【早大負け研会誌】負け、青春ヘラ、感傷マゾ【試読】

 こんにちは、負けヒロイン研究会です。PDF版の販売に先立ちまして、会誌内の差し替え箇所についてnoteで公開させていただきます。ただし内容に大幅な変更はございませんので、どちらの版でも問題なくお楽しみいただけます。ご了承ください。

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はじめに

こんにちは、senです。

本文は早稲田大学負けヒロイン研究会会誌『Blue Lose vol.1』に寄稿した、「負け、青春ヘラ、感傷マゾ──戯言シリーズから〈物語〉シリーズへ」の要約&4節の試読です。

いかんせん長い記事なので、大まかな流れをここに記しておきます(読むの疲れるしね)。4節については文章がぎこちないため、ここに改稿版を公開させていただこうと思います(「つまり」使いすぎ…読みづらくてすみません)。

解説、要約


1~3、セカイ系と自意識

本論ではセカイ系を「肥大した自意識の器」と捉えており、それは思春期の「負け=〇〇したことがないこと=アイデンティティ」、すなわち青春ヘラ的アイデンティティを受け止める機能があることを指摘しています。

東京喰種に象徴的なのですが、「この世の不利益は全て当人の能力不足」という台詞があり、これは裏を返せば「自分の影響力は全世界に及びうる」という傲慢とも読めますよね。戯言シリーズの主人公もまさにそういう感じなのです。

青春ヘラ的なアイデンティティもまた、(無意識にせよ)こうした「自己が無限に開かれている」ことを担保に「負け=アイデンティティ」を可能にしているのです。

とてつもなく嫌味な言い方で分かりやすく言えば、「どっかで取り返しがつくと思ってない?」という感じです(僕にも効いてます)。

自身の有限性を、まだ自覚していないのです。

4、感傷マゾへ

「負け=アイデンティティ」の図式が「後悔=取り返しがつかないことの自覚」によって失効することを論じています。青春ヘラから感傷マゾへ、という図式です。

裏から言えば、「後悔した時点で失効する」という点において、青春ヘラが「無限への開かれ」を担保にしていたことが説明できるとも言えますね。

青春が終わって、自分の人生の先がある程度見えてくる。そうすると、青春ヘラ的アイデンティティが後悔という形をとって回帰してくるのです。

つまり「後悔=取り返しがつかないことの自覚=自身の有限性の自覚」とも言えるでしょう。

青春ヘラ的アイデンティティのツケと言いますか、「自己を語るフェーズにおいてそもそも語ることが何もない状況に当惑し、好きなキャラクターに糾弾されることにより自己を規定する」というギリギリの身振りが、感傷マゾなのです。

「何もしてこなかった=カッコいい=自己愛」から「だから僕は駄目なんだ…=マゾ行為による自己確認」にシフトする感じですね。被糾弾というマゾ行為を通した形でしか、「自己」を認識できないのです。

感傷マゾの詳しい構造についてはこちらに記しました。

5~7、〈物語〉シリーズにおける「青春ヘラ的アイデンティティ」の反省

ここでは〈物語〉シリーズの主人公阿良々木暦が、青春ヘラ的アイデンティティを反省するまでを描いています。

西尾維新の成長モデルは「異常=天才=幸せになれない」から「普通=凡人=幸せになれる」であり、その異常性は「思春期の一過性のアレ」によく似ていることを指摘しています。

「私の周りでは異常ばかり起こる、僕は不幸だ」というアイデンティティに対して、「それは君の全能感の裏返しだ」という反省が下されるのです。

8、現代社会の行動モデルと「負け」の機能

「現代は理想過多である」という指摘から始まります。アニメやラノベやドラマなどの再生産が加速し、インスタやTwitterなどで「バズ」が可視化され、日々行動モデルに登記される時代。

「キラキラした」「アオハルな」虚構像もまた、データベースに配置されていることでしょう。そこで我々は、「もしかしたら(行動モデル=理想像)」と「ありえない(虚構)」の間でダブルバインドに陥るのです。

だから「今日も何もできなかった」と鬱になるのです。その鬱が「私は何でもできる」という万能性の裏返し(無限への開かれ)である可能性を、もう一度検討しなくてはならないでしょう。

そこで「負け」の取る戦略は、『ひとまず』現状を肯定してみるのです。「今日はなにもできなかった」「一日中寝ていた」「僕にはなにもない」に対して、ひとまず肯定してみること。

「バズ」「アオハル」などといったキラキラした行動モデルが溢れるSNSに、「こんな感じだけれど、まぁ生きている」といった「負け」の行動モデルを登記してみるのです。

勇み足で言えば、それはオルタナティブとして機能するのではないでしょうか。





以下、試し読み分です。

4.青春ヘラから感傷マゾへ、有限のほうへ

では、青春ヘラと感傷マゾに横たわる差異はなんなのか。以下からは、わく氏の座談会[1]を敷衍しつつ進めよう。

結論から言えば、〈被糾弾〉があるかないか、つまりマゾ行為があるかないかがその差異である。そうした差異を語るための参照軸として、「無限」「有限」という概念を導入しよう。後にささやかな解題を行うが、無限はすなわち世界であり、ライプニッツやスピノザのイメージから借用している。簡潔に述べてしまえば、青春ヘラは「無限」を担保に「負け」続けている状態であり、感傷マゾは自身の「有限」性を受け入れた状態である。さらに卑近にいえば、その差異は後悔の深度である。あるいは過去への距離である。

幾度も述べてきたように、青春ヘラは「ないこと」がアイデンティティに直結する。自己と「ないこと」がイコール関係で結ばれるのである。さて、素朴に問おう。何故そんなことが可能なのか? 一つの答えとしては、それで自分の個性を獲得した気になっているからだ。そしてもう一つの答えとして、「取り返せないことを体感していないから」、つまりまだ自分は無限に開かれていると錯覚しているからだ。

青春ヘラは、即効性がある。その場で即席のアイデンティティを構築できるのである。後悔よりも(あるいは後悔と相補的に)アイデンティティ構築を優先するのである。時期で言えば、青春ヘラは中学生、高校生当時にも発症しうる病であるということだ(むしろ、そうした時期に罹患しがちであるがゆえに「青春ヘラ」なのだろう)。

素朴な話、高校生には未来がある。選択肢がまだ目の前にあり、人生は豊かに分岐していく。文理選択、志望校の選択、勿論卒業後就職してもいい、なんなら旅に出ても…は冒険しすぎるにしろ、そうした可能性が,無限が広がっている、ように見える──勿論こうした「未来」「可能性」などは事後的な承認に過ぎないということを後々になって振り返ることになるわけだが。簡潔に言えば、共不可能性を体感していないのである。

そうした「無限」の軸とパラレルに論じることができるのが、先述した「肥大化した自意識」だ。自意識的セカイ系においては、主人公自身が世界に与える影響に自覚的なのだった。世界という無限に開かれている領域に、無制限に影響を及ぼすことができると考えること。これは自覚的にせよ無自覚的にせよ、まだ自分が無限に開かれていることを前提とするメンタルに近しいと考えられないだろうか。ここにおいて、「肥大化した自意識-自意識的セカイ系-青春ヘラ-無限=世界への開かれ」というラインが提示できる。自意識的セカイ系主人公と青春ヘラ発症者との差異は、それが実際にセカイに対して無限に影響力があるか否かであろう。図式的に言えば、肥大化した自意識を抱える青春ヘラ発症者は、その行き場がないために自意識的セカイ系を器として使うのである。無限を担保にしながら行為を諦めアイデンティティに転化した青春ヘラは、世界という無限にその影響力を以てコミットする自意識的セカイ系主人公に自己を重ねることで代替的に、あるいは補填的に欲求を満たすのだ。

これと対比的に、あるいは事後的に語ることができるのが感傷マゾだ。感傷マゾは、後悔に深さがある。感傷マゾは、「負け」続けてきたことがらを「取り返せないことを知」った、そうした有限性を体感した人間が発症する防衛機制だ。あるいは、最後の自己肯定としての切迫した身振りだ。

感傷マゾの大きな特徴として、イマジナリーなヒロインに糾弾されるという〈被糾弾〉があるが、僕はそれを「再帰性[2]の中断/語りの場の立ち上げ[3]」としている。再帰性の中断とは、「自分はなぜ生きている」「なんでここに存在するのか」といった解決し得ない問いが──かつては「神が存在するから」「お国のために/社会のために生きるから」という大きな物語によって解決されていた問いが──ループバック(再帰)する状況[4]を、イマジナリーなヒロインに中断してもらうことだ。ヒロインは、例えばかつては「ないこと=アイデンティティ」としていた自己の状況を咎める。「誰に止められたわけでもないのに何故挑戦しなかったのか」「だから僕は駄目なんだ…」そうした攻撃性をヒロインに委託し糾弾してもらうことで、そこでは「ダメな自分」がメタ的に意識される(直接アイデンティティに転化されるわけではないことに注目しよう)。つまり、最早「ないこと=アイデンティティ」の構造が「後悔」という点において失効したことで、「ダメな自分を糾弾されてメタ認知する」という方向性に転化するのである。

最早、中学,高校時代は過ぎた。大学に入学し、就活を控えるにつれて、自身の将来の見通しがある程度つくことになる。それは現実的な見通しであり、サッカー選手,医者,宇宙飛行士,音楽家…などといった無限の選択肢はもはや開かれていない。勿論今からでも以上に挙げたことを目指すことができようが、そうするとある程度の安定は捨てることとなる…。このように、人生の有限性にある程度自覚的になり、「ないこと=アイデンティティ」の副作用である「取り返せない性」を自覚した途端、防衛機制的に発症するのが感傷マゾなのである。自己を自己として確認する術が、最早痛みによってしか方法が無い。そんなギリギリの自己肯定の、道化師にも似た身振りこそが最後の砦なのだ。

「語りの場の立ち上げ」についても、「再帰性の中断」と相補的な関係にある。アイデンティティを確立するためには、来歴を──自分の人生を──語り自己確認しなければならない。ただ、「ないこと=アイデンティティ」を内面化していた場合、そもそも自身の青春に語るべき物語は文字通り、ない。不在なのである。そうした語ることが何もない青春をナラティブに語り直すためには、最早〈被糾弾〉という形式をとらざるを得ない。「エアコンで室温が28℃に保たれた自室の床に寝転がって、スマホでtwitterやyoutubeを見ていたら何の思い出も作れずに終わっていた現実の自分の青春」[5]に意味づけをするには、それを糾弾される形で強引に語りの場を立ち上げるしかないのである。「存在しなかった青春への祈り」[6]は、こうした身振りを経て幽けく達成されるより他はないのだ。

以上、青春ヘラと感傷マゾの移行過程について、「無限」「有限」という参照軸から論じてきた。「ないこと=アイデンティティ」は自己が無限に開かれていると無根拠に──自覚的にせよ無自覚的にせよ──信じることができる青春当時に起こりうることであり、その点でまさに青春ヘラなのである。その地点を通り過ぎ、「取り返せない」という有限性を体感すると、その後悔から「ないこと=アイデンティティ」の形式は失効し、〈被糾弾〉という形式で強引に語りの場を立ち上げてメタ認知する感傷マゾへ移行するのである。



[1] 感傷マゾvol.01 『四周年記念座談会』かつて敗れていったツンデレ系サブヒロインhttps://note.com/kansyo_maso/n/n365a0a449a89

[2]『国民国家と暴力』アンソニー・ギデンズ、訳:松尾精文,小幡正敏、而立書房、1999、p20~27

[3]『ライフストーリー分析──質的調査入門』大久保孝治、学文社、2009、参照

[4]『集団と組織の社会学』山田真茂留、世界思想社、2017、p11

[5]『感傷マゾvol.01【紙版】』説明文より かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン https://booth.pm/ja/items/1166627

[6] 同上。

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