦されたものの、その見返りとして司祭に体を差し出すことを求められる。テオはサタンに「ピーター神父を幸福にしてくれ」と願ったところ、ピーター神父の無実は証明されたものの、彼は自分を皇帝と信じる狂人となってしまった。
 テオがサタンを咎めると、この狂った世の中では狂人が一番幸せだ、と彼は答えた。人間の運命は生まれたときから決まっていると。あと数世紀経てば生まれる人権という思想も、ほんの少しずつしか進歩しないのだと。だが、テオはその進歩に価値を見出すことを宣言する。自分は、それを守るために考え続けると。「天国で会おう」と声をかけたサタンに「そんなもの存在しない」と言われても、テオはサタンに会いに行くことを誓う。
 オーストリア中心部の閉鎖的な村。ウィーンの宮廷楽団に向かったマーゲットもいなくなり、サタンも2度と訪れないそこは、彼にとっては変わらず、どうしようもなく、楽園であった。

 「マーゲットに思いを寄せる」と書いたものの、彼がマーゲットのどこをどう愛しているのかさっぱりわからなかったので、どの表現を使うか迷った。斉藤莉生の舞台観た数が少ないからかなと思ったけど、『呪いの子』のときは愛だって確信してたので、恋なのか愛なのか執着なのかわからないことも芝居のうちなのかも。

 テオ、苦しいけれども目の前の人間が愛しくて生きている、その人間が自分のほうを見ていなくて絶望する、それでも愛し続ける執着みたいな感情、変化を恐れる臆病さ故の不変さとか、「人間らしさ」を詰め込んだキャラクターに感じた。

 最近考えていたこととして、恋愛、それに限らず生身の人間を好きになることの身勝手さみたいなものがあって、この「好きであること」を表す言葉のどれが適切なのか引っかかってしまうのはそのせいかもしれない。実際、「好きになれても愛することはない」「愛は同種の中でしか生まれない」(原文ママではない)というサタンのセリフもあって、ここにこだわるのはそんなに間違っていない気がする。
 ラストアイドルの『君のachoo!』という、とても可愛くてとても「キモい」曲がある。これは秋元康、アイドル産業、そして、アイドルを好きになることの気持ち悪さだと思う。1人の女の子に清純であるという幻想を勝手に抱いて、勝手に好きになる。アイドルを好きである以上、自分の中にあるこの「キモさ」を忘れてはならないといつも思う。当時中学生も所属していたユニットが歌う姿はとても可愛い。この曲を聞けば最初に可愛いなと思う。だからこそである。
 と同時に、これは生身の人を好きになることの気持ち悪さでもあると思う。人を好きになるのは、根源的には自分の抱く幻想を人に押し付ける身勝手なものであると思う。有名人を好きでいるときは誰もがある程度自覚しているこの身勝手さは、友達や恋人という身近な人間に対してのときあまり自覚されない。まあだから何というわけでもなくて、「幻想を押し付けているのだろう」と思いつつ自分では幻想を押し付けているつもりはないし、多分ほとんどの人間はそうなので、これはもう仕組み上どうしようもないのかなと思っている。

 テオはマーゲットを好きであったと思う。彼の定義でいえば愛していたと思う。マーゲットはテオを好きであったと思うけれど、愛してはいなかった気がする。その意味で、サタンと同じである。マーゲットはテオをはじめとする男たちを自分に利する存在としか考えていなかったし、サタンはテオをはじめとする人間たちをおもちゃとしか考えていなかった。

 マーゲットがテオを(それなりに)愛していた可能性を指摘する他の方の感想を見かけて、私は映画『怪物』の少年2人の「より君→主人公」に愛を見出せなかったので、「傷ついている時に寄りかかる」を愛と定義したくないこだわりでちょっと見方が違うのかなと思った。「それは恋愛ではない」というより「それは恋愛とは呼びたくない」という感覚なので、そこに恋愛感情を見出す人とは、恋愛の定義が違うのだと思う。
 『怪物』のネタバレが入ってしまうが、怪物とミススト、かなり構図が近いように感じた。少年、ファムファタル、サタン、罪人が、『怪物』でいえば、主人公、より君、母親、先生かなと。まあ物語の原型ってだいたいこうかも。村上春樹とかもこんなですよね。

 これは原作なのか脚本なのかわからないけれど、最後のサタンの人間を語るセリフが、それまでの人間から見た昆虫を相手にするような姿勢と矛盾しているように思ったし、何も考えずにサタンに縋っていたテオの「考える」というセリフの説得力のなさにもやっとした。それもまた人間らしさ=人間の身勝手さの一部なのかもしれないけれど、「サタン」「迷える青年」という枠組みを重視しすぎてかその中身に一貫性がないようにも。ただ、サタンとテオがぶつかり合う最後のシーン、白石さんの「自分の言葉で自分の思想を喋っている感じ」と、斉藤さんの「考えつつ、迷いつつ言葉にしている感じ」の対比が見事だった。

 斉藤さんのスコーピウスが本当に好きだった。テオは好きなタイプのキャラクターではないけれど、彼の演じるキャラクターがその公演を引っ張る芯になるのはやはり斉藤さんの才能だと思う。彼の演じる「誰か」をこれからも観に行きたいと思える公演だった。 

追記
 てか斉藤莉生やっぱすごいな。あれ身体の震えとか全部コントロールしてますよね?あと声が七色。知らない声だった。A列で、あの近さで斉藤さん見たの初めてだったから、登場シーンからその小ささと細さにびびった。あの細い身体で4時間ハリポタの世界を引っ張っていたと思うと苦しさがあるし、絶望を表現するのがうますぎて私が演出家ならたくさん絶望させたくなってしまうし、間違った人間を愛してしまう役がハマってしまうんだろうなと思った


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