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ドールとヴァーチャル

あなたにとって、ドールとはなんですか?
と問われたならば

「私の内部にある美しさへの憧憬の表象」

と答えるだろう。


1.ドール愛好者達


ドール愛好者のそれに対する態度は大まかに言って二つに分けられる。
ウェットと呼ばれる人はドールを人のように扱い、
それに対して様々なロールを振り分ける。
もう一つ、ドライと呼ばれる人達はドールを物として扱い、
自己の外へおく。
私自身はウェットよりのドライとでも言うべきか、
「ドールと自己は別体であるが行為により関係が構築されている」
と思っている。
私がドールに手をだした切っ掛けは単純に、
ある一枚の写真に惚れ込み強く所有欲を刺激された事だった。
今にして思えば自分の想起する美しさを表現できる手段である、
という確信もあったように思う。
その手段としてドールは果たして相応しいものか?
という疑問も同時にあった。

2.道具的存在としてのドール


根本的に私の所有するドールはすべて他人の手により作られたものである。
それを手続きにより所有するに至っただけの関係である。
それがどうして自己の美を表出するに足るのか。
根本的にドールはあくまでも私の外にあるとみれる。
果たしてそれは事実だろうか?

私はそれを是として購入するにあたり、
まずはそれを自己の内部へと落とし込み評価する。
その上で購入し、自己の所有物とする。
そして様々な角度から内観、観察し、そぐう装いを揃え、
瞬間を演出し、切り取ることにより
ようやく私の内にあった美を表出せしめるわけだ。
こうして検討みると絵心のない私にとって
ドールは画筆と言えるのかもしれない。

3.アウトプットの共有により生まれるもの


そうしてアウトプットされた私の中のイメージを画像データとして
他者と共有する時、ドールにvirtualtyが芽生える。
私の内に想起された概念を外部へと出力することにより、
自己の存在的局所性を打ち破っているわけだ。
また写真が他者に評価されることにより
そのvirtualtyは空間的な広がりを持つ。

私がヘンリー・ダーガーの作品を評価する。
その時、時間と空間を飛び越して
私とヘンリー・ダーガーの間に関係性が構築される。
それは個々の間に収まるものではなく、
複数の評価者との相対的な関係を持つことにもなる。
作品を主軸として複数の評価者との関係を
考えたなら相対的な関係となる。
作者という始点から価値観を共有する繋がりは、
他の作者との繋がりをもって更なる広がりを見せ、
それはシステムに依らないvirtual空間とでも
呼ぶべきものを形成するに至る。

4.virtualに付随する性質=virtualty


ヴァーチャルとはなにも電子的なものではない、のかもしれない。
極身近なものにもそれは宿っており、私達はそれを通して
世界内に既に存在する可能性を確認することができるわけだ。
それは肯定/否定のいずれであっても
一つの価値観の相対的な見方に過ぎない。
実はvirtualtyとは私達の実存的な在り方に由来するものである。
それはヴァーチャルという手段にのみ現れる性質ではない。
「私」のアウトプットを「あなた」にインプットする。
その単純な手続きをヴァーチャルとするならば、
その時に付帯する様々な要素を称して私はvirtualtyという。
その細かい性質については他の文章に譲ることにする。


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