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アフリカン・カンフー・ナチスと言うドキュメンタリー

 映画 アフリカン・カンフー・ナチスの製作費は、その映画パンフレットやネットのセバスチャン・スタイン監督のインタビューによるとおよそ200万~300万円と言われている。そのうちの100万円は前金で見も知らずのガーナへ送金されたそうだ。
 セバ監督は二日酔いの頭で、アフリカン・カンフー・ナチスのシナリオを思いつき、その恐るべき実行力でガーナに渡り映画を一本撮りあげてきたとパンフやインタビューからは読み取れる。その自分のしたいことを叶える勇気と実行力は尊敬に値する。
 しかし、本稿では少し意地悪な視点からセバ監督の行動と真意を読み取りたい。

 やはり、疑問に思うのは「映画を撮りたい」と思ったからと言って100万円をポンと払えるかと言う点である。常人ではまずためらう額だ。正常な思考であれば下さない判断だろう。まさしく英雄か狂人でなければできない判断である。
 ではセバ監督の判断は英雄のそれだったのだろうか。はたまた狂人の酔狂だったのだろうか? 熱心なファンの一員としてはセバ監督を英雄、もしくは狂人を見る目で見ていたい。しかし、ここではあくまでもセバ監督を等身大の人間として見てよう。

 「映画を撮りたい」と言う個人的な希望だけではこのガーナまで映画を撮りに行くという行動は割に合わない。おそらく、その裏にはリスクを保証するものや別の利益があるはずだ。
 セバ監督はドキュメンタリー監督である。だとしたらセバ監督のガーナ行きは「映画を撮るため」ではなく、ユーチューバー風に言うと「100万円振り込んでガーナで映画を撮ってみた」なのではないだろうか。
 「映画を撮る」が主目的なのではなく、その過程のドキュメンタリーを撮ることこそがセバ監督とその所属するVICEの目的だったとしたらその行動に合理性がつくだろう。例え、ガーナで撮られた映画がまったく振るわず誰の目にも止まらなかったとしても、また、なんらかのトラブルで映画撮影が完遂しなかったとしても、それをドキュメンタリーとして一本の作品にしてしまえばそれで目的は果たされる。ただ「映画を撮る」よりもリスクはグッと下がるのだ。
 実際に2020年2月にはアフリカン・カンフー・ナチス撮影のドキュメンタリーがYoutubeで公開されている。


 AmazonPrimeでアフカンが公開されたのが2020年12月だったことを考えると、先行試写会があったとは言え、ほとんど知る人のいない映画のドキュメンタリーを公開すると言うことは、主がドキュメンタリーであり副が映画なのだと考えることができるだろう。

 セバ監督にとってアフリカン・カンフー・ナチスとはガーナでの映画を撮ると言う冒険行為のドキュメンタリー作品なのではないか。

 そしてそのドキュメンタリー作品はまだまだ製作途中である。今は、ガーナで撮られた実験的映画が実社会に及ぼす影響について、セバ監督は静かにモニタリングをしているのであろう。
 映画の反響は十分にあった。一部のコアなファンも現れネットで話題にもなった。そして全国単館系映画館で上映されるようにもなり、Blu-rayとしても発売されるようになった。
 アフカンは観るだけではなく、感想を述べたり、考察したり、なんらかのアクションを起こすことによって楽しむことができる作品になっている。自分自身でアクションを起こさなくてもアクションを起こしている人物を眺めるだけでも楽しめるだろう。
 他の作品でも同様の事が言えるが、特にアフカンはその傾向が強いように思える。どこにその仕掛けがなされていたか、私にはわからない。もしかしたらセバ監督本人にもわからないかもしれない。

 アフリカン・カンフー・ナチスはその映画そのものだけではなく、それを取り巻く環境まで含めた作品と言えることができるだろう。それがアフリカン・カンフー・ナチスと言うドキュメンタリー作品なのである。今なお続くドキュメンタリー作品なのだ。

 ガーナで撮られた作品の影響が、どんどん輪をかけて波紋を広げていく。その反響をセバ監督はほくそ笑みながら見ているのではないだろうか。


                    2022年4月9日 まけいぬ



(見出し画像はhttps://twitter.com/Ghanarians/status/1493904203881725953より使用させていただきました)


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