老子とシッダールタとキリストと

道(タオ)について
タオは象ではなく物とありますが、これは象(現象)では無く物(場所)と解釈出来ます。ここに至るに様々な呪術がありますが、これは全て演出、目くらましてあると言えます。世の中は全てが太極(無極)より至りて64の卦に分かれるとありますが、太極の真ん中に立つとそれさえどうでもいい些末なことと見えます。タオに至る最大のヒントは道は目に見える道ではなく見えないもの、不老不死を目指すの2点にあります。実際の不老不死ならそれは目に見える道となる為、答えはノー、残されるは精神的な不老不死では無いかと結論が至ります。精神的な不老不死とは心が老いる事無く、また心が死ぬ事が無い境地、常に若くあれと言う事と考えられます(若くとは愚かしくとも違い、賢明である事も附帯文章の知を得ている事から推察)。若さとは向上心を忘れず、老成に落ち着かず、勢いがあり続け、放棄を知らず、学びを捨てず、天真爛漫である事と考えられます。また、附帯に自然であれと言うことも忘れては行けません。自然とは無理に目に見える自然と一体となるのではなく、無理のない姿勢を示します、肩の力を抜き、64の卦を些細な事と大きな心を持ち、反(流転)する世界を、老い腐ること無く常に試若く過ごす事こそがタオの言わるとする所ではないかと思い至ります。

シッダールタについて
世は四苦八苦であるから始まるように仏門の基本はマイナスです。ここを如何に心穏やかに過ごすかがシッダールタの言わるとする所でしょう。人は目の前の悲劇に一喜一憂しますが、これを個別の思い方、考え方で乗り過ごし、やがて全ては有意義でありながら無意味であると思い至るのが真意でしょう。仏門によく見受けられる禁欲は、単なるその場の問題からの逃げを禁じているだけで、大きな意味はありません。シッダールタの世界観はこの世の物質の儚さ、無意味さを強調します。同時に変なこだわりを捨てさせ、異常な生への固着の否定も強調します。合計していくと最低限の物でも満足出来て、また生きる事にムキにならず、死もまた数ある人生のひとつに過ぎないというダイナミズムに至り、自ずと自然体で安らかな人生へと変化していき、最終的には涅槃の境地に至る事が記されています。タオに比べると涅槃は老成した部分があり、折り合いを付けるのが難しいのが問題点です。

キリストについて
キリスト教は様々な奇跡と主の祝福に彩られ、祈りを中心とするイメージがありますが、それらは演出であり、主眼は他愛(アガペー)です。この他愛の境地は、全てに対し赦し、親切にあり、おおらかであり続ける事を主眼とします。自愛を中心としますが、他愛が優先され、共存できない場合は他愛が優先される動的な部分が見受けられますが、その必要が無い場合は自他共に生きる道を最優先します。キリスト教も禁欲が目立ちますが、これは目の前の欲望に溺れ、深遠なる愛の世界から遠ざかってしまう為に禁じているものです。また、仏門と同様に物質に対しては価値を見出さず心の豊かさに主眼を置く事も強調されています。仏門との差は苦難に対するアプローチが、この世は主の愛に満ちたプラスな世界な為、困難も主の愛ゆえの学びであり主を信じる心だけで根性で切り抜けろの一点張りで、四苦八苦に対するノウハウが残念ながら少ない点です。困難から学ぶ事は仏門にもありますが、仏門よりも何を学ぶかが描かれていません。死生観は死は生の対極と見る部分が多く、最後の審判までの睡眠と見なされます。アガペーが極限に至るとやはり肩の力が抜け、何事にも自然と微笑める状態になります

三名の結論は世界を見渡す大きな心を肩の力抜いて自然体で日々楽しく愛に満ちた生きるに至ります。

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