鬼滅をみて

私も鬼みたいだなぁと思った。

どちらかと言うと禰󠄀豆子みたいな。

大事なひとが傷ついたり、人の道に反すると思うものに出逢ったとき、私は鬼になる。

大事なひとを守るために死ねるなら、本望だと思ってるところがある。

だけどいまの世の中で、そんな激しさが求められたり必要とされることはない。
忍とか武士の時代ならまだしも。
理解されることはほとんどない。

私は怒りの炎にのまれると、自分でもコントロールできなくなることが多いから、
傍目にみたらただの暴走列車にしか見えない。

自分の中の激しい衝動を、自分でも持て余すくらいなのに、周りからも理解されないから、
私はかなしくて、より一層止まり方がわからなくなってしまう。

みんなが私をわからないように、私はみんながわからない。
どうしてそんなに平気でいられるのかわからない。
この世はこんなに、不条理や矛盾であふれているのに。

納得できない規律に従うのはいやだし、
尊敬できない人に傅くのも御免だ。
理不尽や不条理を「そういうものだから」と受け流すこともできないし、
大事な人やものを守れない自分に価値はないと思う。

私は自分の育った家を、育ててくれた家族を守れなかったことを、今もずっと悔やんでいる。
と同時に、幼い命のすべてを懸けて伝えたかった思いが、朽ち果てるそのときまで伝わらなかったことに、猛烈な悲しみと怒りを覚えている。
最後まで身勝手だったその人たちを、心の底から軽蔑している。
それは相反する、けれど常に共存する思いだ。
どんなに穏やかな日々を過ごしていても、それはふいに私を支配して、耐えがたい無力感を抱かせる。
それが私の核にある。

どうして大事なひとの大事な存在に逢えないのか。
どうして日の当たる場所で、彼らの幸せを見届けられないのか。
私がそばにいたかった。
でもそれよりも、私がこの手で守りたかった。
私が掴みたかったんじゃない。
奪い取りたかったわけでもない。
ただその人たちがしあわせであることを、この目で見届けたかった。
メリットとかデメリットとか、そんな動機で動いてない。はなからそんな行動原理を持ち合わせてない。
私が大事にしたかった。
たとえその場にいなくても。

でも現実はいつも真逆で
私はそれを邪魔する存在でしかない。
そのことがあまりにもつらかった。
つらくて屈辱的だった。

守れないなら、しあわせにできないなら、
私が生きている意味はない。
ずっと解放されたかった、
でもあの家が壊れたそのときから、
私の時計は止まっている。
悲しみもずっとここにある。

大事なものを守ること、
それ以外に何を生きるよすがとすれば良いのか。
わからないまま今もまだ、私の心は彷徨っている。

世界を漂う術は、だいぶん身につけたけれど。
どこか雲を掴むような虚しさが、ずっと心の奥にある。

みんなはそうじゃないのかなぁ。
私にはわからない。
知らないからって正当化するなと言われても、
知らないものはどう足掻いたってわからない。
知りたくて縋りついたのに、すり抜けたのはそちらのほうだ。
未だにそんなこと思ってしまう。
やはり私は自分本位だ。

自分の中にある本音のひとつひとつが、あまりにも矛盾して乖離していて、
結局どうしたいのか、どうすればいいのか
いつもわからなくなってしまう。

私は誰ですか?