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彬子様の求めるもの~本当に男系男子派なの?~

4月1日、今日は敬宮様の入社式があるのでしょうか。楽しみです。
ラブは住宅街への散歩コースに行けるようになり、嬉しそうです。
路地も決して間違わず、自分で決めた場所を曲がることに驚きます。
4か月近く来てないけれど覚えているもんですね。

今日は瑤子女王のお姉さまである、彬子女王について書こうと思います。

あまり興味のなかった私に、いきなり入ってきた彬子女王の情報は、篠原さんの動画配信した母娘の関係についてや京都での暮らしの問題でした。

これまで、彬子女王の周辺の人々や環境を理解することで、少しでも彬子女王のことが私なりに理解できればと思い書いてきました。

寛仁親王殿下を書いたときに、好きなことをとことん突き詰める性格かしら、と書きましたが彬子女王もそういう面がある印象です。
それが皇族の一員以外に、日本美術史の研究者としての彬子女王の社会的な立場でしょう。凄いのは10年かけて博士号を取られたことです。

どこぞの方のようにお金で買った博士号でも、研究対象というより興味の対象がころころ変わるということもないわけです。

あ、話がずれてく・・・

ウイキペディアに皇族として二人目の博士号取得、と書かれてるのには不満があるもので・・

彬子女王は留学を終えると京都に暮らし始めますが、研究対象を考えると当然のように思えますし、大学での教鞭も当然関西が中心になっています。

寛仁親王殿下が薨去される少し前2012年に、心遊舎という一般社団法人を立ち上げ名誉総裁となられています。

目的は、子供たちや次世代に生活に根差した日本の文化や芸能、伝統を継承するためです。

生活の中から生まれたものが伝統や文化になり、それを具現化したものが美術であることを考えると彬子女王の思いがわかる気がします。

ピラミッドの壁画に書かれている昔の生活や文化、土器に描かれる狩猟の様、浮世絵や着物に描かれる花や植物、建築物などなど・・・
日本の失われていく古くからの文化や伝統への危機感が、心遊舎立ち上げになったのでしょう。

いずれにせよ10年を超えて続けられ、田んぼ作りから始めてきた実績は
お遊びではないでしょう。

どこぞのボンが今度は稲だ、自然科学だと寝言を言ってるようですが、大学行くより彬子女王の心遊舎に参加したほうがよほど学べ、体も鍛えられそうです。

あ。また脱線・・・

戻しましょう。

彬子女王は父親っ子のようで、尊敬もしてるのでしょうね。
書籍などにも寛仁親王は多く登場しているようです。

成人になられた時の会見からは、この頃は親子関係はまだよか良かったのだと思います。お料理の話や寛仁親王殿下が話していたという
「100パーセントの障碍者も、100パーセントの健常者もいない」という障碍者観の影響を受けてることを語っています。

記者は失礼で、英国留学をされた皇太子さまや雅子妃、敬宮様の話を引き出そうと会見中盤はその話が多いですよ。

この会見で私が感じたのは、どこかバリアーを張って核心には触れないということでした。
父親のアルコール依存症と向き合う少女時代や思春期を過ごしてきたことを思うと、納得の会見でどことなく自信がないように思えます。

留学などを通して彬子女王の発言ははきはきとし、自分の考えを言葉にするようになったと思います。

野田政権時に検討された女性宮家問題について毎日新聞のインタビューに次のように答えています。

【彬子さまはインタビューで、国(政府・国会)に任せるしかないと政治的発言に関し控える姿勢を示しつつ、戦後に皇族の身分から離れた旧皇族の復帰案もあることを指摘。「今の議論は女性宮家を創設するかしないか(のみ)になっているような気がして、そこには違和感がある」と戸惑いを語った。
 また、結婚して民間人になるという前提で教育されてきたことを挙げ、「その前提が大きく変わるかもしれないというので、私自身落ち着かない状態です」と心境を吐露した。そして、結婚適齢期の女性皇族が増えることに関し「お相手の方の将来にも関わってくる問題です」として女性宮家問題の早期決着を望んだ。
 一方、皇室の将来については「国民のみなさまが皇室をどのように見ておられるか」「国民のみなさまが残したいと思われているか」にかかっているとし、自身が結婚後も皇族にとどまることについては「結婚後も公務をすることに抵抗はありません」と語った】。
                gooブログほそかわかずひこ氏より引用

この時に、決めるなら早く決めていただきたいとも答えており
これを竹田恒泰氏が煽り、早期決着が必要、彬子女王は女性宮家容認と話の脈絡から発言の一部が切り取られ騒ぎとなった・・ということがあったようです。

寛仁親王殿下が言っていた旧皇族復帰案も語っていることから男系男子派からするともってこいの人物となり、つけ入る理由にはなったであろうと思います。

実際に男系男子派かどうかは、これ以降の発言がなくよくはわかりませんでした。

ただ問題の京都市前市長の角川氏との写真などはありますし、日本美術コレクターとのかかわりなどもありそうです。文化庁も京都に移転しましたし・・・

利用してるのか利用されてるのかは、何とも言えないですね、まだ。

これだけはわかる気がします。
彬子女王が研究者の道に進んだことに大きく影響したのが、祖父の三笠宮崇仁殿下だったようで色々教えてもらったりもしたといいます。
ある意味、父親代わりの存在ではなかったでしょうか。

私には彬子女王が望むものが、男系男子というよりは三笠宮家の存続だろうと思えます。
母親の信子妃との確執から、宮家の当主は自分だと言いたいのだという方もいますね。
本来は信子妃が当主ですから。
男系男子というより彬子女王は長女ですし、祖父や父親との関係からも宮家の存続、ひいては皇室の存続が望みだと思えてなりません。

記事を書いてみて私には、彬子女王は誤解されてる面もあるように思えましたよ。

時間がたてばいつかは母娘の確執も、雪解けを迎えるのではないでしょうか?
彬子女王のお印は雪ですからね。

今日はここまで

    今日も読んで頂きありがとうございます。❤









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