朝を取り戻せ。

かねている。

朝6時に目が覚める、日付は12月29日。

昨日で仕事は納めたのにこんな時間に早起きをしているのはアラームを消し忘れていたから、前日は3時に寝たのでこんな時間に起きるつもりは毛頭なかった。

しかし、二度寝をしようと思っても平日の癖でうまく寝付けない。

故に私は今はかりかねている、「朝」との間合いを。


現代において朝というものは、労働や勉学の集団生活を円滑に行うために設定された起床のタイムリミットに過ぎない。

私とあなたの朝は同じ概念を共有していながらも異なる実体をもって存在している、私の朝は6時だが、あなたにとっての朝は4時であり、10時であり、18時だ。

いや、我々は「朝」を忘れていると言った方がいいのかもしれない。

日常生活においては起床時間を便宜上、朝と呼称しているだけのように感じる。
しかし、実際は単語の意味を置き換えることで本当の「朝」から我々を遠ざけることが主目的だ。

これはシステムが我々をコントロールする為の措置であり、我々が「朝」を認識しないことは彼らの商売にとって都合がよく、「朝」は知らぬものとして恐れる事を望んでさえいる。


しかし、我々は「朝」が何なのかを本当は知っている。

なぜならそれは冬の澄んだ空に、春の霞に、梅雨の窓に張り付く水滴に、夏の涼しさに、秋の冷えた足に、あるいはインスタントなコーヒーとトーストの香りや味噌と焼き鮭の風味に、そして何より陽光に、遍く存在しているからだ。

普段は朝によって覆い隠されたそれらはふとした瞬間、例えばアラームを間違えてセットした休日で、明瞭に観測する事ができる。

そして、ひとたび「朝」を認識するに至れば我々は瞬時にそれが何であったかを思い出し、取り戻すことができる。


根暗人間である我々は暇さえあれば夜を讃え、更かそうとする。

それは夜へのラブコールであると同時に朝に対する恐怖と明日に向けた威嚇であり、この世の仕組みに対するささやかな反抗だ。

しかし本当の「朝」を思い出すことができるのなら、「朝」は夜と共に明日ではなく今日の日として、捻じ曲げられたサイクルを再生する為、構成物の一つとしての役割を再び担うだろう。

気づけば間合いをはかる必要は無くなっていた、なぜならこの世界には朝も昼も夜もない全ては同じものと成った。
いや、元から全て同一の物だったからだ。


しかし、紅茶の飲みすぎでさっきからおしっこに行きたくて仕方がないのでそろそろ終わりにする、皆々様も善い日を。

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