文玉珠さんの慰安婦収入に推定に関するまとめの試み

注意:資料9を参照して2022/9/9更新

元従軍慰安婦文玉珠(1924-1996)さんの慰安婦時代の収入に関して色々な独特な解釈が繰り広げられているのを見かけるので、まとめの試みをしてみる。

主たる典拠は『文玉珠(ムン・オクチュ)―ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私 (新装増補版)』文 玉珠【語り】《ムン/オクチュ》/森川 万智子【構成と解説・増補版解説】(2015年、梨の木舎)である。その他の主な出典は別途記事中に示す。また、『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集II―南・北・在日コリア編 下― (証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集) 』(2010/5/25)のp.109-131「文玉珠 二度も同じ目にあうなんて」に別途の証言の翻訳と森川 万智子による解説が収録されており、こちらにしか掲載されていない情報もあるのでそちらも用いて補完するのが望ましいと思われる。

間違いなどが分かれば今後訂正するかもしれない。

慰安婦時代の売上の大半は正規利用料ではなくチップであった。毎日の売り上げは原則としてそのまま管理者に全額渡されていた模様。時折管理者から慰安婦にお金(軍票/南方開発金庫券単位ルピー)が渡されていたが、(売上には管理者の取り分もあったのは前提としても)売上全体からするとわずかな額であった模様。

軍票は、名目上は日本円との為替レート1:1としていたが、現地ではインフレが終戦期に向けて続いてしまい、日本軍の現地での取引は実質的に1:1では行えなかった。他方個人の使用では1:1の建前を守ったので、南方でインフレして手に入れたお金を1:1で日本に送金できた場合はあった。ただし、軍票はそのまま持ち帰ることは原則として禁止されたし、そのまま持ち帰っても本国で使えるわけでもなかったので、何かしらの形で円に振り替えて送金に成功した場合にその金額を本国に持ち帰ることができた模様。送金には色々な制限が行われ、のちになるに従って制限は強化された。その概要は資料1を参照のこと)

文玉珠まとめ20220909

慰安所の利用料も、1943年頃より1944年後半の方が高かったとみられる(資料3)。軍人の給与も値上がりしている。朝日新聞記事「(慰安婦問題を考える)慰安所の生活、たどる 韓国の故文玉珠さんの場合 2016年5月17日05時00分」(リンク切れのため内容は別途確認ください)によると「現代史家の秦郁彦氏は「今なら1億円前後の大金」と主張。43年の勅令「大東亜戦争陸軍給与令」をもとに、二等兵は月給7円50銭、中将でも年俸5800円だった」としているが、昭和20年の日本軍の給与がわかった! 日本の給与史|北見式賃金研究所によると、名古屋陸軍造兵廠史・陸軍航空工廠史をもとに、1945年には二等兵は月給は甲で9円、乙で6円だが、ミャンマーでは戦地加算後は月給は甲で20円、乙で14円であり、かなり異なる。中将は賞与を除いた月給の12か月分は5800円余りであるが、賞与が別である上、ミャンマー常勤であれば、戦地手当は月給は435円上がる。

資料6:「日本軍慰安所 管理人の日記」(朝鮮人で当時慰安所の管理人としてミャンマーの滞在していた人物の日記。こちらも多数の資料と整合がよく、信憑性が高いとみられる。文玉珠さんの証言との相互の内容の整合も高い。念のための補足だが、文玉珠さん死亡の後に当時の日記が発見されたもので、相互に影響を与えている可能性はまったくない)によれば、明らかに慰安婦より恵まれた生活を送っている。そこに記された現地物価に関する記述をいくつか抜粋。記述を順に追うだけでもこの期間の中での物価が上がっているのは普通に読み取れる。

1943年2月9日、ラングーン周辺で確保した住居は一室月額25円とのこと。2月13日、中古自動車2台を2000円で購入。4月1日、工場家屋毎月500円で借りる。その保証金として1000円支払った。4月22日食堂の経営権と器材合わせて6500円で購入。5月29日新聞代月額2円50銭。9月7日南方開発銀行(南方開発金庫)にて弔慰金として釜山に500円送金。9月8日野戦郵便局にて日本円を現地の軍票へ換金を頼んだが断られた。10月31日洋服4件(上下)で355円。「昨年だとわずか4, 50円だったのに今は7, 8倍も高価だ」と。12月6日月給200円を受け取り、昨年本国に送金した2000円を受け取ったかを問う電報を送った。12月13日衣服生地を約 350 円余りで買った。12月20日偕行社タクシー部に出社し、勤務2か月なのに年末賞与200円を受け取る。12月23日黒色短靴一足と白色短靴1足を代金 120 円で注文した。1944年1月3日偕行社タクシー部で使用する木炭の配給券で受け取り、木炭5000斤を1斤当たり 8円 80 銭。1月4日、横浜正金銀行のシンガポール支店に行き、貯金 1,000 円を引き出し。第 9 回発行彩券(宝くじ)50 枚を 50 円で購入。1月30日購買許可を得た毛布 1 枚を 35 円。2月4日、「以前は行李一個が 15 円ないし 20 円だったものの、今は 65 円だ。」。2月27日「住宅を、家財道具も含めて代金 1 万 4,000円で買い入れると約束」。2月29日「横浜正金銀行で貯金 1,000 円を引き出し、そのうち 200 円は電信為替で故郷の弟夫婦に附送」。「物価が高騰し、財布一つが75 円だ」。3月21日「興南彩券 8 等(50 円)一枚が当選した。」。3月26日(同日からしばらくはシンガポール滞在時のもの)「今日は日曜日であるためか、倶楽部の収入が 1,600 円余りもあった。倶楽部を開業して以来第一の最高収入だという。」。4月14日「横浜正金銀行支店に行き、今般帰郷した李○玉、郭○順の二名に対する送金を済ました。」。4月29日「今日は天長節の慶祝日であり、軍人の外出が多く、倶楽部の収入は 2,450 円余りに上り、開業以来の最高記録だった。」。4月30日「今日も軍人の外出が多く、昨日の最高収入記録をはるかに越え、2,590 円余りの最新記録だ。」。5月4日「横浜正金銀行に行って家内に金 500 円を付送」。5月15日「5 月からは内地への送金も郵便局で取り扱うようになった。」。5月16日「家内から 500 円の振込みを受け取ったという電報が来た。」。5月22日「ステッキ(藤製)一本を代金 30 円で買った。」。5月29日「眼鏡一つを 105 円で注文した。」。6月12日「横浜正金銀行の支店に行き、金川○玉の送金許可書を貰ってきた。」。6月14日「朝食後、横浜正金銀行に行って、帰郷した金川○玉の送金をした。」「中央郵便局から大邱の家内に 600 円の電報為替を送金した。」。6月20日「代金 750 円で腕時計を買い受ける約束をした。」。6月26日「電気料の予納金で 250円も支払った。」。6月29日「大邱の家内に送金して半月が経ったのに、まだ受け取ったという電報がない。」。7月27日「正金銀行に行って稼業婦の貯金」「故郷の舎弟、○○に 300 円を送金した。」。10月24日「大邱の家内に 600 円を送金した。」。10月27日「慰安婦の金○先が送る送金 600 円を、本人の貯金から下ろし、中央郵便局で附送した。」11月24日「正金銀行に金○守の送金許可申請を提出し、中央郵便局で李○鳳の送金をした。」「故郷の舎弟○○が送ったものだった。手紙の内容は、送金は 2 回も受け取った」。



資料1:「京都大学経済学研究科東アジア経済研究センター News Letter 2015年2月23日発行 第558号 東アジアの歴史認識の壁 京都大学経済学研究科教授 堀 和生」より抜粋(2/5 555号の再掲)

文玉珠まとめ資料1

資料2:マレーのものだが、強制貯金を指示する規定

文玉珠まとめ資料2

資料3:1942年から1943年半ばまでについての各地の慰安所の価格については資料2と同じ資料中にあるので適宜参照のこと

資料4:雲南・ビルマ最前線における慰安婦達ー死者は語る

ビルマ戦線のミナチで1944年に捕虜となった朝鮮人慰安婦(捕虜にされた時には看護婦)を米軍が聴取した部分

文玉珠まとめ資料4

資料5:第二次世界大戦における日本赤十字社の衛生支援 ―ビルマ派遣救護班にみる制度と実態―

文玉珠まとめ資料5


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